養護教諭 白井基子の推測
今日もまた、一日が終わろうとしている。昔はなんでもないようなことのようにそれを受け止めていたが、この歳になるとそれも変わってくる。一日が終わるということは、それだけお迎えが近くなるということだ。死を意識ことが多くなったと最近思う。
小学校という狭い範囲の、さらに狭い保健室で子供たちの怪我の手当をして、もう何年になるか。初めのうちは、一年目、三年目、五年目と数えては喜んでいたが、近頃はそれも億劫になっていた。
詰め込み教育からゆとり教育に移行し、またそれが更に移行しようとしている様を見続けてきたが、どの時代の子も、世間が言うほどに大きな変化はなかったと、今にして思う。そりゃ、時代に合わせて遊びも勉強も変化してきた。でも、野球をする少年と、携帯ゲーム機で遊ぶ少年の笑顔の本質は、至ってなにも変わらない。変わったのは、彼らを見つめる私たちの方だろう。
とはいっても、子供はいつも純粋、というわけではない。頭のおかしいモンスターは、何時の時代、どんな世代にも存在する。
「何を考えているの? 白井先生」
目の前で診察用の椅子の腰掛けている道元先生が、笑みを浮かべて言った。
「別になんでもないよ」
「何でもなくはないでしょう。先生が私を呼び出したんですから」
時刻はすでに四時を回っている。校庭では子供たちがサッカーコートを駆け回っている。
「そうだったね。うん。ちょいと話があったもんだからさ」
「話?」
「ああ。亘先生の件だよ」
亘という教師が逮捕されたのは先週のことだ。真面目そうな男だったが、周囲の目を盗み、児童をいたぶっていたというとんでもない教師だった。彼にどのような罰が下されるかは知ったことではないが、当然、教職に戻ることはないだろう。
「何でも、あんたが解決したらしいじゃないか」
「別にそんな大層なことでもありませんよ」
「何を言っているんだ。麻倉先生から全部聞いたよ。彼女、あんたのことを褒めちぎっていたよ。本当に凄いって」
「もう、麻倉先生ったら」
謙遜するように照れた笑みを見せる道元先生に、私は醒めた視線を送った。
「彼女、事細かにあんたの推理を話していったよ」
「あら、そうなんですか」
西日が差し込み、保健室がオレンジ色に染まる。太陽が沈みきる前に見せる、最後の輝きだ。
「それを聞いて思ったんだけどねぇ。あんた、随分と後手後手だったんじゃないかい?」
「……」
「久茂先生のときもそうだったねぇ。あんた、いろいろと調べ回っていたみたいだけど、結局、久茂先生は刺されてしまって入院するハメになった。今回だって、亘が初めに木村翔に接触したのは12月だったっていうじゃないか。おそらく、交流会のときに目を付けたんだろうね。亘と児玉先生のクラスは、交流会のペアだろう。もしもその頃に気づいていたなら、こんな大事にはならなかったかもしれないねぇ」
「あらら、もしかしてお叱りですか」
「別に叱っているわけじゃないよ。ただ、言っておきたいことがあってね」
「……なにかしら」
「わざとだったんじゃないかい?」
道元先生の顔から、さっと笑みが引いた。
「わざと? 一体何が?」
「何が、じゃないよ。あんた、本当はずっと前から気づいていたんじゃないのかい」
「言ってる意味が分からないわ。一体何を根拠にそんなことを……」
「根拠はないよ。ただ、あんたに関わる話を冷静に見てみると、なんだか妙に違和感があるんだ」
「違和感?」
「まず、去年に起きた御子柴さんの件。あのとき、麻倉先生は随分とスタンドプレーに走っていたけど、あんたもかなり我関せずの態度だったわね。肝心なところで出張やらお使いやら、席を空けていることも多かった」
道元先生はじっとこちらを見ながら耳を傾けている。
「あんたは、御子柴親子の歪みに気が付いていたんじゃないか? それが麻倉先生の手に負えない問題だと言うことも知っていて、あんたはわざと、彼女に問題を一任していたようにも思えるんだよ」
「まさか、そんな無責任なこと」
「久茂先生のときもそうだ。あんたは、問題が重大化する遥か以前から、遠野春季の欠席日に気を遣っていた。彼の視力が落ちていて、かつ視力検査を受けていないことに気が付いたのは、果たしていつのことだろうねぇ。私には、久茂先生が刺されたあとだったとは、どうしても思えないんだよ。一言でいえば、あんたにしては鈍すぎた」
道元先生の顔に、焦りの色はない。私が見当違いのことを言っているのか、それとも、コイツの神経がその体のように図太いのか。
「そして最後の事件。今度は久茂先生のときとは逆だ。勘が良すぎる。麻倉先生の話をどう解釈しても、木村翔が誰かから痛めつけられているという決定的な証拠がどこにもない。ほとんどの人間が疑うことすらしなかったし、現に最初は児玉先生も気に留めていなかったそうじゃないか。でも、それをアンタが嗾けた。もっともみたいなことを言って、さも木村翔が酷い目にあっているように周囲に知らしめた」
「何よそれ。まるで、私が最初から全部知っていたみたいに……」
「みたいに、じゃないよ。知っていたんじゃないかと聞いているんだ」
道元先生はしばらくじっと黙っていたが、やがて吹き出すように笑い出した。
「もう、何いってるんですか。そんなわけないでしょう。第一、そんなことをして私になんの得があるんですか」
「……名声。そして信用」
「……は?」
「ここからは、あんたの悪口みたいになっちまうけどいいかい」
「……どうぞ」
「楽観的と言えば聞こえはいいけど実際はただ何も考えていないだけ。こっちの報告は聞き流すし、第一真剣味が足りない。いつもへらへら笑っているだけで子供たちを叱りもしないし、本当にベテラン教師なのかと疑いたくなる」
「あらら、随分と辛辣ね」
「……と、去年の初めに麻倉先生がそう相談しにきたんだよ。もちろん、ここまで直接的な表現じゃなかったけどね」
「あら、彼女もしかして私のこと嫌いだったのかしら」
「知っていたくせに」
再び、笑みが失せる。
「児玉先生はよく知らないけど、久茂先生もあんたのことを良く思っていなかったのは何となく分かる。分かりやすいタイプだしね、あの男は」
「……彼らが私を嫌っていたからって、それがなんだっていうの」
「あんたはわざと問題が大きくなるように仕向け、彼らを絶望の縁に追い込んだ。そして、いよいよ彼らの手に負えなくなった時、あんたが颯爽と現れて、ビシッと事件を解決する。どこぞの探偵小説みたいにね。あんたに不信感を抱いていた彼らも、あんたに一目を置くようになる。『この人は凄い。だって、私が解決出来なかった問題をいとも簡単に解き明かした』ってね」
「私が、彼らに好かれるためだけにそんなことをしたってこと?」
「簡単にいえばね。でも、あんたの中ではそれはとても重要なことだった。あんたは自分を下に見る人間が存在することが許せなかった。なんとかして彼らから一目置かれるような存在になりたい。私は凄いということを、皆に知らしめたい」
そう、この道元という女は、見かけほど穏やかな人間ではない。
「あんたは、随分とプライドが高いんじゃないか。自分が主人公でないと気が済まない。だからあんたは『探偵』になりすまし、様々な問題を時に放置し、時に周囲の人間を嗾けていったんだ」
「……ただの妄想ね」
「ああ、そうだ。ただの妄想だ。証拠も何もない、ババアの戯れ言だよ。でもな、私には分かるんだよ。あんたは普通の人間とはちょっと違う。おおらかさと鋭さ、愚鈍さと俊敏さという二面性を持ち合わせている」
道元先生は、呆れたように鼻で笑う。
「話はそれだけ? 随分と楽しいお話だったけど、少し嫌な気分になったわ」
「済まないね。でも、私はこの話が気に入っていてね。麻倉先生や久茂先生、それと児玉先生にも同じ話をしてみようと思うんだ」
「……」
「あの三人はどう思うかねぇ。もしもあんたのことを嫌っていたようなやつらだったとしたら、もしかしたらこんな戯れ言を信用するかもしれない」
「……どうぞご勝手に」
ここにきて、道元先生の目に初めて敵意のようなものが映った。
「私はね、今年で退職するんだよ」
「あら、いきなり何の話?」
「定年って奴さ。別に、おかしな正義感を持ってあんたを問いつめているわけじゃない。ただの興味だ。あんたには本当は、誰にも知られていない裏の顔があったのんじゃないか。想像してみたら、なかなか面白いと思ってね。もしもそうだったとしても、誰かに話したりはしない。そこまで青臭い人間でもないと、自分でも思っている」
「……」
「だからさ、ちょいと聞かせてくれないか。あんたの本音。何の起伏もなかった私の生活に、ほんの少し、スパイスを与えておくれよ」
道元先生は、睨むような目つきをこちらに向けたが、やがて表情筋を緩めたような脱力感に満ちた表情を浮かべた。
「年の功ってやつね」
「ん?」
「でも、あなたのいったこと、ちょっと違うわ。別に誰かに好かれたかったわけじゃない。私はね、純粋に楽しかっただけ。皆が私を見て、私の話を聞いて、それに納得し、私に賞賛の声を送る。それが堪らなく快感だったの」
「……ほう」
「でもね、その快感を多く得るのにもコツがある。それは、インパクトよ。より難解で複雑な場面においてこそ、得られる快感が増幅する。誰かが解けなかった問題を、私が解く。嬉しいじゃない。誰でも味わったことあるでしょ。学校とかで、誰かが間違えた問題を解いたときの高揚感」
いつも朗らかに微笑んでいるだけのこの女が、ここまで嬉しそうに唇の端を持ち上げるのを私は初めて見た。
「あなたの言った通りよ。私は、問題が起きてもその根本にある原因をある程度は見抜いていた。でも、私が例えば久茂先生に、春季君は不真面目なんじゃなくて目が悪いだけだって伝えても面白くないじゃない。彼が春季君のお母さんに刺されたからこそ、あそこまでドラマチックな展開になったのよ」
「……ひとつだけ聞かせておくれ。あんた、亘先生の件はいつから気づいていたんだ」
「ああ、あれ。最初から知っていたわ」
「最初? 一体、どうやって……」
「見ちゃったのよ、私」
見ただと……まさか。
「偶然だけどね。体育館に近寄った時、何か話し声が聞こえるからおかしいな、と思って。鍵がかかっていたから詳しい様子は分からなかったけど、そこから出てきた亘先生と翔君はばっちりこの目で確認したわ」
「……それで、あんたは何もしなかったわけだ」
「ええ。放っておいた方がもっと面白くなると思ったから」
ここにも、モンスターが紛れ込んでいた。亘と同等、いや、もしかしたらさらに質の悪い……。
「放置したら、木村翔が危険な目に遭うとは思わなかったのか。心に一生残る深い傷が付けられるとは考えなかったのか。久茂先生が命を落とし、美織ちゃんが夢を諦めるような事態になるかもしれないとは、これっぽっちも思わなかったのか」
「思ったわよ。でも、そうならない為に、私がいるんじゃないですか。久茂先生が刺されたのは正直予想外でしたけど、でも、死ななかった上に教職に復帰出来たんだから結果オーライでしょ」
私、昔から運がいいんです、と道元先生は鼻を鳴らした。
「……ほんとうに、最悪な話だね」
「でも、気に入った話、なんでしょう?」
「出て行っておくれ。これ以上あんたの顔を見ていると、思い切り殴りつけてやりたくなる」
「はいはい、分かりました。あ、この話は他言無用でお願いしますね」
「分かってるよ。どうせ、誰かに話しても私がボケ始めたと皆笑うだけだ」
道元先生は最後ににっこり笑うと、踵を返して廊下へ続く保健室の扉を開けた。
「最後に一つだけいいかい」
柔らかそうに歪んだ背中に向かって、言葉を投げた。
「何かしら」
「あんた、いずれ破滅するよ」
「そうかもしれないわね。でも、あなたが死ぬ方が先なんじゃない?」
捨て台詞のつもりだろうか。道元先生はこちらを見ずにそう言った後、扉も閉めずに部屋から出て行った。
私は大きく溜め息をつき、羽織っていた白衣からあるものを取り出した。
透明なプラスチックが、西日を反射してオレンジ色に輝いている。中央の再生ボタンを押し、先ほどの会話が鮮明に録音されていることを確認する。
さて、こいつをどうしたものか。彼女との約束を守ろうか、それとも、この手で奴の息の根を止めるか。
悩み抜いた挙げ句、私は手の中の小型ボイスレコーダーを、そっと引き出しの奥に閉まった。
モンスターの子供たち 完




