ワンと泣く猫
タケさんは、レトリバーの老犬だ。
25年前に子犬だった頃、竹藪で泣いているところを佐々木家のお母さんに拾われた。
名前はそのまま、竹藪のタケさん、になった。
その頃、佐々木家のお母さんは結婚3年目で、お父さんの会社が用意してくれた社宅に住んでいた。
動物を飼うのは禁止だった。
でも、お母さんは「引っ越ししてでもタケさんを飼う!」と主張した。
会社の手前もあるし、と反対するお父さんを、最後は泣きながら説得した。
お母さんは、タケさんにだけ話したことがあるのだが、
なかなか赤ちゃんができなくて心が疲れていたそうだ。
「タケさんの顔を見ると元気が出るのよ」と言っていた。
そうして、佐々木家は以前より駅から少し遠いところに引っ越した。
古い(レトロ)な庭付きの一軒家が、運良く格安で貸し出されていたのだ。
安いだけあってあちこちぼろぼろだったが、「日当たりがいいのよ!」とお母さんは上機嫌だった。たくさんの段ボールを片付けるより先に「庭に犬小屋が置ける!」と張り切って、
釘があちこちから顔を出す三角屋根のケンさんのお家を作ってくれた。
(後にお父さんが、お母さんに内緒で釘を打ち直してくれた。)
とにかく佐々木家は夫婦とタケさんで新しい生活を始めた。
その家には近所に小学校があって、タケさんは通学途中の子供たちに大人気だった。
とても大人しい性格だったので、子供たちが少々ご無体なこと(耳を引っ張る、尻尾を強く握る)などしても、「ワン」とも吠えることはなかった。
ただ、「キュゥーン」ととても切なそうに泣くので、子供の中でも正義感の強い子に守ってもらえた。
その子は奈々ちゃんという女の子。
「タケさんの耳を引っ張っちゃダメ!自分だって耳を他人に引っ張られたら痛いでしょ?」
「タケさんの尻尾を握っちゃダメ!尻尾は、人間で言うとどこかしら…そうね、チンチンを引っ張られちゃ嫌でしょ?」
(尻尾はチンチンではないな…)とタケさんは思ったが、奈々ちゃんがあまりにも真剣に言ってくれるので、それでいいことにした。
奈々ちゃんは佐々木のお母さんとも仲良しで、よくお家に上がってオヤツをもらったりした。
お母さんは、「奈々ちゃんみたいな娘が欲しいわ」と呟いていた。
そして、引っ越してから2年目、お母さんに赤ちゃんができた。
奈々ちゃんはとても喜んで、少し寂しそうな顔をして、「佐々木のお母さんみたいなお母さんが欲しかったな」と呟いた。
タケさんは、事情はよく知らないが、奈々ちゃんが彼女のお母さんと歩いているところを見たことがなかったので、そういうことなんだろうなと思った。
「タケさんも、お母さんもお父さんもいないんだよね」と言った奈々ちゃんが泣いていた時があった。
でも、その涙はケンさんしか知らないんだ。
タケさんが拾われて10年目、お母さんの赤ちゃんは7歳になって、赤いランドセルを背中に背負うようになった。
赤ちゃんは照子ちゃんといって、とてもとても大人しい子。
お母さんは、「照子にお友達できるかしら」と、幼稚園の時も小学校の時も、その後中学校、高校、大学といつも心配していたほどだ。
願いも虚しく照子ちゃんにはあまりお友達はできなかったけど、タケさんと年上の奈々お姉さんだけは仲良しだった。
奈々お姉さんはずいぶん年上だったので、高校や大学は遠くに行ってしまったけど、帰ってきた時には必ず会いに来てくれた。
そして20年目、奈々お姉さんが結婚の報告をしてくれたと同時に、照子は大学に合格して家を離れることになった。
照子は、家を出る朝、タケさんにしがみついて、「ありがとう、ありがとう」と大泣きした。何故かお父さんもお母さんもタケさんに「ありがとう、照子の友達でいてくれてありがとう」と大泣きした。
タケさんは、「そんなにたいしたことしてないのにな、ただ一緒にお散歩して、お話を聞いて、おやつを食べたりしただけなのにな」と思った。「あ、もしかして一緒にかけっこしたことかな」とも。
またお父さんとお母さんとの暮らし。20歳の犬のタケさんはすっかりおじいちゃんになっていた。
いつの間にか近所の子供の数も減り、通学の時の賑やかな声が小さくなってきていた。
それでも数少ない子供たちはタケさんが大好きで、見かけると「タケさーん」と呼んでくれる。
その中で1人、タカちゃんという男の子がいた。
男の子だけど色が白くて細くて可愛い子だった。
その子には涼ちゃんというお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんが大好きなタカちゃんはいつも後をくっついていた。
ある雨の日、もう暗くなってきた時刻、タケちゃんが傘も刺さずに泣きながらタケさんのところにやってきた。
タケさんは心の中で問いかけた(タカちゃん、どうしたの?)と。
その言葉がタカちゃんに聞こえたわけではなかっただろうが、タカちゃんは答えた。
懐から「ミャー」と泣く小さな生き物を差し出しながら。
「あのね、子猫を拾ったんだけど、お母さんが団地だから飼えないって言うんだ。捨ててきなさいって言うんだ。
でもね、今この子を捨てたら、絶対死んじゃうんだ」
すぐ後にお姉ちゃんの涼ちゃんも来た。2本の傘を持って。
「タカちゃん、残念だけど子猫は飼えないんだよ。ウチは団地を引っ越すこともできないし…」
タカちゃんがうわーんと大声で泣くもんだから、涼ちゃんも我慢できなくなってうわーんって泣いた。
その声を聞きつけて、お母さんが家の中から飛び出してきた。
お母さんは2人を家の中に入れてやりタオルで拭いて、ジュースとお菓子を出しながら訳を聞いた。
え?お母さんはどうしたって?
決まっている。
その2人と同じことを、お母さんは20年前にお父さんにしているんだから。
というわけで、その日から小さな猫は佐々木さんちの家族になった。
背中の模様がイノシシの子供の瓜坊に似てるから、「ウリちゃん」。
ウリちゃんが来てから、佐々木家はまた少し賑やかになった。
連絡も少なくなっていた照子ちゃんは、ウリちゃん見たさに毎日テレビ電話してくるようになったし、
タカちゃんと涼ちゃんも、学校の行きも帰りもウリちゃんを見に来た。
ウリちゃんはとんだ暴れん坊で、周りの人間とタケさんはしょっちゅう引っ掻かれて傷だらけになっていた。
その割には体も弱く、動物のお医者さんに夜中駆け込むこともしょっちゅう。
でもみんな、ウリちゃんのことが大好きだった。
ウリちゃんはタケさんが1番好きで、いなくなったとお母さんが探せば必ず犬小屋にいた。
ウリちゃんが「なんだか寂しいな」と思った時は、タケさんの柔らかいお腹で暖まった。
タケさんも、小さくて可愛いウリちゃんが大好きだったが、もうおじいちゃんなので一緒に遊ぶというよりは、目を細めて見守っている感じだった。
タケさんが尻尾を少しフリフリすれば、ウリちゃんはしばらくそれを追いかけて遊ぶし、散歩には大嫌いな寒い日でも必ずついてきた。
ある時、ウリちゃんが少し有名になったことがあった。
それは、「ワンと泣く猫」だからだ。
普段はちゃんと「にゃー」と泣くのだが、たまに「ワン」と、犬みたいな声を出す。
お母さんがその様子をビデオで録画した映像が地方テレビで流れ、「きっと犬と一緒に暮らしているからでしょうね」と番組の司会の人が言っていた。
「何と言ってるつもりなんでしょうかねぇ」とも。
タケさんにもウリちゃんの言葉の意味は分からなかった。
ただただ、「ワンって泣いて可愛いなぁ」とは思っていたけど。
25年目。
20年目から色んなことがあった5年間だった。
奈々ちゃんは結婚して赤ちゃんを連れてきた。何故か赤ちゃんに向かって「タケちゃん」と呼んでいた。
照子ちゃんは就職した。好きな人も、友達も出来たってお母さんに報告した時、お母さんは声を上げて泣いていた。
お父さんは、3年前に厄介な病気をしたものの、手術して今は元気。
「早期定年したいけど、照子が結婚するまでは頑張る。いや、孫ができるまでは…いや、孫が小学校に上がるまでは…」と、タケさんの横で晩酌しながら呟いてた。
タカちゃんと涼ちゃんも大きくなった。
相変わらずタケちゃんはお姉ちゃんの後ろに引っ付く甘えん坊だが、身長はそろそろ追い抜きそうだ。
この頃タケさんはよく寝る。
どうかすると1日のほとんど眠っている。
たまに、あったかいところか涼しいところを求めて移動し、そこでまた寝る。
目を覚ますと、お母さんかお父さんかウリちゃんがタケさんを覗き込んでいて、動く姿を見るとホッとしたような顔をする。
タケさんは、もう長くない、そんなある晴れた夜。
ウリちゃんがタケさんの横にきて、「ワン、ワン」と泣いた。
タケさんは、ウリちゃんがなんて言ってるのかわからないけど、
タケさんがウリちゃんやみんなに言いたいことは、
「ありがとう」
だったので、きっとそうなんだろうと思った。
何かあるとみんな「ありがとう」って言うんだ。
庭の虫たちがリーンリーンと鳴いている中で、
ウリちゃんが小さく「ワンワン」と泣く。
滅多に泣かなかったタケさんも、最後に、
「ワンワン」と小さく泣いた。
みんなの耳に届くように…