三角ノート
どんよりと曇って、蒸し暑い日だった。
交差点の信号は、青く点滅し始めていた。
若井は、保護観察の対象となっている吉田光という青年と、
喫茶店で待ち合わせをしていた。
交差点前の喫茶店では、先に来ていた吉田が若井の姿を乾いた目で見ていた。
若井は吉田の視線を感じながら、交差点をあたふたとして渡った。
吉田光は、二十歳の青年だった。
彼は四年前に友人の女性を殺した罪で少年院に入っていた。
彼は、模範的な生活を四年間少年院で送り、この春、少年院を出た。
再犯の恐れはなかったが、経過観察ということで、保護観察がついた。
ついたのが若井だった。
若井は店に入ると注文したアイス珈琲を持って、二階の喫茶室に上っていった。
横目で壁にかかった時計にちらりと目をやった。
階段上の時計は、三時を少しまわっていた。
秒針の動きはのろのろと鈍い動きをしていた。
若井は吉田の向かいに腰を下ろし、一口水を口に含んだ。
残暑の厳しい午後であった。
「どうですか、調子は」
と若井は吉田にきいた。
「まずまずです」
といいながら、吉田は、日誌を保護司に差し出した。
吉田は窓ガラスの方に顔を向け、信号ランプの一つ一つの小さな丸を数えるようにして
じっと眺めていた。
若井は、目の前のおとなしそうな青年を観察した。
保護観察。彼が再犯を起こす可能性はほとんどない。
彼は事件の直後、そして少年院でも、何度も自殺を図った。
彼にはそんなにもあの事件が今でも重荷になっているのだろうか。
しかし、若井にはその前に真実を彼の口から確かめる必要があった。
「どうして、あなたは幼馴染である美也子さんを殺したの。
もう一人、彩子さんの死についても私には良く分からないのよ」
言い終えて若井は吉田の顔を覗き込んだ。
吉田は、ぼんやりと窓越しに交差点の人の流れを見ていた。
「聞いてる?」
吉田は顔をあからめて、
「は、はい」
と返事をした。
「じゃ、話してみてくれる。事件があった日のことを」
若井は吉田を信じていた。
彼は根っからの悪じゃないと。
話しかける声や態度に吉田に対する優しさをこめた。
あなたは、ほんの少し愛情が足りなかっただけと若井は考えていた。
しかし、吉田は十六歳の時、女友達の家で、二人の女生徒の死の現場にいたのだ。
一人は自分の手首を切り出血多量で死に、もう一人も首を掻き切られて死んでいた。
彼自身も自殺を図って、重体になって死に掛けたところを発見されている。
判決の結果、彼は美也子という幼馴染の女性の首をカッターナイフで掻き切って殺したということで四年間罪に服した。
四年前も問題になったことだが、これは女二人、男一人の無理心中ではないか。
という線でも捜査が行われたが、当の吉田が美也子は自分が殺したと言い張って引き下がらなかった。
殺害の動機についても、吉田は何度も同じ言葉を繰り返した。
「美也子に、彩子との仲を邪魔されて、かっとなってやりました」と。
「彩子さんは、他人を利用するのが上手でした」
こんな言い方は吉田にはふさわしくない。
若井はそう思いながら聞いた。
「それに彩子さんにはリスカ癖がありました」
「リスカ。そう、リストカッター、自傷癖ね」
若井は静かにこたえた。
「どこのクラスにも優等生、がり勉タイプの奴っていましたよね」
「ええ、いるわね」
「彩子さんは、いや彩子は、そういう奴ににもうまく調子を合わせて宿題や試験の答えをみせてもらったりしてました。
でも、利用するだけで嫌いな奴には一線引いてました。利用できなくなると、怒ったり、泣いたりして、上手に相手を遠ざけてました」
吉田は事件が起こる前、彩子が宿題を見せてもらっていると、相手の男子学生からタメ口を言われた。
すると、彩子はいきなり、あんたと付き合ってもいないのに馴れ馴れしい言い方しないでよと、借りていたノートを叩き返した。
まだ、吉田が彩子と親しくなる前の話だった。
それ以外に吉田が知っていることといえば、彩子は男遊びが激しく、
中には援助交際もしているという噂をきいた。
その頃、吉田は驚きながらも、その噂に無関心を装っていた。
吉田は窓の外を眺めたまま黙った。
若井も窓に目をやった。
「あなたが書いたものを読んだわよ。すごく良く書けているわね」
若井は、水を向けた。
吉田は、若井の方に視線を戻して、
「タバコを吸ってもよいですか」
と聞いた。
若井は、吉田の年齢を思い出し、
いいわよ、
といってうなずいた。
吉田はタバコに火をつけると、顔を横にしてふうーと煙を吐いた。
「本当は口でしゃべるのは苦手なんですよ。
書いた方が自分のペースに合わせて伝えられるから。
でも、書いたものが決してうまいわけじゃないんです」
吉田は照れくさそうにいった。
「残虐性についてというレポートも書いてるわね。
これは特に良く書けていると思うわ」
若井は手元の資料からレポートのコピーを取り出した。
「戦争は男がおこすもの。男の本質は戦い、支配する。
しかし、本当の支配はやさしさの源ともいえる母性によるものであり、残虐性において男性も女性も差はない。
また何も知らない子供は男の子も女の子も残酷で、
虫や小動物を捕まえては傷つけたり殺したり平気だ。
命の大切さは教え込まないと覚えないものだと」
若井は吉田が書いたレポートを読んだ。
「そんなあなたがなぜ人殺しなどしたのか、私には分からないわ」
若井はまっすぐに吉田の目を見ていった。
「それともあなたは、彩子さんに利用されてたの?」
「利用!?利用とは底の浅い上っ面だけの付き合いですよね。
それに、思いやりは人を支配するための見せかけの懐柔策ですよ」
吉田は真剣な顔をしてこたえた。
「ということは、あなたと彩子さんの間は利用しあってるだけじゃなく、
もう少し深い部分で依存しあっていたっていうこと?」
「彩子とはいろんな意味で依存しあっていたかもしれません。
最初は利用するだけの間柄だったかもしれません。それがいつの間にか」
吉田は顔を赤らめて下を向いた。
若井はレポートに目を落とし
「母性による優しさ、狡猾さによって人間の残虐性は抑えられる。
支配欲、利用、戦術、交渉、理性の麻痺、そして母性。
一見つながりがないようだけど、人が人を傷つける段階を
あなたはこれらのキーワードで説明してるわね」
「先生にも誉められました」
吉田は赤らめた顔に幼い笑みを浮かべてこたえた。
「そう、そして、このレポートが元で彩子さんとあなたは付き合い始めた」
若井は、相手から確認を取る様な調子できいた。
「そうです。僕は書くこと意外に他に取柄は・・。
彩子とは同じクラスでしたが、さっきも言いましたが、
朝挨拶するくらいで、話をしたことはほとんどありませんでした」
吉田は、吸い終えたタバコを灰皿に押し付けた。
事件があった日からさかのぼって、吉田は話し始めた。
高校に入りたての頃、僕の友達は美也子だけでした。
付き合っているというわけではありません。彼女とは幼馴染でしたから。
もちろん家も近所でしたので、良く一緒に帰ったりしていました。
僕にとっては仲の良い友達でしたが、どことなく美也子には近づき難いところがあって、
僕は周りの友人から、よくあんな女とつきあってるなといわれることもしばしばありました。
美也子の笑顔には底意地の悪そうな感じがするという奴もいました。
彼女は成績も優秀でしたし、スポーツも万能でした。
その上美人でしたので、そんな風に言われたのでしょう。
僕にとって美也子は友達というよりもむしろ姉のような存在でした。
同い年でしたが、僕より背は高かったし、何かにつけ僕をかばってくれました。
小さい頃には一緒にお風呂に入ったり、夏に海にいった時には一緒に遊んでましたから、
僕と美也子は仲の良い姉弟みたいなものだったと思います。
成績優秀な美也子に彩子が近づいたのも当然だったような気がします。
最初、彩子が僕達の間に入ってきたときは、僕もうきうきした気分になりました。
でもそんな気持ちはすぐに消えました。
いつの間にか、彩子と美也子の間には、第三者が入り込めないような雰囲気が出来上がってました。
三人で帰ることはありましたが、僕だけが仲間外れにされたようなひどい疎外感に襲われました。
美也子が彩子としゃべっているとき、美也子は僕にも見せたことのないような笑顔をするんです。
とても寂しい気持ちになりました。
そんな僕の気持ちを察してか、彩子が、美也子の肩越しに僕に微笑みかけてくれました。
しばらくして、僕は美也子とは帰らなくなりました。
疎外感を感じながら帰るよりは、一人で帰った方が気が楽でしたから。
一人で登下校する日が暫く続きました。
そんなある日のことでした。
学校の帰りに彩子が僕に帰ろうと声をかけてきました。
僕は、いいよ、努めて平静に答えました。
内心は、とてもうれしかったです。
美也子以外の女の子に声をかけられたのは初めてでしたから。
でも、少し心配もしました。
彩子から何をねだられるんだろう。
僕には彼女にみせてあげられるようなものはありません。
ましてや彼女を楽しませる自信など全くありませんでした。
「聞いてたわよ。あなたのレポート。残虐性について書いたレポート。
すごいわね。先生もべた誉めしてたじゃない」
そうか。レポートを見せて欲しいのか。僕はそう思いました。
「い、いや、そんな大げさです。たまたまですよ」
僕はそれでも嬉しさを隠しきれず答えました。
彩子は、僕に突然白いノートを渡してきました。
「あなた、詩も書くでしょ。読んだわよ。今度見せて」
それから恥ずかしそうに、
「私のも読んで欲しいの。できたら感想も聞かせて」
といいました。
「なんで僕が詩を書いてるって知っているのですか」
「美也子さんから聞いたわ。
何度も賞にも入選しているらしいわね」
「ええ、まあ。
でも、僕には大したことはできないですよ」
僕は彼女の意図がわからず警戒しました。
「何かして欲しいってわけじゃないの。あなたの詩を美也子さんから読んでもらって、自分の気持ちがすっと出たの。
うまくいえないけどコトンって落ちたの」
彼女は胸に手をあてて、うつむきながら灰色のアスファルトを見つめていました。
どう答えればよいかわからず、気詰まりになった僕は、
「美也子はどうしたの」
と僕は聞いていました。
しかし、彼女は、何もこたえませんでした。
彼女が、美也子と休み時間に屋上にいって話をしているのを何度かみかけました。
二人が喧嘩したわけではなさそうだと思い安心しましたが、相変わらず二人の間に割って入るような雰囲気はありませんでした。
ただ、以前と比べて、二人の会話で美也子の顔が険しくなったり、悲しそうな表情を時折みせていたのがとても印象的でした。
彼女は、すそをめくって、左手首を出して、美也子の前についと突き出しました。
そして一言二言美也子に同情を買うような表情で何かいってました。
美也子は、彼女の左手を握ると、もう一方の手で彼女にノートを手渡していました。
僕はできれば三人で仲良くできればなあと思いましたが、
今は彼女が間に入って三人の間をコントロールしているようでした。
いつの間にか美也子と二人で帰ることもほとんどなくなっていました。
それから、彼女とは何度もノートで詩や日記をやりとりしました。
彩子の書く詩、書く文章にはいつも血の匂い、
死の予感が漂っているような感じを受けました。
僕はというと適当に詩を書いていたと思います。
もちろん正直に気持ちを表してましたが、彼女の詩にはかなわないと思いました。
美也子とは別の女性としての強さがそこにはありました。
ある日、授業中にそのノートを渡された時、
彼女の右腕に赤い線が何本か刻まれていることに気付きました。
そのうちの何本かはみみず腫れになってぶくぶくしていました。
僕は顔に出して驚いてしまいました。
彼女は、笑いながら、
「リスカよ。楽しいわよ」
といいました。
僕は腕に鳥肌が立つのを感じました。
「無理すんなよ」
とか何かピントハズレなことをいってノートを受け取ったように思います。
その日僕は彼女と一緒に帰りました。
書いた詩や日記についてとりとめのない話をしていました。
話の途中で彼女の携帯電話が鳴りました。
携帯電話を開いた彼女は、メールだ、といって電話を閉じてしまいました。
「読まなくて良いの」
と僕は聞きました。
「いいの。それより、あなたの携帯の番号教えてよ」
それまで何度も彼女が携帯電話を使っているのはみたことはありましたが、
電話番号の交換はしていませんでした。
僕から彼女の携帯電話の番号を聞く勇気はありませんでした。
僕は少しはしゃぎながら自分の電話番号とメールアドレスを教えました。
彼女にまた少し近くなったことが嬉しかったのです。
僕と彩子はその後急速に親しくなりました。
彼女の家に遊びに行くようにもなりました。
彼女の家にいっても大抵彼女一人で家族の方はみませんでした。
聞いたら、伯母の家に住んでいて、
伯母は昼も夜も働いていてほとんど家にはいないといっていました。
彼女も時々伯母の店を手伝いに夜働きに出ることもあるといってました。
彼女は、僕が書いた詩や短いお話をとても聞きたがりました。
特に、童話のようなお話をしてあげると、にこにこして黙って聞いてくれました。
「私だけのひと」
という話を彼女にしてあげました。
『私だけのひとがいて、その人が私が私だからこそ好きになってくれたら。
でも、私は前に大切なものを失った。
そのひとが私を他の誰かと比べたら私には愛される自信なんてないから。
私には欠点がいっぱいある。
怒ったり、すねたりするから。
あなたをいつでも楽しませることはできない。
そのうちあなたは私を重荷に思うでしょう。
だから、私は、私はあなたにさようならをいう。
黙ってさようならという。』
彼女は、黙って話を聞いていました。
僕は照れくさくなって何かいおうとしました。
彼女は下を向いて泣いていました。
泣きながら僕にキスをしました。
僕はただ目を見開いて、彼女の黒い髪が顔にかかるのを感じました。
そっと彼女を抱き寄せました。
でも、抱きしめた彼女の影には、彼女が書く詩のように、
血と死の匂いがより濃く僕の体にしみ込んでくるようでした。
その後、何度も彼女の家に遊びにいきました。
その頃には、僕と彼女はセックスをする仲にまでなっていました。
彼女の家を出て駅に向かう途中、何度か美也子に似た後ろ姿をみかけました。
本当に美也子なのかどうかはっきりしませんでした。
僕は近視で目が悪かったし、
だいいち美也子が家とは反対方向のこの駅にいるとは思えず、
結局そのときは声をかけることはしませんでした。
次の日、学校で美也子に声をかけようとしましたが、
きっと問い詰めるような視線で僕の顔を睨みつけたきり、
何もいいませんでした。
僕は、昨日あそこの駅で何をしようとしてたの、
と聞こうと思って声をかけたのですが、美也子の鋭い視線に何もいえませんでした。
見ていると美也子は僕と彩子の両方に鋭い視線を向けていました。
休み時間になり、美也子と彩子は二人してどこかにいってしまいました。
僕は何もいわず黙って二人が出て行くのを見ていました。
彩子は平然としていたようですが、美也子は怒ったような
とても悲しそうな表情で彩子の手を取って教室を出て行きました。
僕は悪いと思いながらも二人の後をつけていきました。
二人は校舎の裏にいました。
美也子は深刻な今にも泣きそうな顔をして彩子に何か非難めいたことを
いっているようでした。
彩子は美也子の肩を抱きかかえるようにして、美也子の非難に
笑顔を浮かべなだめるようにして答えていました。
美也子は彩子にノートを渡すと、彩子を残し走って教室へと戻っていきました。
僕は何が起きたのか理解できないまま、その場に立ち竦んでいました。
彩子は、何事も無かったかのようにきびすを返して教室の方へと帰っていきました。
週末、僕は詩や物語を書いたノートを持って彩子の家に出かけていきました。
彼女に詩を朗読してあげたりするのも今ではもっぱら寝物語みたいになっていました。
その日も、彼女の家に上がり、シャワーを浴びてベッドに入りました。
ベッドに横になり彼女が浴室から出て行くのを待っていました。
その時です。
部屋の外、廊下からばさっという音が聞こえました。
ぎょっとした僕はベッドから飛び上がり、急いで服を着ました。
家の人が来ているのかと思いました。
耳を澄ますと、かすかな足音が部屋から遠ざかっていき、
家の外へと消えていきました。
彩子は、バスタオルをまいて、浴室から出てきました。
服を着た僕をみて驚いた様子で
「どうしたの。」
と彼女は笑いながらききました。
「伯母さんが。家の人がいるみたいだよ。」
「え、そんなはずないわ。
伯母はこの時間は仕事にいっているはずよ」
「でも、そこの廊下で物音がしたんだけど」
彼女は、バスタオルを巻いた格好で平気な顔をして廊下に出ました。
彼女は背中を曲げて下においてあった黒い色のノートを持ち上げました。
「それは、何?ノート?」
と僕は廊下の方に目を凝らしてききました。
彼女は、一瞬びくっとした様でしたが、平然と
「美也子さんのノートよ」
といいました。
僕は先日の校舎裏での光景を思い出しました。
なぜ、美也子が彼女の家に。
いつ美也子はこの家に来たのだろうか。
僕を見たのだろうか。
「どういうこと。なんで?」
と僕は彼女に答えを求めました。
「あら、メール。ほら、美也子さんからよ」
話の腰を折られたような感じでした。
「読むわね。『頼まれていた宿題のノートを置いておきます。』だって」
彼女はくすくすと口に手をあてて笑いました。
それから、僕の方へゆっくりと歩きながら、囁くように
「楽しみましょ」
といいました。
それから何度か彼女の家にいきました。
その最中にもばさっという音ともに遠ざかっていく足音が何度か聞こえたような気がします。
その都度僕は体が動かなくなりました。
そんな時彼女は僕の首に手を回して、耳元で、
「気にしないで。無視すれば良いのよ。」
といって僕に行為を求めるのでした。
僕は次の日、思い切って美也子に電話しました。
心配だったからかもしれません。
後ろめたい気持ちがあったのも事実です。
プルル、プルルと呼び出し音が鳴り、僕の胸は不安で高鳴るばかりでした。
プツッっという音がして電話がつながりました。
その一瞬電話を切りたい衝動に駈られましたが勇気をふりしぼって、
声を出しました。
「もしもし、美也子ちゃん」
「・・・・・・・。」
「もしもし、あの。どうしたの、最近」
何の返事もありませんでした。
「切らないで」
僕は電話口で叫んでいました。
「彩子さんとは何もない、何もないから」
とっさに出た言葉は嘘でした。
後から考えると、なんて自分は弱くて卑怯な男かと後悔をしました。
「私には関係ないわよ」
美也子の声が、電話を通じて聞こえてきました。機械の音声のようでした。
「でも、僕は、裏切っていない」
またも嘘をついていました。
そのとき僕は美也子のことを愛しているのだと思い込みました。
美也子も僕に裏切られたと思っていると一人合点していました。
「自惚れないでね。
私達いつからそんな関係になったのよ」
「美也子ちゃんを失いたくないんだ」
「・・・。大丈夫よ。友達でしょ」
友達、トモダチ、ともだち。遠ざかっていく美也子の後姿が目に浮かびました。
もう今までとは違うのだ。
その時が来たのだ。
姉弟のような関係、甘酸っぱい期待。
そんなものはもうどこにもないことを思い知らされました。
僕は自分のことを棚に上げて、そんな幻想を美也子に対して抱いていたことに
うろたえました。
「彩子と光ちゃんは依存しあっているだけ。そうよ、今に・・・」
美也子はそういいかけて電話を切ってしまいました。
依存って何でしょう。
どういう意味なのでしょう。
体だけの結びつきということを指しているのでしょうか。
いろいろ考えているうちに、
自分の中から美也子に対する憎しみの気持ちがわきあがってくるのが分かりました。
最初は、自分に対する怒りでした。
しかし、美也子への憧れや親しみ、淡い期待、そんなものは跡形もなく消え、
憎しみだけがこの電話のあとに残りました。
このとき僕は美也子に殺意を抱きました。
それから暫く三人は学校でも口をきくことはありませんでした。
彩子とはメールでやりとりをして連絡を取り合いましたが、
僕にとっては教室は緊張の場になっていました。
僕は呼ばれもしないのに彩子の家にいきました。
今までは彩子から呼ばれない限り彼女の家にいったことはありません。
彼女とは同じ教室にいながらメールでしかやりとりをしない日々が
三週間程続いていました。
しかも以前に比べ彼女と僕の間のノートのやりとりをする回数も減っていました。
僕は我慢できず土曜日の学校帰りに、詩を書いたノートを持って家にいきました。
彩子は突然家に来た僕をみて驚いていましたが、笑顔で僕を中にあげてくれました。
持ってきたノートを彼女に渡して、読んでもらおうとしました。
彼女は興味のなさそうにノートを受け取り、机の上に置きました。
そのときの僕はただ彼女に対して性的欲求だけで家にいったのではないかと思います。
彼女も分かったらしく、僕にシャワーを浴びてきて、とだけいうと、
ぼんやりとベッドの上に座り込んで何か考え事をしているように
空中をぼんやりと見つめていました。
僕がシャワーを浴びて出てきても、彼女は同じ姿勢でぼんやりしていました。
化粧台に映った彼女の顔色は青白くみえました。
僕は彼女の肩に手を置きました。
僕の中を衝動が走り、気付いたら彼女を押し倒していました。
彼女は何の抵抗もしませんでした。
彼女の視線は、上目遣いに化粧台の方を向いていました。
化粧台の上には、青い薬と白い薬が散乱していました。
薬の横にはA心療内科と書かれた白い薬袋がありました。
僕はそのときはっとしました。
薬が散乱している化粧台には普段彼女が使わない化粧品がいくつか並んでいました。
見たこともない櫛もありました。
見慣れない化粧品に見覚えがありました。
美也子が使っている化粧品でした。
偶然だろうか。
一瞬僕は美也子の部屋にいるのでないかという錯覚にとらわれました。
僕の下で彼女は、右手でそっと僕の肩を振り払うと頭を上げて、立ち上がりました。
「シャワーを浴びてくるわ」
そういって彼女は浴室へ入っていきました。
浴室から出てきた彼女を押し倒して、僕は彼女の体を求めました。
その時、バサッという物が落ちる音がして、足音が部屋の前で止まりました。
僕はもうその時は彼女の体に夢中でした。
ガチャという部屋の扉が開く音にも気付きませんでした。
僕に向かって突進してくる相手の姿に気付いた時にはもう手遅れでした。
相手の姿が女性だと気付いた時には壁に突き飛ばされていました。
美也子でした。
美也子は力いっぱい僕の体に体当たりをしてきました。
突き飛ばされた僕は、頭を壁に打ちつけ、気を失ってしまいました。
しばらくして、僕は気が付いて、ふらふらっと立ち上がりました。
彩子がいませんでした。
「彩子」
といって暫く部屋の中をさ迷うようにして彼女を探しました。
化粧台の鏡には、赤い字で大きく”BITCH"と書かれていました。
浴室のドアを開けると、手首を切りぐったりとしている彩子の姿がありました。
浴室は血だらけになっていました。
彩子の隣には、真っ青な顔をして左手にカッターナイフを持って突っ立ている美也子がいました。
美也子は何か意味のわからないことをぶつぶつ言っていました。
僕は、惨状から逃げ出したいのを何とか押さえつけ、
ぐったりしている彩子の傍へかけよりました。
その時はまだ息があり、生きていました。
何とか助けようと思いましたが、もう無理だということは分かりました。
隣では美也子が血のついたカッターナイフを持って僕を見下ろしていました。
美也子もカッターナイフを自分の手首にあてていました。
美也子の手首からも血が流れ出していました
ぼんやりと窪んだ美也子の目に初めて僕の姿が映ったようでした。
そして、美也子はこういいました。
「おぞましい。なんて汚い。男の体って不潔そのものよ」
言い終えると彼女は、僕の方へカッターナイフを振り下ろしました。
僕は何とか右肩をよじって避けました。
彩子を殺された怒り、そして、小さい子供の頃から一緒に風呂にも入ったことのある
美也子からまるで汚物でも見るような目で見られ、僕はかっとなってしまいました。
その後のことは良く覚えてません。
気が付いた時には僕は彼女のカッターナイフで彼女の首を切っていました。
美也子の柔らかい喉首から赤い血が噴き出しました。
美也子を殺したのは僕です。
吉田は、言い終えてから、窓の外をみやった。吉田は一言も言葉を発さなかった。
保護司の若井は、吉田の話を聞き終えて、
「あなたは、美也子さんをかばってるのじゃないの?」
「どうしてですか」
吉田は、きっとなって聞き返した。
「美也子さんは彩子さんと無理心中を図ったのじゃないの」
吉田は、言い当てられたような驚いた目をした。
小さな声で、しかし頑固とした声色で、
「二人の関係は今でも僕には良く分かりません。
でも美也子を殺したのは僕です」
「そう、分かったわ。
あなたは、もう罪を十分償ったわ」
ただ、といいかけて若井は口をつぐんだ。
若井は、交差点を流れる人の群れに目をやった。
吉田が美也子に突き飛ばされて気を失っている間に何があったのか。
若井は考えずにはいられなかった。
恐らく、と若井は思った。
美也子が吉田を突き飛ばした時、彩子は浴室にいき、衝動的に手首を切った。
理由はわからない。
彩子は既に危険な精神状態にあったのではないだろうか。
気付いた美也子が彩子を追いかけていった。
浴室でぐったりしている彩子を見た美也子は自分も自殺を図った。
そして、最後に、気を失っていた吉田が、浴室で二人を発見するが、
彩子はもう既に息絶えており、美也子は断末魔の苦しみを叫んでいたに違いない。
見かねた吉田は美也子にとどめをさし、自分も後追い自殺を図った。
恐らく真実はこういうことかもしれないと、若井は考えた。
しかし、吉田は従来の発言を繰り返しただけだった。
振り返ると、喫茶店の時計は、既に六時をまわっていた。
若井は吉田から渡された日誌を、閉じた。
(終わり)