episode1-5
「もしかして、給食おいしくなかった?」
昼休み、テストの採点をしていると、隣の道元先生が声を掛けてきた。
「え、そんなことないですよ。おいしかったです」
「そう? それにしては、食べながら随分難しい顔をしてたけど」
そういうところはよく見ているのだな、と嫌味半分に思った。おそらく、大森圭太がメキシカンシチューの具を残していたのを発見した時だろう。
「ええ、実は気になったことが……」
私がありのままに先ほどの出来事を話しているうちに、道元先生は三回吹き出し、そして話終えた時には、失礼極まり無いほどの大笑いをかましていた。
「あはは、あなたよくそんな小難しいこと考えながらご飯なんか食べられるわね」
さすがにムッとしたが、なんとか堪える。
「あはは、あー、面白かった。それで、圭太君はなんだって」
「あ、いえ、考えている間に片付けられちゃったので」
そう言うと、道元先生は笑みを抑え、急に真面目な顔つきになった。いつもニコニコと笑っているので、こういう顔をされると少し戸惑ってしまう。
「あらら、それはあんまりよくないわね」
「え、そうですか」
道元先生がこういう顔をする時を、私は何度か見たことがある。いつもは垂れ下がっている目がほんの少しだけ険しくなり、逆にいつもは上げられている口角が下がり、まるで地蔵のような表情になる時。それは、悪事をはたらいた児童を戒める時だ。
「ええ、良くないわね。あなた、どうしてそれを圭太君に言わなかったの」
聞かれてから、私は初めて考えた。私はなぜ、彼に何も言わなかったのか。
それは、私の中に迷いがあったからだ。大森圭太がメキシカンチューの具を残したことがルールに抵触しているのかいないのか、判断がつかなかったのだ。
正直な気持ちを口にすると、道元先生は、それよ、と、私に語り始めた。
「先生はね、児童の前で迷っちゃいけないのよ。特に小学校ではね。子供は大人が迷うととても不安に思うの。だって子供たちはみんな、先生のことを信頼しているんだから」
「信頼?」
「そう。先生に関わらないけど、身近な大人たちはある意味、子供たちの指標みたいになっているの。難しく言えば行動規範、っていうのかしら。それがもしもブレてしまったら、不安になると思わない?」
優しく諭すような声で、道元先生は私に語りかける。まるで児童の一人になった気分だ。
「だから、慣れるまでは大変だろうけど、子供たちの前ではあんまり迷っちゃダメ。言うと決めたら言う。言わないと決めたら言わない」
「でも、もしも間違ったら?」
不安を拭い去ることが出来ない私は、子供みたいな質問をしてしまった。
「そしたら謝ればいいの。ごめんなさいって」
それから道元先生は、私の不安を吹き飛ばすような笑い声を上げた。
「あ、いけない。次の理科は理科室だったわ。準備しないと」
そう言って、道元先生は慌てて机の上に散乱していた書類を片付け始めた。
「いいですよ、道元先生。私がやってきます。確か、理科は今日から『電池のはたらき』の分野に入るんですよね」
「ええ、そうよ。じゃあ悪いけど、実験器具、出しておいてくれる?」
わかりました、と返事をして席を立ち、職員室を出る。貴重なベテラン教師の教えを授かったのだ。これくらいの雑用、喜んで引き受けよう。
そんなことを考えながら、私は三階の東側にある理科室を目指した。
理科室に隣接している理科準備室から豆電球、単一電池二つ、単一電池ボックス、ビニール導線二本、打点式スイッチを取り出し、これを五セット用意して理科室に運ぶ。各机にワンセットずつ置いた後、今度は教室後方の棚から電流計を五つ取り出し、これも各机に割り振る。
温度とものの変化、季節の変化という項目を経て、今日からは電池の働きという分野に入る。直列回路と並列回路の違い、電流や電圧など、理科嫌いが蹴躓く要素がふんだんに盛り込まれているが、かくいう私も苦手分野で、実験道具を用意するだけで十分近くかかってしまった。理科の授業自体は道元先生が行うが、実験の最中は私も児童たちにアドバイスをしなければならない。正直、少し緊張していた。
普段触れることのない器具に戸惑ってしまい、全ての器具を用意し終えた時には、昼休みはすでに終わりを迎えようとしていた。五時間目が始まるまであと十分もない。こんなことならば教科書などの教材一色を持ってくれば良かったと少し後悔する。
しかし悩んでいるうちにも時間は過ぎていくので、私は仕方なく廊下に出て、職員室に戻ることにした。早くしないと遅刻してしまう。それだけは避けないと……。
廊下はすでに、校庭から帰ってきた児童たちで溢れかえっていた。走っている児童はいないものの、やはりこれだけの子供が集まると廊下中が騒がしい。私は彼らの間を縫うようにっしてなんとか前に進んだ。もしもぶつかってしまったら、低学年の児童などは怪我をしてしまう恐れもある。慎重に向かわなければ。
自分の周りをちょこまかと動き回る幼い生命体に細心の注意を計りながら階段を下り、目の前の職員室の扉を開けようとした、その時だった。がやがやと騒がしい廊下から、ある一組の会話文を耳が拾った。
ねえ……知って…さんく……の…みこしば……おかあ…………乗り込んで……
え…それ…………でも……しか…みこ……おかあさん……モンスター……
雑踏の中なので、他の児童の話し声で全ては聞き取れなかったものの、その会話の断片は確かに私の耳に届いていた。女子児童二人の会話。聞こえた部分は少なかったはずなのに、なぜかその会話の足りない部分を、私の脳は勝手に補完していた。
ねえ、○○ちゃん知ってる? 三組の御子柴美織ちゃんのお母さん、昨日学校に乗り込んできたんだって。
え、それ知らない。でもさぁ、確か、御子柴さんのお母さん、モンスターペアレントなんだよね……
雑音の中だったので聞き間違いだったかもしれない。あるいは私の勝手な解釈だったのかもしれない。しかし、私の耳に断片的に飛び込んできたその単語たちは、頭の中に到着するころには確かな会話文として形成されていた。
御子柴美織の母が学校に乗り込んできたことが、児童たちにバレている……。
一体誰が。慌てて後ろを振り返るも、声の主など分かるはずもなかった。廊下には教室へ向かう児童でごった返している。声の主は雑踏に埋もれ、私の前に姿を現すことなく群集にまぎれてしまった。
御子柴美織の母はモンスターペアレント。まさか児童の間にまで話が広まっているなんて……。
心の中がざわつくような嫌な気配が、私の体の周りに渦巻いていた。




