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あや 伊勢物語編

作者: 蒼月 氷水
掲載日:2015/07/08

「悲しいのぅ」

と、それは言った。

「寂しいのぅ」

と、それは言った。

 ひどく、暑い夜であった。

 風はない。

 灯りもない。

 じっとりと、夏の夜気が身にまとわりつく。

 汗がじんわりと溢れている。

「悲しいのぅ」

と、それは言った。

「寂しいのぅ」

と、それは言った。

 分かっている。

 それが何であるのかを。

 分かっている。

 それが何を言いたいのか。

 けれど、分からない。

 汗が体を伝っていく。

 暑い夜である。

 けれど、その暑さはどこか遠くにある。

 感じるものも、考えることも、遠くにある。

 これが悲しみというものなのだろうか。

 去ったものを思う心なのだろうか。

 ふと、そう考える。

 分からない。

 ならば何故こんなに静かなのだろうか。

 涙はでない。

 ただぽつりと闇の中に立っている。

 嘆く声も、

 悼む声も、

 私の中にはない。

 代わりに、

「悲しいのぅ」

 闇の中に浮かぶ声。

「寂しいのぅ」

 ぽつり、ぽつりと、

 浮かぶ声。

 光りながら、揺れながら、

 浮かぶ声。


 会ったこともない女であった。

 知ることもない女であった。

 それとも、どこかで会っていたのか。

 それとも、いつか知る女であったのか。

 分からない。

 今となってはもう。

 

「何故、そこにいるのですか?」

 鈴の音のような声。

 目の前に立ち、こちらを見つめている童女。

 夏の終わりの庭である。

 夕暮れの庭である。

 しかし誰の庭であろうか。

 私の屋敷の庭ではない。

 初めて入る庭である。

 あの女の、屋敷だろうか。

 あの時、あの場には何があったであろう。

 覚えてなどいない。

 決して、見ることのない庭であった。

 おそらくは。

 決して、入ることのない庭であった。

 きっと。

「何故、そこにいるのですか?」

 もう一度、童女が問いかけてくる。

 夕焼けに染まる庭。

 紅の庭。

 染まったように、童女の瞳も赤い。

 これは、夢であろうか。

 感覚は、どこか遠くにある。

 遠くから、問いかけてくる声。

 どうしてここに。

 知るものか。


 涙を流すべきなのだろうか。

 悲しみに打ちひしがれるべきなのだろうか。

「苦しいのぅ」

 あのように。

「切ないのぅ」

 あのように。

 そうせねば、ならないのだろう。

 それが去った者への礼儀であろう。

 けれどその心は見つからない。

 探さなければ。

 見つけなければ。

 けれど、どれだけ探しても、

 私の中にはない。

 どこにもない。

「冷たいのぅ」

と、それが言った。

「ひどいのぅ」

と、それが言った。

 浮かびながら、揺れながら、

 責めたてる声。

 

「いつから、そこにいるのですか?」

 童女の声が、問いかけてくる。

 夏の庭、夕暮れの庭。

 紅が、少しずつ暗くなっていく。

 風もない。

 暑さは留まったまま。

 いつ、ここに来たのか。

 今、何をしているのか。

 知るすべもない。

 何をしているのか。

 何をすべきなのか。

 誰が答えを知っているのだろうか。

 私ではない。

 

 初めて入る屋敷であった。

 出会うことのない女であった。

 いつ、私を知ったというのだろう。

 いつ、私に恋したというのだろう。

 分からぬまま、

 使いの者の悲痛な声に、赴いた。

 女はやせ細った姿で、私を見た。

 そして、笑った。

 ただ、それだけの、縁であった。

 それだけの縁。

 それなのに。


 初めから、行かねば良かったのか。

 初めから、行かねば良かったのだ。

 それが正しかったのだ。

 それが正しかったのか。

 悲しむべきか。

 悲しむべきだ。

 悲しいと、言葉にすればいいのだ。

 悲しいと、言葉にすればいいのか。

 涙を流すべきなのか。

 涙を流すべきなのだ。

 それが、悲しいということなのか。

 

 管弦の音が、聞こえている。

 紅は、遠くにある。

 闇が、庭に広がっていく。

「悲しいのぅ」

と、何処からか、声が聞こえてくる。

「寂しいのぅ」

と、何処からか、声が聞こえてくる。

 庭の、そこかしこから。

 去った娘を嘆く声。

 私にも、それを求める声。

 夏の終わりの、蒸し暑い夜。

 感覚は、どこか遠くにある。

 灯りはない。

 風もない。

 心も、きっと。

 ただ一人、私が立っている。

「いつまで、そこにいるのですか」

 童女の、声が。


 何故、今頃になって。

 何故、もう去ろうという時に。

 何故、打ち明けたのだろうか。

 私のような者を。

 このような、冷たい者を。

 愛しているなどと。


 管弦の音が聞こえる。

 死者のよみがえりを、祈る音が。


「悲しいのぅ」

と、それが言う。

「寂しいのぅ」

と、それが言う。

 分からない。

 私にどうせよと言うのか。

 何も、できはしなかった。


「何を、悲しんでいるのですか」

 童女が問う。

 庭は色を失い始めている。

 童女の瞳も闇色に変わっていく。

 管弦の音が聞こえる。

 悲しんでいるのは、誰だ。

 涙は出ない。

 心の中には、何もない。

 ただ空っぽの闇。

 胸に空いた穴に、夏の夜気が染み込む。

 時の止まったような夜。

 悲しみは、私の中にはない。

「では、」

 童女が問う。

「悲しいとは、どのようなことをいうのですか?」

 分からない。

 あの声なら、知っているのだろう。

 去った者を悲しむような声。

 けれど、違う。

 分かっている。

 光りながら、揺れながら、浮かぶ声。 

 あれは、去った者の魂。

 悲しむことのできぬ私を、悲しむ声。

 責める声。

 愛おしむ声。

「悲しい、と、言っていますね」

 耳をそばだてるように、童女は目を閉じる。

「だからなのですね」

 童女が、言う。

「だから、あなたの中にはないのですね」

 童女の闇色の瞳が、ゆっくりと私に向けられる。

「あなたの心が、あなたから離れて飛び交っているから」

 ひどく、暑い夜であった。

 だが、感覚はどこか遠くにある。

 感情も、どこか遠くにある。

 感覚も、感情も、私の中から抜け出している。

 抜け出して、闇の中に浮かんでいる。

 ああ、そうか。

 あの女の魂は、もうここにはいないのか。

 私を責める声でさえ、聞くことはできないのか。


 ()りゆくものを、悼む夜。

 もう、声は聞こえない。

 浮かぶ光もない。

 管弦の音もない。

 灯りもない。

 時の止まったような、夏の終わりの夜。

 ぽっかりと空いた胸の穴に、染み込む夜気。

 ああ、なんと、

「悲しいものだろう・・・」

 誰かが応じたのだろうか。

 ふいに、涼やかな風が吹く。

 ささりささりと、

 揺れる草葉から、

 それは浮かんでくる。

 あちらにぽつり、

 こちらにぽつり、

 光りながら、揺れながら、

 飛ぶ蛍。


 蛍よ。

 もしも、お前が声をもつものならば、

 あの女のところまで飛ぶことができるものならば、

 悲しいという言葉はもういい、

 寂しいという言葉ももういい、

 ただ、一言伝えてくれ。


 行く蛍 雲の上まで ぬべくは

      秋風吹くと 雁に告げこせ


 どうか離りゆく者よ、戻ってきてくれと。

 いつか深く悲しいと言えるような、

 いつか本当に寂しいと言えるような、

 愛しい仲になれるように。

 光が浮かぶ。

 光が揺れる。

 私もまた、揺れている。

 もう、声は聞こえない。


 闇の中を、光が行く。

 空へと向けて、飛んでいく。

 闇の中に男の姿はない。

 ただ、たくさんの小さな光が、集まっている。

 集まって、人の形を成している。

 涼やかな風が、光を散らしていく。

 浮かびながら、揺れながら、

 空へと向けて、行く光。


 夏の庭である。

 夕暮れの庭である。

 童女が一枚、紙片を拾い上げる。

 そこにはただ一文字、

 「蛍」と書いてあった。

  


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