episode1-7
保健室の扉を開くと、中には養護教諭の白井先生一人だけだった。ベッドに備え付けられているカーテンも開けられている。他の児童がいたら説明するのが面倒くさいと思っていたのでホッとした。
「あら、どうしたの。もうすぐ授業でしょう」
丸眼鏡の奥から人懐っこい目が笑う。弛んだ頬と顔中の皺が犬のパグを思い起こさせる。白井先生は道元先生よりも年配で、児童たちからは「おばあちゃん先生」と呼ばれている。事実、あと数年で定年だそうだ。
「実は、ちょっと喧嘩になっちゃったみたいで」
「あらら、元気なこと。それで、どこを怪我したのかしら。見たところ顔は無事みたいだけど」
喧嘩なんて大したことないというふうに、白井先生は大森圭太を自分の正面の丸椅子に座らせた。私は入り口の脇に備え付けられている黒い革製のベンチ椅子に腰掛けた。
「どうも強く突き飛ばされたみたいで。大きな怪我はしてないみたいなんですけど」
はいはい、と適当に頷きながら、白井先生は鶏ガラのような手で大森圭太の体に触れていく。足、腕、頭。時々腕などを掴んで痛いかと尋ね、大森圭太はその度に首を横に振った。
「うん、麻倉先生の見立て通り、大きな怪我どころか打ち身すらないね。丈夫丈夫。もしかしたら机がクッション代わりになったのかもしれないね。頭にもたんこぶとかはないから大丈夫だと思うけど、怖いんなら病院に行くように。怪我がないと思っても、翌朝にはぽっくり、なんてこともあるからね」
大森圭太の目が恐怖で見開かれる。おそらく病院に行くだろう。
とりあえず、保健室での診療が終わり、大森圭太も大分落ち着いたようだ。それとなく、喧嘩の原因を聞き出すことにしてみた。
「で、どうしてあんなことになったの。まさか、御子柴さんがいきなり突き飛ばしたわけじゃないでしょう」
「……」
黙秘かよ。私も舐められたものだと、つくづく痛感する。
「これ、先生にちゃんと話しなさい。だんまりなんて卑怯だろうが」
白井先生が嗜めると、ようやく口を開いた。しかしその口から出た言葉によって、今度は私が閉口してしまった。
「だって、アイツのかあちゃんが、モンスターペアレントだから……」
ぞっとする思いだった。同時に、先ほどの女子児童の会話が思い起こされる。やはり、児童の間でも話題になっていたのだ。御子柴美織の母、御子柴昌がモンスターペアレントだということについて。
どうして喧嘩にまで発展したのか、詳しい事情を尋ねてみると、大森圭太は渋りながらもポツポツと話し始めた。
大森圭太の話はこうだった。
昼休み、他の男子児童たちとサッカーに興じていたところ、ある児童から、昨日、御子柴美織の母が学校に理不尽なクレームをいれてきたことを聞かされた。もともと御子柴美織の母親がモンスターペアレントらしいということは、自分の母親から聞かされていたが、具体的な話に遭遇したのはこれが初めてだった。彼は伊野熊遊来にも同じ話をし、二人で御子柴美織に真偽を問うことにした。教室に戻った二人は御子柴美織を問いつめているうちに口論となり、カッとなった御子柴美織が彼を突き飛ばした、ということらしかった。
「本当か嘘かを確かめるため」という言葉で大森圭太はごまかしていたが、それが嘘であることは火を見るより明らかだ。おそらく先ほど言い負かされたことを根に持っていた二人は、彼女を糾弾する格好のネタが入ったことに喜び、御子柴美織をクラスで吊るし上げにしようとしたのだろう。
「だってさ、モンスターペアレントって悪い奴なんだろ。だから、それはいけないことだって御子柴に教えてやっただけだよ。おれは悪くないだろ」
事実、言い訳を並べる大森圭太は私と目を合わそうとしない。自分に分がないことを薄々感じ取っているのだろう。
「そうすることで御子柴さんが傷つくとは思わなかったの? 第一、御子柴さんのお母さんがどんな人だったとしても、それは御子柴さんとは何も関係ないでしょう」
「でも、先に手を出したのはあいつじゃんか。だからあいつの方が悪いんだ」
「確かに大森君を突き飛ばしたことについては、御子柴さんが悪いよ。でもね、大森君にだって悪いところはあったはずだよ」
「おれは悪くない! おれは悪い奴を注意しようとしただけ……」
「やかましい! この期に及んでまだ御託を並べるつもりか!」
一瞬、私の心の声がそのまま口に出たのかと焦ったが、怒鳴り声を上げたのは私ではなく、白井先生だった。
「その御子柴さんっていう子は何も悪くないだろうが。それなのに訳の分からんことをほざいて。いいか、もし本当に御子柴さんのお母さんがそういう人だったとしても、それを解決するのは先生の仕事で、お前さんが御子柴さんを問いつめるなんてお門違いにもほどがある。お前さんが口を出す問題じゃないんだ。それでも正義漢ぶるつもりなら、御子柴さんのお母さんに直接言ったらいいだろう。何なら私が今から御子柴さんちに連れて行ってやる。ほら、どうするか」
怒声と唾が容赦なく大森圭太を襲う。最初はぽかんと口を開けていただけだったが、白井先生のあまりの剣幕に、最後にはとうとう泣き出してしまった。「おばあちゃん先生」とはあくまでも「表」の呼び名で、「裏」ではもっぱら「雷ばばあ」と呼ばれている、という噂は本当だったようだ。
「あ、あの、白井先生、その辺りにして……」
「泣いたって無駄だ。いいか、お前さんはその子に突き飛ばされたんだろう。確かに暴力はよくないが、逆に言えばお前さんがその子をそこまで追いつめたってことだろうが。え? それでもまだ、自分は悪くないなんてほざくつもりか!」
ダメだ、私の話など誰も聞く耳持たない。自分の非力を嘆きながらも、同時に白井先生の迫力に圧倒されかけていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と泣きながら謝る大森圭太が少し不憫になるほど、白井先生の剣幕は恐ろしいものだった。クラスで委員会を決めた際、保健委員だけがなかなか決まらなかった理由が分かった気がした。
その後、御子柴美織にきちんと謝ると約束させ、ようやく雷ばばあの怒りは鎮められた。その後は泣いている大森圭太を宥めすかし、落ち着いたところで教室に帰した。
「麻倉先生」
私も戻ろうと、保健室を出ようとしたところ、背後から白井先生に呼び止められた。思わず肩に力が入る。さきほどの怒気が私の名を呼ぶ声に含まれていた気がしたからだ。
「は、はい」
「あんたも、もうちょっとしっかりしなきゃダメね」
容赦ない叱咤に思わず項垂れる。怖い先生は大人になっても怖いものらしい。
「でも、御子柴さんのお母さんが少し大変だっていうことは聞いているよ。もしも困ったら、私でも道元先生でも、何でも頼ってくれればいい」
本来、保護者と直接関わることの少ない白井先生にも、御子柴昌の話は耳に入ってきているようだ。児童が知っていても不思議ではない。
「ま、何事も経験だね。子供たちの話をしっかり聞いて、頑張りなさい」
そう言って、白井先生はその痩せた手で、私の肩を何度も強く叩いた。