episode1-6
午後一時四十五分を過ぎた理科室には、四年三組の児童たちが集まっている、はずなのだが……。
「みんな遅いわね」
授業開始まであと五分。普段ならすでに半分くらいの児童が理科室にやってきているはずなのだが、今日はまだ、私と道元先生の他には誰一人集まっていなかった。
「おかしいですね。もうすぐ授業が始まるのに」
「もしかして、今日は理科室で授業するってこと、忘れているのかもしれないわね」
そうかもしれない。自分にも、学生時代に連絡が行き違いになって先生が教室に現れなかったような経験がある。
「だったら私、教室まで見に行ってきます。きっとみんな忘れちゃってるんですよ」
そう言って私が理科室の扉を開けようとしたその時、廊下からバタバタと、数人が走ってくる足音が聞こえてきた。今日の授業が理科室で行われることを思い出した児童たちが、慌ててやってきたのだろうか。
引き戸を開けると、やはり三人の女子児童が息を切らしながらこちらに向かって駆けてくる。そのうちの一人は明石綺羅だ。
おや、と私は不思議に思う。いくら授業時間が迫っているとはいえ、真面目な明石綺羅が廊下を走るなんて珍しい。別に走らなければ間に合わないほど切羽詰まっているわけでもないのに。それに三人とも手ぶらだ。教科書どころか筆記用具すら持っていない。
「こら、あなたたち、廊下は走っちゃダメでしょう」
そう注意してみたが、彼女たちはいっこうに足を止めようとしない。私はそこで初めて、なにか様子がおかしいことに気が付いた。
「明石さん、どうしたの」
「せ、先生、は、早く、教室に来て」
額に汗を浮かべながら、明石綺羅が私の服の袖を引っ張る。顔は少し青ざめていて、表情には焦りの色が浮かんでいる。他の二人も同様だ。
「な、何があったの」
つい、私も動揺してしまう。
「大森と美織ちゃんが、た、大変なの」
大森圭太と御子柴美織。もしやさきほどの口論が再燃したのだろうか。詳細は分からないが、状況をつかむには教室に行った方が早いということは、彼女たちの表情から明らかだった。
「道元先生、トラブルみたいです」
「そうみたいね、とりあえず行きましょうか」
道元先生はこんな時でも相変わらず、呑気な口調だ。冷静に考えれば児童たちを落ち着けるためだろうが、動揺している私には、その姿はもどかしく映った。
前を行く明石綺羅たちは階段を一つ飛ばしで駆けていく。普段なら注意するところだが、今は言っても聞かないだろう。道元先生も何も言わずに小走りで私の後をついてくる。
階段の踊り場を過ぎた時点で、教室が異様に騒がしいことに気が付く。それも、ただ友達とふざけて騒いでいる様子ではない。もっと凶暴的と言うか、興奮状態におかれた子供たちが互いに相手を嗾けるような異常性を孕んだそれだった。
教室に入る寸前、ひと際大きな音がドア越しに聞こえきた。複数のもの、例えば机や椅子などの金属的で堅いものがなぎ倒されたような、耳を塞ぎたくなるような大きく、そして鋭い音。まさか、暴力事件か。私は焦ってドアを開け、中に飛び込んだ。
私の姿を見た瞬間(もしかしたら大きな音が鳴った瞬間だったかもしれない)、教室中の騒ぎ声が吸い込まれたかのように消えてなくなった。あるのは、こちらを向いて口をぽかんと開けている二十数名の顔だけだ。
クラスのほぼ全員が、教室のある一点を中心にして円をなすように立っている。まるで、コロッセオで行われる処刑を見守る観客のようだ。
児童たちの間を進み、中心を目指す。後から入ってきた道元先生も私の後に続いた。
中心にいたのは、御子柴美織だった。端正な顔は青ざめ、元々大きな目はさらに見開かれている。立っているというより、立ちすくんでいる様子だ。
「御子柴さん、何が……」
そう声をかけた瞬間、彼女の正面にいくつもの机と椅子が転がっているのが見えた。御子柴美織が倒したのだろうか。そう思って近づいてみると……。
倒れた机の間から、黒いTシャツが見えた。
私は慌てて、机と一緒に倒れ込んでいる誰かの元に駆け寄った。大森圭太だ。大森圭太が仰向けになって倒れている。
「大森君!」
私は思わず叫んだ。彼の顔は苦痛に歪められてはいるが意識はあるようで、泣き出す寸前の蚊の鳴くようなうめき声を上げていた。
とりあえず、彼に怪我がないかを確認する。全身を見ただけでも、流血がないことはわかった。足、腕などにも触れてみたが、骨折などの異常はなさそうだ。ただ頭を打っているかどうかは分からないので、念のために病院に行った方がいいかもしれない。
大きな怪我がないのを確認して、ゆっくりと大森圭太を起き上がらせてみる。さほど抵抗を見せずにすんなりと立ち上がった。やはり大した怪我はしていないだろう。そのとき、外野から声が上がった。
「こいつが、こいつが突き飛ばしたんだ!」
伊野熊遊来だ。彼が御子柴美織を指差しながら、大声で叫んだのだ。
「こいつが圭太を突き飛ばしたんだよ。早く謝れよ、謝れ!」
伊野熊遊来は喚き続ける。友達が突き飛ばされたことで、一種の興奮状態にあるのかもしれない。
彼の言葉に賛同するように、何人かの男子児童が手拍子を叩きながら、謝れ、謝れとコールをし始めた。
「ちょっと伊野熊、ふざけないでよ! もとはと言えばあんたたちが悪いんでしょ!」
顔は見えなかったが、その声が神田百花のものであることはすぐに分かった。コールは止み、二人がにらみ合う。
一触即発。このままだと第二回戦が始まってしまいそうだ。そんな心配をしていると、今の状況にまったく似つかわしくない穏やかな声が教室に響き渡った。
「さ、まずは大森君を保健室に連れて行きましょう。今日の実験は中止。みんなは机をもとに戻した後、理科のドリルを進めておいてください。それと、伊野熊君と明石さん、御子柴さんは先生と一緒に来てちょうだい」
道元菩薩の一声で、児童たちは一旦落ち着きを取り戻したようだ。複数の児童が机を直し始め、他の児童は自分の机から理科のドリルを取り出し始めた。残されたのは大森圭太、明石綺羅、御子柴美織、そして私。
「じゃ、大森君は麻倉先生と一緒に保健室に。あとの三人は私と一緒に理科室に行きましょ」