episode1-8
教室に戻ったが、御子柴美織、伊野熊遊来、明石綺羅の席は空席のままだった。大森圭太を含む児童たちは自分の席で大人しくドリルに取り組んでいる。私は教卓に備え付けられている椅子に腰掛け、途中に寄った職員室から持ってきたパソコンを開いて小テストの作成に取りかかった。が、たった十分で集中力は切れてしまった。
私は、自分の無力さを痛感していた。
亘先生にフォローされ、白井先生には励まされ……道元先生は今、実験が行われるはずだった理科室で三人の話を訊いている。私なんて、大森圭太一人の話も、白井先生の助けがなければ聞き出すことが出来なかっただろう。新人だからと言ってしまえばそれまでだが、三人のベテランに比べて、私は何て無力なのだろうと、自己嫌悪に陥っていた。
いや、先生たちだけじゃない。児童にだってそうだ。給食のとき、御子柴美織が大森圭太に言った言葉。あれだって、本来は私が言わなければならなかった。私が言っていれば、大森圭太と伊野熊遊来は御子柴美織に対して反感を持つことはなかったはずだし、結果、御子柴美織が傷つけられ、大森圭太がが突き飛ばされることもなかった。そう、私のせいなのだ。私が、あのとき児童たちの前で正しい行動がとれなかったから、結果的に彼らを苦しめることになってしまった。
先生はね、子供の前で迷っちゃいけないのよ。
無理だ。私は迷ってばっかりだ。迷って、子供たちが傷ついて、また迷って。きっとこの先も、そんなことの繰り返しなんだ。私は、教師に向いていないのかもしれない……。
いつの間にか、私が教室に戻ってから二十分が経っていた。あと十分で授業は終わる。理科室組はまだだろうか。もしかしたら話が難航しているのかもしれない。私も顔を出した方がいいだろうか。
そんなことを考え始めたそのとき、教室の後ろの扉が開かれた。三人の児童が入ってきた後から、道元先生がその丸い顔にいつもの笑顔を浮かべて入室してきた。
「あら、みんなちゃんとやってるわね」
何事もなかったかのように、道元先生はいつもどおり、児童たちに微笑みかける。児童たちも、なぜか彼女の笑顔を見て、少し安心したような表情を見せた。それから道元先生は私の方を向き、「少しいいかしら」と声をかけて、また廊下に出てしまった。私も慌てて追いかける。きっと三人から聞いた話を私に教えようとしているのだ。
授業中の廊下はしんと静まり返っている。隣のクラスで授業をしている先生の声も聞こえてくるが、それがかえって辺りの静けさを強調していた。
「みんな凄いわね。普通自習になんてなったら子供たちは大騒ぎよ。ほんとに真面目でいい子たちだわ」
本当に何事もなかったんじゃないかと疑いたくなるほどの呑気さだ。さっきまで悩んでいた自分が阿呆らしくなってくる。
「ところで、あの三人はどんなことを話したんですか」
このままだとただの世間話をし始める勢いだったので、強引に本題へ持っていく。
「ああ、そうそう、その話よ……」
そう言って、道元先生は三人の話の詳細を述べ始めた。
まずは伊野熊遊来の話だ。これは私が大森圭太から聞いた話と大差はなかった。昼休みに友人から御子柴昌についての話を聞き、あくまでも「真偽を確かめる」ために、御子柴美織を問いつめようと思ったとのことだった。
続いて明石綺羅。彼女は昼休み、教室で友人たちと昨日のドラマについて話していたらしい。御子柴美織とは一緒ではなかったが、自分の席で本を読んでいたことは知っていたようだ。
もうすぐ昼休みが終わるという頃、サッカーボールを小脇に抱えた男子たちが教室に帰ってきたが、その顔がいやらしそうにニヤついているのを見た彼女は、何となく嫌な予感がした。先頭を切っていたのは大森圭太と伊野熊遊来。二人はすぐに御子柴美織を見つけ、彼女に詰め寄った。
「おい、モンスターの子供は学校なんか来んなよ」
それが大森圭太の第一声だったらしい。唐突にそんな言葉を投げかけられ、一瞬ポカンとした表情を浮かべた御子柴美織だったが、すぐに彼を睨みつけると、「何それ」と冷たく吐き捨てたらしい。
「とぼけんなよ、知ってるんだぞ。昨日、お前の母ちゃん学校に来て、『娘が日焼けしちゃうから席替えして〜』って、言ったんだろ」
侮辱するように大森圭太が言った。普段だったらここで頭に血が上った明石綺羅が大森圭太に食って掛かるところだろうが、明石綺羅は昨日の事件のことを知らなかったらしく、彼の言葉に驚いて助けに出ることができなかった。
「し、知らない、そんなこと」
御子柴美織は、明石綺羅から見ても明らかに動揺しているようだった。
「ウソつけ、お前が母ちゃんに頼んだんだろ。『先生に文句言ってよ、ママ〜』って」
「ちょ、ちょっといい加減にしなよ!」
ここで神田百花が男子二人に噛み付いた。
「美織ちゃんがそんなこと言うわけないじゃん!」
「は、お前は黙ってろよ」
応戦したのは伊野熊遊来だ。彼が大森圭太と神田百花の間に入る形で、神田百花をブロックしたのだ。
「そんなに窓際が嫌なら、廊下に机、運んでやるよ。おい、皆で運ぼーぜ」
大森圭太の言葉が号令のように教室に響いたかと思うと、その取り巻きが御子柴美織の机を持ち上げようとした。
「やめてよ、やめて!」
御子柴美織は抵抗したが、男子、それも複数に勝てるはずもなく、机はずるずると引きずられていった。まずいと思った明石綺羅は、ここでようやく止めに入った。友達と一緒に、机を運ぶ男子たちを抑えようとしたのだ。
複数の女子が助けに入ったため、明石綺羅は一旦離脱し、友達二人を連れて教室を飛び出した。次の授業は理科室で行われることを知っていた彼女は、急いで私たちを呼びに行こうとしたのだ。
つまり、これで大森圭太と御子柴美織の一対一の状況がつくり出されたわけだ。
この話を伊野熊遊来に聞かせたところ、最初は否定していたが、しばらく問いつめると観念したらしく、その後の状況を正直に話したらしい。そう、明石綺羅は私たちを呼びに行ったせいでその後の展開を知らないのだ。
「どうせモデルになんかなれねーのに、お前ってバカだな」
「決めつけないでよ、なれるもん」
「そんなわけないだろ、お前ブスなんだから」
「なんでそんなこと言うの!」
伊野熊遊来の話によると、互いに邪魔者が消えた状況で、二人の言い合いはどんどん白熱していったようだ。そして先ほどの恨みが残っていた大森圭太は、決定的な一言を御子柴美織に浴びせてしまう。
「お前の母ちゃんは悪い奴なんだから、消えちゃえばいいのにな!」
その瞬間に伊野熊遊来は、御子柴美織の顔が一変したのを見たと言う。真っ白な透き通る肌は真っ赤になり、端正な表情は怒りに歪められた。対する大森圭太は、勝ち誇ったような顔をして、御子柴美織を見下ろしていたらしい。
次の瞬間、御子柴美織は大森圭太を思い切り突き飛ばした。
油断していた大森圭太はおおきくバランスを崩し、背後に並べられていた机に激突、それらをなぎ倒しながら倒れていった。そしてその直後、私たちが教室に入ってきた、というわけだ。
「一応御子柴さんにも話を聞いたけど、大体間違いないそうよ」
話を聞き終え、私は絶句していた。普段はあどけない子供たちの、裏の顔を見た気がしたからだ。
大森圭太も伊野熊遊来も、多少やんちゃではあるが、それでも小学四年生の子供だ。純粋で明るい子供たちだと思っていた。しかし、そんな彼らには裏の顔があった。御子柴美織を集団で責め立て、机を教室外へ運び出そうとするなど、もはやイジメの領域だ。あんなに楽しそうに笑う子供たちが、そんな酷いことをするなんて……。
「御子柴さんに、『一体どうして大森君を突き飛ばしたの』って聞いたんだけど、よく分からないって答えていたわ」
そうだろう。さんざん中傷され、それでもぐっと我慢していたが、最後の一言が決定打となり、心の壁が決壊してしまったのだ。
「それで、大森君は何か言っていた?」
私は保健室で起きたことをありのままに話した。案の定、白井先生が雷ばばあになった件では笑いを堪えきれていなかった。
「あはは、いやあ、やるわねあの先生も」
「……笑い事じゃないでしょう」
道元先生はショックじゃないのだろうか。自分が受け持つ児童がそんな酷いことをしたことに対して心を痛めないのだろうか。
もしかしたら、慣れてしまったのかもしれない。長年の教師生活の中で、児童が持つ裏の顔、彼らに裏切られることに……。
「じゃあそういうわけだから、大森君と御子柴さんの自宅に連絡しておいて」
……え?
「え、連絡するんですか?」
「当たり前よぉ。一応暴力沙汰なんだから」
当たり前って、そんなことしたら……。
「み、御子柴さん絶対乗り込んできますよね」
うちの娘がそんなことするわけがないでしょう!
派手な服を身に纏った御子柴昌が応接室でそう叫んでいる光景が目に浮かぶ。
「多分ねぇ……一応大森君のお母さんにも来ていただいた方がいいかもね」
そ、そんな。ああ、ついてない。あの母親と二日連続で顔を合わすはめになるなんて……。
「なぁに死にそうな顔してるのぉ! 大丈夫よ、今日は私もいるし、いざとなったら亘先生に助けてもらえば」
呑気に笑い声を上げながら、道元先生は教室に入って行った。丸い体は、何故かうきうきしたように上下に揺れている。あれが将来の私の後ろ姿なのだろうか。そんなことを考えて、私はいろいろな意味で不安を覚えた。