episode3-10
翌日の早朝、いつものように職員室へ赴くと、ちょうど階段を駆け下りてくる一人の児童と出会した。何事かと思って見てみると、彼は僕のクラスの児童である大隈俊樹だということが分かった。五年一組の学級委員だ。
「大隈君、廊下は走っちゃ……」
型通りの注意をしようとしたが、大隈はそれを遮って言った。
「あ、先生、ちょうど良かった。今すぐ教室に来てください」
見たところ、大隈はかなりの慌てているようだった。切羽詰まった様子を感じ取り、事情を聞くことにする。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「緊急事態です。とにかく早く来てください!」
そういうと、大隈はくるりと踵を返し、またも階段を駆け上がっていった。
急いで後を追い、教室のドアを開ける。時刻は七時五十分。登校しているのは大隈と、それから安藤茉奈美だけだった。教室に一人残っていた安藤は、不安げな様子でこちらを見つめている。しかし彼女がいるのは自分の席ではなく、廊下側の一番後ろの席だった。木村の席だ。
「一体、どうしたの」
「先生、木村君の机を見てください」
大隈にいわれるがまま、僕は木村の席に近づいた。
そして、絶句した。
「な、なんだ、これ」
机は、見るも無惨なことになっていた。
壊されていたわけではない。傷つけられていたわけでもない。赤、青、緑。その他様々な色で、茶褐色の机の表面が穢されていたのだ。
「朝来たら、こうなっていました。先に安藤さんが来ていて、彼女も、この机を見て驚いていました」
机の表面には、「馬鹿」、「死ね」、「阿呆」等、罵詈雑言の数々がこれでもかというほどに書き連ねられていた。言葉だけでなく、中には、悪趣味な悪戯書きも散在している。
一体誰が……。うちのクラスの児童だろうか。それとも他のクラス? 話を聞いた限りだと安藤が第一発見者のようだが、では彼女がやったのか。いや、昨日の放課後ということも考えられる。でも、ちょっと待てよ……これは……まさか……。
「先生、早くしないと、木村君や、他の皆が来ちゃいます」
まさか隠してなかったことにするわけにはいかないが、児童全員が来るまでこれを放っておくのは流石に躊躇われた。机の中を見たところ、教科書やノートは一冊も入っていなかった。
「大隈君、空き教室に机の予備があるから、悪いけど持ってきてくれるかな」
「あ、はい。えっと、これはどうしますか」
大隈は落書きだらけの机を指差した。
「これは……とりあえず僕が預かります。それと」
不安げな表情を浮かべる大隈に笑みを見せて言った。
「一時間目は国語だけど、半分だけ学級活動にしちゃうかもしれない。皆が来たら、そう言っておいて」
一度職員室に戻り、出席簿と座席表だけを持って再び教室に戻ったのはSHRが始まる八時四十分を過ぎた頃だった。一階下の空き教室に置いていた木村の机も持ってきたのだが、たったそれだけの運動で息があがってしまった。体育の時間などでもそうだが、最近自分の体の老化を痛感させられることが多い。頭ではまだまだ若いつもりだが、年々体力とのギャップが開いてきている。
だが、弱音は吐けない。児童一人の机に落書きがされた。これは由々しき事態であり、到底見過ごすことは出来ない。実は、この落書きはクラスの中の誰かによるものだという可能性が高いと僕は睨んでいる。それも、ある個人に強い疑念を抱いている。もちろんそう考える根拠があるわけだが、その考えがある以上、僕はこれから、クラス全員と対峙しなければならない。体力がどうこうなどと言っている場合ではないのだ。
とりあえず机は廊下に放置し、教室の扉を開く。児童たちは教室のあちらこちらに散らばり、話に花を咲かせている。但し、事情を知る大隈と安藤だけは神妙な面持ちを隠しきれていなかった。
「皆、席について」
僕の号令により、児童たちは各々の席に戻っていく。ちらりと木村の様子を伺う。どこか釈然としないような表情を浮かべている。机が変わったことに違和感があるのだろう。
「今日は、少し話さなければいけないことがあります」
出席を取ったあと、僕は一度教室を出て、廊下に置いてあった机を中へ運び入れた。そして、皆に見えるよう、それを担ぎ上げた。
教室がざわめく。はじめはキョトンとしていた子供たちも、その悪戯書きを認識した瞬間に息を詰まらせた。そして、さざ波のようなざわめきが教室中に広がっていく。
木村は、すぐに自分の机だと気づいたようだった。ショックを受けるだろうかと思ったが、彼は大きな声で、それは俺の机だと皆に知らしめた。その発言で、ざわめきは更に大きくなる。
「静かに」
僕の一言で、教室は水を打ったかのように静かになった。
「確かに、これは木村君の机です。今朝、このように落書きされた状態で見つかりました」
児童たちの顔を見渡すが、誰もが予想外の事態に驚いている、といった様子だった。少なくともクラスぐるみの犯行ではないようだった。ちらりと岡部を盗み見たが、彼は眉間に皺を寄せて黙っているだけだった。
「今朝この状態で見つかったということは、昨日の放課後に書かれた可能性が高いです。誰か、机に落書きをした人を見かけてはいませんか」
しばらくは誰も手を上げなかったが、やがて、阿久津という男子児童がおずおずと手を挙げた。木村の隣に座っている児童だった。
「阿久津君、何か見たのかな」
いや、そうじゃなくて、と阿久津は答えた。
「昨日、最後に教室を出たのは俺です。リコーダーを忘れてとりに戻ったんだけど、そのときは誰もいなかったし、机もいつも通りでした」
「え、じゃあ、阿久津君が犯人なんじゃ……」
教室のどこからか、そんな声が上がった。それに反論するように、今度は楠木という男子児童が立ち上がった。阿久津と仲のいい児童だ。
「それはない。俺は阿久津がリコーダーをとってくるまで校庭で待っていたけど、阿久津はすぐに出てきた。多分、五分もしなかったよ」
「阿久津君、教室に戻ったのは何時頃でしたか」
「えっと、確か三時四十五分とかです。帰っている途中で気が付いて、引き返したから」
ということは、犯行時刻は三時四十五分以降ということになる。昨日は火曜日だから、岡部は塾の日のはずだ。塾が始まるのは五時からだから、時間的に少し厳しいか。いや、予め塾の用意をしておいたなら大丈夫かもしれない。
「あの、先生……」
次に手を挙げたのは、望月という女子児童だった。
「その机の落書きを見つけたのは、誰だったんですか?」
「……どうしてですか」
「だって、昨日の放課後じゃなかったら、今日の朝ってことになるでしょ? だったら、ダイイチハッケンシャが怪しいです」
望月が言う「第一発見者」は、大隈の言葉から推測するに安藤茉奈美だろう。しかし、この流れで彼女の名前を出してしまえば、疑いの矛先は彼女に向けられることになるだろう。どうしたものか……。
しかし、僕が悩んでいる間に、彼女はスッと手を上げ、こう宣言した。
「私です。私が、最初に見つけました」
教室を、再びさざ波が襲う。安藤? 安藤が? そんな声が、あちらこちらから漏れ出てくる。望月も、まさか安藤が挙手するとは思っていなかったのだろう、気まずそうな表情で彼女を見つめていた。
「まさか、安藤が犯人……」
「ちょ、ちょっと待って!」
立ち上がったのは、大隈だった。
「安藤さんは犯人じゃないよ。もし彼女が犯人だったら、こんな状況で名乗り出ないだろう」
大隈のいうことはもっとももだった。まぁ、それを見越した上で敢えて名乗り出たのかもしれないが。
その後、何人かの児童が発言したが、少なくとも、犯行を目撃した児童はいないようだった。よって一番可能性として高いのは、犯人は阿久津が教室を出て行ったあと、教室に忍び込んで犯行に及んだ、というものだろう。
「あのさぁ、別にうちのクラスの誰かが犯人って決まったわけじゃなくない?」
発言したのは、四年生と喧嘩した時に僕を呼びにきた柏木だった。
「もしかしたら、この間の四年生が腹いせにやったのかもよ」
彼女の意見に賛同するかのように、そうだ、そうに違いないという声が上がる。
「……先生は、それはないかな、と思います」
「え、どうしてですか」
「だって柏木さん。基本的に、他クラスや他学年の人たちは、ここの教室には入れません。それは禁止されているからです」
柏木は、ぽかんとした表情を浮かべた。
「いや、先生。誰も見ていないんだから入れますよ。そんなルール、守る必要はありません」
「そうだね。教室に入るだけならできるかもしれない。でも……」
そう言ったあと、僕は出席簿から一枚の用紙を取り出した。
「これは座席表です。 僕はこれを、いつも出席簿に挟んで、職員室に持っていきます。もちろん、昨日もそうしました」
「あ、そうか!」
「俺も分かった!」
声を上げたのは、大隈と木村だった。
「四年のあいつが犯人のわけがない。だって、あいつは俺の席がどこだかは分からないから」
「そういうことです」
僕がクラス内に犯人がいると推測した理由の半分はそれだ。無論、もう半分はここで口にするわけにはいかないが。
「……いたずら、じゃないですか?」
口を開いたのは、岡部だった。
「別に、翔の席を狙ったわけじゃなくて、いたずら目的で落書きしたのが偶然翔の席だった。そう考えられませんか」
「……確かに、その可能性はあります」
「もしもいたずら目的だったら、他クラスの人の方が怪しい。だって、自分の教室でやったら、自分の犯行だとバレてしまうかもしれないから」
岡部の言うことはもっともだった。彼らが何か隠していることを知らなければ、僕も納得してしまっただろう。
「先生は、何もこのクラスの人たちを疑っているわけではありません。もし、何かを見たという人がいれば、勇気を持って相談してきてほしいんです。校門には警備員さんや用務員さんがいますから大丈夫だとは思いますが、外から入ってきた誰かがやった、という可能性もあります。何か知っていることがあれば、先生に相談してください」
嘘だった。大嘘だった。
僕は、このクラスに犯人がいると思っている。それも……。
僕は密かに、疑惑の目を、岡部一人に向けていた。
「机に落書きですって?」
一時間目を終えて職員室へ戻る途中、同じく職員室へ戻ろうとする亘先生とばったり出会した。
「はい。木村君の机に……」
「えっと、落書きって言うのは……」
「『馬鹿』、『死ね』、『学校に来るな』……。その他罵詈雑言のオンパレードです」
赤や青のインクで書かれていたにもかかわらず、茶褐色のみの時よりも随分と汚らしく見えたものだった。
「ひどいな。それで、犯人は分かったんですか」
「……いえ。でも目星はある程度……」
「誰です」
「……岡部君です」
亘先生は目を見開いた。
「やっぱり、彼は木村君に何か……」
「そう、だと思います」
「でも、根拠は……」
「漢字です」
「漢字?」
訝しげな視線を向ける亘先生に、僕は人差し指で、空中に文字を書いた。
「亘先生、バカって漢字で書けますか」
「は? え、ええ。馬に、鹿ですよね……あ!」
「鹿は、小学校五年生では習いません。それに、もし鹿という漢字を知っていたとしても、馬と鹿でバカと読むことを知っている児童って、そんなに多くはありません」
「確かに……」
「それに、机には『阿呆』とも書かれていました。亘先生、漢字で書けます?」
「えっと、こざと偏に可能性の可、それから、えっと、口の下に、木、かな」
「はい、あきれる、という字です。でも普通、五年生ならひらがなかカタカナで書きませんか」
「言われてみれば……」
「ちなみに、『阿呆』は両方とも、六年生でも習いません。しかし、学年一の秀才である岡部なら書けてもおかしくはない。もちろん決定的な理由とは程遠いですが、疑念を抱く程度には十分でした。さっきの話し合いでは、他クラスの子が無差別にやったという意見が出ましたが、このタイミングで木村君がターゲットになるなんてやっぱりおかしい」
「……なるほど」
「もし落書きの犯人が岡部君だったなら、彼はやはり、木村君に何か働きかけているのでしょう。何か、木村君を屈服させるような手段を用いて」
僕の中で、岡部への疑念ははち切れんばかりに膨らんでいた。彼が何か企んでいると見てほぼ間違いない。そこまで思っていた。
彼を止めなければならない。木村を助けるには、僕がなんとかするしかない。




