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青の旋律  作者: 一宮 集
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第一話

その日のGigも、無事に終わった。

客の入りは上々、ノリも上々。

熱狂の余韻を残したステージでは、メンバーが黙々と機材の撤収を始めている。


「随分、調子良さそうじゃないか?」


(めい)は、にこやかに話し掛けた。


「まあね。リハビリがきいたかな」


グランド・ピアノの蓋を慎重に閉めながら、(あきら)が答える。

はにかんだ笑顔は、好調の証だ。


「珍しく、リクエストに応えたりして。まるで、明じゃないみたいだ」


「僕だって、たまにはそういう気分の時があるさ」


「照れることないよ。大人になったなと思って」


「少しはサービスしないと。一応、ここの看板だからね」


そう答える美貌のピアニストの横顔を、彼は感慨深く見詰めた。

18歳で日本に帰ってきて以来、彼女は様々な不遇を経験してきた。

傍で見ていてはらはらするくらいに。

しかし。

明は何とかそれを克服し、この世界で新たな基盤を作り始めていた。

ようやくその実力が認められてきたのである。



カウンターに残されたグラスを集めながら。

彼はおよそこの場所に似つかわしくないものが、ぽつんと残されていることに気付いた。


「あれ?」


「どうしたの」


「絵の具だよね、これ」


「見せて」


明はつと立ち上がると、彼の指からそれを引っ手繰る。


「アクリル絵の具だよ。セルリアン・ブルーか」


「へえ。じゃあ、絵を描く人なのかな」


「何の話?」


「カウンターの。ほら、"Blue In Green"をリクエストした」


「ああ。なるほどね。だからあの曲だったのか」


彼女は妙に納得して、その絵の具をカウンターに戻した。


「まだ20代前半かな。なかなかの美人だったよ」


「ふうん。意外と、銘さんの好みなんじゃない?」


「いや、そういう訳じゃないけど」


「新しいの、作っちゃえば? 修子(しゅうこ)さん、しばらく帰って来ないんでしょう?」


「そうはいかないよ」


「ほんっと、融通がきかないって言うか。真面目なんだよね」


氷とグラスを受け取りながら、彼女は、揶揄(からか)うように笑った。



昔から、明は自分のことを"僕"と呼ぶ。

音楽の世界にあって、女扱いされることが許せないかららしい。

彼女には他にもいろいろな(こだわ)りがあるのだ。



洗い物を済ませた頃、ステージ前の丸テーブルでは打ち上げが始まっていた。

4人は乾杯し、大いに気炎を上げている。

今日は、サックス奏者の内藤圭介(ないとうけいすけ)を交えたカルテット。

ベースに松尾葵(まつおあおい)を迎えた若手ばかりのバンドだが、ここ最近人気が出て来ている。


カウンターの内側から彼等を優しく見守っている銘自身も、優れたベーシストだ。

病気がちのオーナーに代わり、この店を取り仕切るようになってから、ステージへ上がる回数はめっきり減った。

しかし、まだ現役を退いたつもりはなかった。

他のベーシストが穴を開けた時は、彼がその代役を務めることになっていたから。



明が言うように。

彼の恋人は、ここから遥か遠い場所にいた。

去年北海道大学に入学することが決まった彼女は、東京から札幌へ引っ越したのだ。

別々に暮らすようになって、すでに、1年と5ヶ月が過ぎた。


その間。

彼は決して、彼女を忘れた訳ではない。

しかし、離れている間に、嫌でも記憶は薄れていく。


そんな自分を、彼は何処か不如意に感じていた。

その落ち着かなさを取り払うようにして、煙草に火を点ける。

弱りかけた心臓に悪いことは知っていたが、どうしても止められないのだ。



その時。

店の電話が鳴った。


反射的にBGMのヴォリュームを落とし、煙草を揉み消しつつ。

彼は、受話器を取る。


「はい、Riotです」


「…あの」


「はい?」


「先程、そちらに…」


相手は若い女性のようだった。

しかし、その声は小さくてよく聞き取れない。

彼は子機を耳に当てたまま、バック・ルームへ移動する。


「すみません。ちょっとお電話遠いんですが」


「あの、わたし…忘れ物をしてしまったみたいで」


その言葉で。

ようやく思い出した。


「ああ、絵の具ですよね?」


「ありましたか?」


「はい。こちらでお預かりしています」


「良かった。明日、取りに伺ってもいいですか?」


「ええ。いつでもいいですよ」


「お店は何時からですか?」


「平日は、午後1時から開けています。でも、俺はいつでもいますので」


「じゃあ、明日の午後伺います。失礼ですけど…」


「あ、郁崎(いくざき)です」


「郁崎さん…わたし、アヤです」


「アヤさんですね。じゃあ、明日、お待ちしてますね」


話し終わって、電話を切ったあと。

彼の中には不思議な感触が残されていた。

以前にも聞いたような声、その話し方。

何かが記憶とシンクロしつつあった。

しかし。

それが何かを思い出すのには、時間がかかりそうだった。


彼はカウンターに戻り、絵の具を手にする。

それからメモを取り、ちょっと迷ってからこう書き記す。

絵を描く人に相応しい字を、彼は無意識に選んでいた。


<8/30、彩さん>


それをチューブに貼り付けたあと。

彼はその絵の具を見ながら、失われた記憶を何とか取り戻そうとしていた。



「銘さん!」


不意に、明が叫んだ。

彼ははっとして、振り返る。


「音楽。忘れてるよ」


「あ、すまない」


慌てて音量を元に戻すと、JBLのスピーカーが再び息を吹き返す。


その圧倒的な音の洪水を浴びながら。

彼はようやく思い出した。

3年前。

彼女と、この店で一度会っていたことを。

 

 

 

 

 

 

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