蛍
「悲しいのぅ」
と、それは言った。
「寂しいのぅ」
と、それは言った。
ひどく、暑い夜であった。
風はない。
灯りもない。
じっとりと、夏の夜気が身にまとわりつく。
汗がじんわりと溢れている。
「悲しいのぅ」
と、それは言った。
「寂しいのぅ」
と、それは言った。
分かっている。
それが何であるのかを。
分かっている。
それが何を言いたいのか。
けれど、分からない。
汗が体を伝っていく。
暑い夜である。
けれど、その暑さはどこか遠くにある。
感じるものも、考えることも、遠くにある。
これが悲しみというものなのだろうか。
去ったものを思う心なのだろうか。
ふと、そう考える。
分からない。
ならば何故こんなに静かなのだろうか。
涙はでない。
ただぽつりと闇の中に立っている。
嘆く声も、
悼む声も、
私の中にはない。
代わりに、
「悲しいのぅ」
闇の中に浮かぶ声。
「寂しいのぅ」
ぽつり、ぽつりと、
浮かぶ声。
光りながら、揺れながら、
浮かぶ声。
会ったこともない女であった。
知ることもない女であった。
それとも、どこかで会っていたのか。
それとも、いつか知る女であったのか。
分からない。
今となってはもう。
「何故、そこにいるのですか?」
鈴の音のような声。
目の前に立ち、こちらを見つめている童女。
夏の終わりの庭である。
夕暮れの庭である。
しかし誰の庭であろうか。
私の屋敷の庭ではない。
初めて入る庭である。
あの女の、屋敷だろうか。
あの時、あの場には何があったであろう。
覚えてなどいない。
決して、見ることのない庭であった。
おそらくは。
決して、入ることのない庭であった。
きっと。
「何故、そこにいるのですか?」
もう一度、童女が問いかけてくる。
夕焼けに染まる庭。
紅の庭。
染まったように、童女の瞳も赤い。
これは、夢であろうか。
感覚は、どこか遠くにある。
遠くから、問いかけてくる声。
どうしてここに。
知るものか。
涙を流すべきなのだろうか。
悲しみに打ちひしがれるべきなのだろうか。
「苦しいのぅ」
あのように。
「切ないのぅ」
あのように。
そうせねば、ならないのだろう。
それが去った者への礼儀であろう。
けれどその心は見つからない。
探さなければ。
見つけなければ。
けれど、どれだけ探しても、
私の中にはない。
どこにもない。
「冷たいのぅ」
と、それが言った。
「ひどいのぅ」
と、それが言った。
浮かびながら、揺れながら、
責めたてる声。
「いつから、そこにいるのですか?」
童女の声が、問いかけてくる。
夏の庭、夕暮れの庭。
紅が、少しずつ暗くなっていく。
風もない。
暑さは留まったまま。
いつ、ここに来たのか。
今、何をしているのか。
知るすべもない。
何をしているのか。
何をすべきなのか。
誰が答えを知っているのだろうか。
私ではない。
初めて入る屋敷であった。
出会うことのない女であった。
いつ、私を知ったというのだろう。
いつ、私に恋したというのだろう。
分からぬまま、
使いの者の悲痛な声に、赴いた。
女はやせ細った姿で、私を見た。
そして、笑った。
ただ、それだけの、縁であった。
それだけの縁。
それなのに。
初めから、行かねば良かったのか。
初めから、行かねば良かったのだ。
それが正しかったのだ。
それが正しかったのか。
悲しむべきか。
悲しむべきだ。
悲しいと、言葉にすればいいのだ。
悲しいと、言葉にすればいいのか。
涙を流すべきなのか。
涙を流すべきなのだ。
それが、悲しいということなのか。
管弦の音が、聞こえている。
紅は、遠くにある。
闇が、庭に広がっていく。
「悲しいのぅ」
と、何処からか、声が聞こえてくる。
「寂しいのぅ」
と、何処からか、声が聞こえてくる。
庭の、そこかしこから。
去った娘を嘆く声。
私にも、それを求める声。
夏の終わりの、蒸し暑い夜。
感覚は、どこか遠くにある。
灯りはない。
風もない。
心も、きっと。
ただ一人、私が立っている。
「いつまで、そこにいるのですか」
童女の、声が。
何故、今頃になって。
何故、もう去ろうという時に。
何故、打ち明けたのだろうか。
私のような者を。
このような、冷たい者を。
愛しているなどと。
管弦の音が聞こえる。
死者のよみがえりを、祈る音が。
「悲しいのぅ」
と、それが言う。
「寂しいのぅ」
と、それが言う。
分からない。
私にどうせよと言うのか。
何も、できはしなかった。
「何を、悲しんでいるのですか」
童女が問う。
庭は色を失い始めている。
童女の瞳も闇色に変わっていく。
管弦の音が聞こえる。
悲しんでいるのは、誰だ。
涙は出ない。
心の中には、何もない。
ただ空っぽの闇。
胸に空いた穴に、夏の夜気が染み込む。
時の止まったような夜。
悲しみは、私の中にはない。
「では、」
童女が問う。
「悲しいとは、どのようなことをいうのですか?」
分からない。
あの声なら、知っているのだろう。
去った者を悲しむような声。
けれど、違う。
分かっている。
光りながら、揺れながら、浮かぶ声。
あれは、去った者の魂。
悲しむことのできぬ私を、悲しむ声。
責める声。
愛おしむ声。
「悲しい、と、言っていますね」
耳をそばだてるように、童女は目を閉じる。
「だからなのですね」
童女が、言う。
「だから、あなたの中にはないのですね」
童女の闇色の瞳が、ゆっくりと私に向けられる。
「あなたの心が、あなたから離れて飛び交っているから」
ひどく、暑い夜であった。
だが、感覚はどこか遠くにある。
感情も、どこか遠くにある。
感覚も、感情も、私の中から抜け出している。
抜け出して、闇の中に浮かんでいる。
ああ、そうか。
あの女の魂は、もうここにはいないのか。
私を責める声でさえ、聞くことはできないのか。
離りゆくものを、悼む夜。
もう、声は聞こえない。
浮かぶ光もない。
管弦の音もない。
灯りもない。
時の止まったような、夏の終わりの夜。
ぽっかりと空いた胸の穴に、染み込む夜気。
ああ、なんと、
「悲しいものだろう・・・」
誰かが応じたのだろうか。
ふいに、涼やかな風が吹く。
ささりささりと、
揺れる草葉から、
それは浮かんでくる。
あちらにぽつり、
こちらにぽつり、
光りながら、揺れながら、
飛ぶ蛍。
蛍よ。
もしも、お前が声をもつものならば、
あの女のところまで飛ぶことができるものならば、
悲しいという言葉はもういい、
寂しいという言葉ももういい、
ただ、一言伝えてくれ。
行く蛍 雲の上まで 去ぬべくは
秋風吹くと 雁に告げこせ
どうか離りゆく者よ、戻ってきてくれと。
いつか深く悲しいと言えるような、
いつか本当に寂しいと言えるような、
愛しい仲になれるように。
光が浮かぶ。
光が揺れる。
私もまた、揺れている。
もう、声は聞こえない。
闇の中を、光が行く。
空へと向けて、飛んでいく。
闇の中に男の姿はない。
ただ、たくさんの小さな光が、集まっている。
集まって、人の形を成している。
涼やかな風が、光を散らしていく。
浮かびながら、揺れながら、
空へと向けて、行く光。
夏の庭である。
夕暮れの庭である。
童女が一枚、紙片を拾い上げる。
そこにはただ一文字、
「蛍」と書いてあった。