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episode1-9


「うちの娘がそんなことするわけないでしょう!」

 どこで買ったのか尋ねたくなるほどの、明るい黄緑色のレディーススーツを身に纏った御子柴昌が応接間に通されてから約十分が経過した。隣に座っているのが亘先生ではなく道元先生であること以外、昨日と全く変わらない風景に胃が痛くなる思いだ。


 現在応接間にいるのは私、御子柴昌、そして道元先生の三人だけ。御子柴美織は教室、大森圭太とその母親、大森貴子は保健室で待機してもらっている。


 大森おおもり貴子たかこが来校したのはちょうど午後三時半頃で、御子柴昌が来る三十分ほど前のことだった。御子柴昌とは違い、黒のスーツ姿で現れた大森貴子は、昇降口で出迎えていた私と自分の息子を見つけるなり、いきなり彼の頭にげんこつをお見舞いした。


「お、お母さん落ち着いて! 一応圭太君は突き飛ばされた側でして……」

 体型やら何やら、大森圭太の母親以外考えられないといった風貌の彼女から殴られればさぞかし痛いだろう。大森圭太は狂ったように泣き出した。

 そんな息子をなぐさめることもなく、大森貴子は私の方に体を向けた後、深々と頭を下げた。

「先生、今日はうちのバカ息子がご迷惑をおかけしたみたいで、本当にすいませんでした」

「や、やめてくださいお母さん、先ほども言った通り、圭太君は突き飛ばされたわけで……」


 電話で呼び出した際、クラスメイトと喧嘩になったことと、相手から突き飛ばされたことは話したが、それ以外の詳しい事情は話していない。しかし決めつけなのか経験則なのか、大森貴子は自分の息子が悪さをしたと決め込んでいるようだった。

「いいえ先生、どうせこのバカがちょっかい出したに決まってるんです。そうだろう、圭太!」

 大森貴子は息子に対して怒り心頭のご様子だが、あながち間違ってもいないので否定も出来ない。


 私があたふたしていると、背後から靴音が聞こえた。

「ああ、大森さん、いらしていただけましたか。ここじゃあ何ですから、中へどうぞぉ」

 間延びした声。道元先生だ。

「保健室にお連れしますね。圭太君の怪我の具合が心配でしょうから、養護の先生にお話してもらいます。あ、ついでにそのたんこぶも診てもらいましょうか」



 保健室にて、白井先生は先ほどの話を繰り返して大森貴子に伝えた。その間も、彼女は恐縮しっぱなしで、逆にこちらが気を遣うほどだった。また、相手が御子柴美織だと伝えると、彼女は一瞬青ざめた顔をした。やはり、この母親も御子柴昌の噂は耳にしているのだろう。


 私が事件の詳しい事情を説明すると、大森貴子は息子をキッと睨みつける、もう一度拳を高く振り上げた。

「ちょ、ちょいとお母さん、気持ちは分かるがその辺にしとき。また私の仕事が増えちまうよぉ」

 すかさず白井先生が止めに入り、大森圭太が二回目の拳を喰らわずに済んだところで、別の先生がやってきて、御子柴昌の来校という凶報を告げられた。


 そして、今に至る。

「御子柴さん、確かに相手の子にも落ち度はありましたが、美織ちゃんが暴力を振るったのも事実で……」

 話は一応、私が主導権を握っている、というか握らされている形で、道元先生はいつもの微笑みをたたえながら成り行きを見守っている。


「先生はそうおっしゃいますけど、本当にうちの娘が先に手を出したんですか? その相手の子が先に手を出して、それでうちの子がそれを振り払おうとした。そうなんじゃありません?」

 どうしても自分の娘を悪者にしたくないらしい。大森貴子とはまるで逆だな、と思った。

「相手の子が美織ちゃんに手を出そうとしたという話は聞いていませんし、美織ちゃんも自分から手を出したことは認めています」

「嘘よ! 相手の子のことを怖がって、うちの娘はそう言っているんです!」

 これでは埒が明かない。どうしたものかと悩んでいると、ようやく隣の道元先生から助け舟が出た。

「でしたら、美織ちゃんをここに呼んで、話を聞いてみましょうか。お母さんも直接話を聞きたいでしょう」

 努めて穏やかな口調の道元先生を睨みつけた後、そうしてちょうだい、と御子柴昌は冷たく吐き捨てた。


 数分後、応接室にやってきた御子柴美織は、自分の母親を見ただけで泣き出しそうな顔になった。反面、御子柴昌は満面の笑みで、自分の娘を抱きしめた。

「ああ美織ちゃん、怖かったねぇ。でももう大丈夫よ。お母さんがね、美織ちゃんにいじわるした奴、懲らしめてあげるから」

「ち、違うの、おかあさん、私……」

 母親の寵愛を受け、御子柴美織はただただ、戸惑う様子を見せた。自分の行動が喧嘩の原因だということを、この母親はどう考えているのだろう。もしかしたら、娘が私をかばってくれたと喜んでいるのかもしれない。


 こんな人物と引き合わされることになる大森貴子を気の毒に思ったが、本人が「直接会って謝りたい」というのだから、その意見を無視するわけにはいかない。

「ねえ、美織ちゃん。相手の子が先に、手を出したのよね。アナタはそんなことする子じゃないもの」

 御子柴昌が娘を抱きしめるその姿は、子供を庇うというより、縋っている様に見えた。

「ううん。違うの。わ、私が、私が先に手を出したの。ごめんなさい」

 娘から直接そう言われ、御子柴昌の顔から笑みが消えた。

「でも、その子が美織ちゃんにいっぱい悪口を言ったんでしょう!」

「それは……でも、先に手を出した方が、悪いから……」

 御子柴美織の顔には怯えの色が浮かんでいた。少なくとも、母親に向けられるべき表情ではない。

「違うわ! アナタは悪くない! 悪いのは全部相手の子よ! そうに違いないわ!」

 あまりの迫力に、御子柴美織は押し黙った。もうダメだ、見ていられない。これでは、御子柴美織があまりにも不憫だ。


「お母さん、も、もうやめて上げてくださ……」

「うるさいわね! いいから、相手の子とその親を呼んできなさいよ、その辺にいるんでしょう!」

 自分の召使いに命令するかのような口調で私に言葉を投げかけた後、彼女は再び自分の娘に向き直って、赤子を抱くようにせっせとあやし始めた。

 一体なんなんだこの親は。自分の一挙一動が、結果的に自分の娘を傷つけていることに気づいていないのか。自分のせいで傷ついている娘の姿が見えないのか。

 そんな思いをぶちまけてやりたい気分だった。そしてそれができない自分に苛立ちながら、私は応接間を出て、保健室にいる大森貴子を呼びに行った。


 やってくる私たちの姿を見て、御子柴昌は明らかに不服そうな表情を浮かべた。大森圭太がいないからである。

「ちょっと、その大森圭太っていう子はどこにいるのよ」

「すみません。圭太君は頭を打っている可能性があるので、今は学校の先生と一緒に病院に…」

 もちろん嘘だ。大森圭太は保健室に残っている。

「ふざけないでよ! そう言ってその子を庇っているんでしょう! どうして、うちの娘を傷つけるような子を、学校側は庇うのよ!」

 違う。大森圭太を呼ばなかったのは彼のためではなく、御子柴親子のためだ。

 もしここに大森圭太を呼んだなら、彼は御子柴昌の異常性を目の当たりにするだろう。そうなれば彼を中心に、御子柴美織を排除するような動きになってもおかしくはない。だから、御子柴美織を守るために、大森圭太を呼ばなかったのだ。


「御子柴さん、今日はうちの子が、美織ちゃんに酷いことを言ってしまったみたいで、本当に申し訳ありませんでした」

 深々と、大森貴子は頭を下げた。御子柴昌の異常性を知っているからか、先ほど息子を怒鳴りつけたときのような威勢は微塵も感じられなかった。


「うちの子は、おたくの子と違って繊細なんです。それなのに教室中に聞こえるような声で侮辱されて、どんなに傷ついたことか。あなたは分かっているんですか」

 そうなじられても、大森貴子は頭を下げたまま謝り続けるだけだった。そして御子柴昌は、道元先生が止めるまで、その下げられた頭に向かって何度も悪態をついた。そして彼女の隣で、御子柴美織は黙って俯いていた。その痛々しさは、私や道元先生だけでなく、大森貴子にも伝わったようだった。


 仮にまったく逆の立場だったとしても、私の前で繰り広げられた光景は同じものだっただろう。御子柴昌は大森貴子に頭を下げさせ続ける。自分の娘を守るために。それが結果的に、娘を追い込んでいることにも気づかない、愚かな母親。


 御子柴親子を見送った後、大森圭太のいる保健室へ戻った私たちを、白井先生が出迎えてくれた。

「お、帰ってきたね。お疲れさん」

 よほど沈んだ顔をしていたのか、私を見た白井先生は苦笑いを浮かべていた。


 圭太、と、大森貴子は息子の名を呼んだ。大森圭太も、素直に彼女の元へ駆け寄る。

「いいかい、圭太。美織ちゃんにもう二度と、酷いことを言っちゃダメだよ。絶対に、絶対だよ。約束できるかい」

 真剣な表情の母親に気圧されたように、大森圭太はぎこちなく頷いた。そして彼女は、私たちに向かってこう言った。


「先生方、今日のことはうちの息子が悪いこと、重々承知しています。ですからどうか、どうか御子柴美織ちゃんを守って上げてください。あの子はきっと、とってもいい子です。でも、あれじゃああの子、可哀想すぎます。だって、あれはいくらなんでも……」

 途中で涙ぐんでしまったが、彼女の言いたいことは痛いほど理解出来た。


 「溺愛」という文字が表す通り、御子柴美織は母の愛に溺れている。溺れて、必死に息をしようとする彼女には、今も洪水のような愛が浴びせかけられている。

 なぜ、赤の他人でさえ分かることが、あの母親には分からないのだろう。私は、娘を抱きしめる御子柴昌の血走った目を思い出していた。


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