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episode3-6


 白いソフトボールが、ふわりと宙を舞った。かと思ったら、すぐに地面に吸い込まれていく。ボールはもう一度跳ね上がり、やがてその動きを止めた。

 ボールの跡がついた箇所まで走り、記録を確認する。19メートルだった。手持ちの記録表に、遠藤・19メートルと書き込む。


 一人二球なので、遠藤はもう一度ボールを放り投げた。が、先ほどよりもさらに1メートルほど短い地点に落下した。


 ただボールを投げるだけの競技だが、こういった単純なスポーツほど、個々の差が出てくるものである。ソフトボール投げにおける小学四年生の平均記録は24〜26メートルだっただろうか。そう考えると遠藤は平均以下ということになるが、中には40メートル以上飛ばす強肩の持ち主も存在する。


 名前順に測定していくので、遠藤の次は岡部となる。彼は既に所定の位置についており、手にはボールが握られている。

 ぎこちなく体を捻らせ、大きく振りかぶる。ボールを投げるという行為に慣れていない動きだ。ボールは手から離れたが、すぐに地面へ落下した。

 記録は、おそらく10メートルを超えていないくらいの地点に落下したようで、確認すると8メートルだった。記録表には8メートルと記す。これは、女子の平均を大きく下回る結果だ。

 もう一球も、ほとんど変わらない記録だった。岡部は表情一つ変えずにその場を去った。


 彼に対し、40メートルを超える記録をたたき出したのが木村だった。勢いよくボールが放たれた瞬間、クラスメイトから歓声があがった。抵抗をまったく受けていないかのように空を切るボールは、見ているこちらが清々しくなるほどだった。

クラスで一番の記録だった。


 女子の計測を終えたところで、少し早いが授業を終了させた。静かに教室に戻るよう指示したあと、僕は一人で帰ろうとしていた岡部を呼び止めた。


「岡部君、少しいいかな」

 声をかけられた岡部は、一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに無表情に戻った。


 人気のなくなった昇降口付近に連れ出し、話を切り出した。

「実は、岡部君に聞きたいことがあるんだ」

「……」

 岡部は返事をする代わりに、こちらの目をじっと見つめてきた。

「木村君のことなんだけど」

 木村翔の名前を出しても、眉一つ動かさない。


「最近、彼の様子がおかしい、なんてことはないかな」

「……どういう意味ですか」

「あ、いや、何でもいいんだ。何か、気になることとか」

「例えば?」

 例えば……いや、いい例えが思いつかない。

「……いつもと変わらない、かな」

「はい。いつもどおりです」


 岡部は終始無表情だった。笑うこともなければ、眉をひそめることもない。何か隠しているとしたら、大したポーカーフェイスだ。

 彼の話をそのまま信じるならば、彼もまた、木村の様子に違和感を覚えてはいないらしい。やはり、僕と木村恭子の考え過ぎなのだろうか。


「この間……」

 突然、岡部がそう呟いた。

「なに?」

「この間、翔にも話を聞いていましたね」

「え、あ、うん」

「何かあったんですか」

 僕はこういう時、うまく誤摩化す能力を持ち合わせていない。かといってこちらの考えをぺらぺら喋るわけにもいかない。ただ、曖昧に笑うほかなかった。


「腕の痣のこと、ですか」

 驚いて、息が詰まる。僕の表情を見て、岡部は何かを察したようだった。

「木村君の怪我のこと、知っていたの?」

「……」

 すぐに顔に出てしまう僕とは違い、岡部の表情から感情は読み取れなかった。一体、何を考えているのだろうか。


「ねぇ……」

「おかしかったです」

「は?」

「翔の様子です。おかしかったです」

 な……。一体何を……。


「ちょっと待って、さっきと言っていることが……」

「翔は、いつもと様子が違いました。まるで、何かを隠しているようでした」


 ダメだ。この子の言っていること、考えていることが理解出来ない。さっきまでは、いままでと変わりなかったと言っていたではないか。それを、なぜこのタイミングで覆したのか。

 分からない、僕には……。


 でも、何か聞き出さなければ……。


「……どう、おかしかったのかな」

「それは分かりません。なんとなくです」

 なんとなくって……。

「もう、いいですか」

「い、いや、ちょっと待って」


 そのとき、何故か僕の頭にある映像が浮かんできた。ひらめきと言っていいかもしれない。気づいた時には、僕は岡部に、あることを尋ねていた。

「手を見せて」

「手?」

「うん。あ、左手でいいから」

 僕の頭に浮かんだ光景。それは、安藤茉奈美の手に残っていた引っ掻き傷だった。

 別に、あの傷が何かに関係しているとは思わない。思っていない。しかし、何かが引っかかっているのもまた事実だった。


 岡部はおずおずと左手を差し出した。その手の甲を見た時、僕は心臓が止まる思いだった。

「こ、この傷……」

 岡部銀河の手の甲には、安藤と同じ、猫の引っ掻き傷のようなものが赤く引かれていた。比較的、新しい傷のように見えた。

「これは……ちょっと転んで」

 転んで出来るような傷じゃない。もっと鋭利なもので引っ掻いた傷だ。


「岡部君、猫を飼っている? 猫じゃなくても、動物とか」

 そのとき、岡部の目の奥が初めて揺らいだ。

「飼って、いません」

「木村君の妹は、猫アレルギーだったね」

 木村秋穂が猫アレルギーであることは、今この場において全く関係ないはずだ。しかし、岡部は差し出していた手を勢いよく引っ込めた。


 何か意味があるのか。二人の手に残っていた、この傷には……。


「岡部君、君は何か知っているんじゃないのか。木村君について、何か……」

「知りません!」

 声を荒げた岡部は、そのまま走って校舎の中に消えていった。





「わけが分かりません……」

 放課後、僕は職員室で愚痴をこぼしていた。相手は、亘先生と麻倉先生だ。


「ええっと、つまり安藤さんと岡部君の手に、同じような傷がついていたんですよね」

「はい。……まぁ、それ自体は大したことではないんですが、どうも二人の反応が気にかかるんです。なにかを隠そうとしているみたいで……」

 おおきな異変は何もない。しかし、小さな違和感が積み重なり、それがいつか崩れ落ちるような嫌な予感。細部を見れば何もおかしくはないのに、遠目に見ると何かが歪なのだ。


「岡部君って、さっきソフトボール投げであんまり飛ばせていなかった子ですよね」

「あれ、見ていたんですか亘先生」

「ええ、職員室から」

 職員室の窓からは校庭を見渡すことが出来る。ふとした合間に、他クラスの授業をぼんやりと眺めることもある。

「あまり運動が得意な子じゃないですからね」

「でも、10メートルも飛ばせないっていうのも珍しいですよね」

「まぁ……」

「最近の子は昔に比べて体力が落ちているってよく言われますけど、岡部君はちょっと心配だな。運動が苦手な子が利き手でない方で投げても、それくらいは飛びそうですが……」

「ちょっと、亘先生……岡部君は手に怪我を……」

 麻倉先生が亘先生を諌める。僕も少し変に思った。なんだか、亘先生らしくない発言だった気もする。


「あ、すみません。嫌味とかではなくて、少し心配だったもので……木村君の件でしたね」

「手の甲の怪我が、何か関係しているような気がするんです。少なくとも、岡部君と安藤さんは何かを隠している……それは確かな気がします」

「僕は、考えすぎな気がしますけど……」


 亘先生だけでなく、大半の人はそう思うだろう。でも、彼らや木村恭子と直接話した僕には、この違和感をどうにも拭いきることが出来ないのだ。

「岡部君、猫は飼っていないんですよね」

「ええ。ペットはいないそうです。安藤さんはペットを飼っているそうですが、九官鳥だそうです」

 仮に九官鳥につつかれたとしても、あのような傷跡にはならないだろう。


「やっぱり気にし過ぎじゃないですか?」

 亘先生がそう繰り返す。しかし、麻倉先生がそれに反論した。

「そうでしょうか。児玉先生は木村君のお母さんに話を聞きにいったんですよね」

「ええ、日曜日に」

「やっぱりお母さんって、子供の変化に敏感だと思います。お母さんがおかしいと言っているということは、やっぱり何かあるんじゃ……」



 そのとき、別の女性教師が僕の名前を呼んだ。

「児玉先生、お呼びですよ」

「あ、はい。誰ですか」

 一体誰だろうか。職員室の外から呼び出すくらいだから、おそらく児童の誰かだろうが。

「安藤さん、だそうですよ」


 三人で顔を見合わせた。安藤茉奈美が、僕を呼び出している?


 急いで扉を開けると、目の前に、安藤茉奈美が立っていた。ピンク色のランドセルを背負っている。


「安藤さん、まだ帰っていなかったの?」

 僕の問いかけに、彼女は曖昧に頷いた。

「えっと、何か用かな」

 安藤の顔には、なにやら迷いの色があった。あまり聞かれたくない話なのだということを察した僕は、職員室の扉を閉めた。


「別のところで話そうか?」

「……いえ、ここでいいです」

 ちらり、と彼女の右手に目をやる。傷は、まだ癒えていないようだった。


「先生この間、木村君のことについて聞いてきましたよね」

「あ、うん」

 木村翔についての話なのだろうか。この間は何も話してくれなかったが、一体何を……。



「岡部君が……」

「え?」



「岡部君が、木村君の腕を、つねっていました。私、見たんです」


 


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