episode3-5
学校から、駅とは逆方向に歩いて十五分。閑静な住宅街のなかに目的地はあった。周りに住宅が多いからこそ似合うような、白と黒のツートーンカラーの目立つ家だった。ただし、近隣の家も赤や青といった派手な外壁なので、周りから浮いているような印象は抱かなかった。家の南側には、小さな庭もあるようだった。
深呼吸して、インターフォンを押す。ボタンが硬いような気もしたが、どうということはない。押したくないという潜在意識が現れているだけだった。
ガチャッという音がして、玄関の扉が開かれる。中から出てきたのは、何日かぶりに顔を合わせる木村恭子だった。
「あ、おはようございます。児玉です」
「……どうぞ、お上がりください」
木村恭子は白いシャツに焦茶のカーディガン、ベージュのロングスカートという出で立ちだった。駅から歩いてきた身としては、その姿は室内ということを考慮しても少々寒そうに思えたが、室内はエアコンや床暖房によって十分すぎるほどに暖められていた。僕も、コートを脱ぎマフラーを外した。
僕が木村邸を訪れたのは、無論僕の意思ではない。木村恭子が僕を呼び出したのだ。
先日、道元先生に木村さんから話を聞くと言ってしまった後、僕はさっそく受話器をとり、木村さんの家の番号を押した。木村恭子はすぐに応答した。
そこで、僕が木村君の様子について尋ねた所、木村恭子はなぜか、直接会って話がしたいと言ってきたのだ。しかも、平日は予定があるから次の日曜日がいいと。学校が休みの日に児童の親を招き入れていいのかと思案していると、向こうから、家にこないかと招待されたのだ。一瞬面食らったが、彼女の声がどこか悲壮感を帯びているのが気にかかり、臨時の家庭訪問を決意した、というわけである。
亘先生などを同行させようとも思ったのだが、やめておいた。実は今日は日曜日。流石に休みの日にまで連れ出すのは気が引けたのだ。
腰が深く沈む柔らかいソファに座らされ、白く光るコーヒーカップが目の前に置かれる。自宅の安いマンションではお目にかかれない高級感だった。
「今日は、翔君は……」
「柔道の練習で出かけています。帰りは、夕方になるかと」
現在の時刻は午後一時。木村と顔を合わせることはないだろう。
「えっと、それで、翔君の様子はいかがですか」
木村恭子は、黙って首を横に振った。
「やっぱり、おかしい、ですか」
「……えぇ。少し」
「具体的には、どういう……」
木村恭子に、こちらが覚悟していたような剣幕は一切感じ取れなかった。一体どうしたのだろう。
「よく、笑うようになりました」
「は?」
予想外の言葉に、僕は面食らった。
「え、あの、すいません。笑う、というのは」
「今までは、そんなに笑うような子じゃなかったんです。兄弟とは仲が良いのですが、反抗期なのか、私には学校のこともあまり話さなかったですし。でも最近は、食事中とかにもよく、笑顔で今日の出来事を詳細に話してくれるんです。友達とサッカーをしたとか、岡部君と一緒に勉強したとか、楽しいお話ばかり」
「楽しい話……」
それならば何の問題もないじゃないか。木村恭子の沈んだ表情を見なければ、僕もそう思っただろう。
「なんだか、あの子は何かを隠しているような気がするんです。本当は何か凄く辛いことがあって、でもそれを私に勘付かれたくないから、笑っているように見えるんです」
辛いこと……やはり学校で何かあったのだろうか。しかし、現代の子供のコミュニティは、何も学校に限られたことではない。
「習っている柔道の教室の方では、何もないのですか」
「まぁ、結構激しい練習をしていますから、青痣はよく拵えてきます」
「じゃあ、腕の痣も、柔道で出来たのでは」
「それはありません。その日は柔道はお休みでしたし、前日にはそんな痣、ありませんでしたから」
よく見ているな、と思った。もしかしたら、まだ母親と一緒に風呂に入っているのかもしれないとも思ったが、この暖房だ。いくら冬だといえども、半袖になる機会はあるかもしれない。
それにしても、今日の木村恭子は本当に落ち着いていた。先日のアレは、息子がいじめられているかもしれないと焦った末の凶行だったのかもしれない。
勧められ、コーヒーを一口啜る。家でよく飲むインスタントコーヒーと、とても同じ種類の飲み物だとは思えなかった。香り豊かで、頭の奥が冴える。
ふと思い出し、尋ねてみる。
「そう言えば、翔君には兄弟がいましたね。ええと、確か」
「ああ、慧と秋穂ですか。二人とも、今は近くの幼稚園に通っています」
「ああ、そうなんですか……あれ、今日は?」
「上の慧はスイミング、下の秋穂は英会話教室です」
驚いた。小学生にも満たないような子でもスイミングに英会話。いや、でも今の時代、そんなに珍しいことでもないか。
「あと、翔の上にも一人いますよ」
「え」
そうだっただろうか。まさか、うちの学校の児童か。
「大助と言います。今は、もう中学三年生ですけど」
ということは卒業生だろう。木村大助。思い当たる顔はなかった。
「じゃあお兄さんは、今は部活ですか」
「いえ、部活はやっていません。今は塾に通っています。私が言うのもなんですが、とても頭のいい子で。翔とは違って万能タイプではないのですけど」
頭のいい子。木村翔の兄なのに、なぜか頭には岡部銀河の表情が重なった。
そこで、僕は部屋の壁際に設置されている食器棚に、一枚の写真が飾られているのに気が付いた。写っているのは六人。木村恭子とその夫。小学生くらいの男の子が二人。そして、立っているのがやっとという幼い子供と、母親の手に抱かれた赤ん坊。この家の玄関でとられたようだ。
「ああ、それは家族で撮った写真です」
僕の視線に気づいたのか、木村恭子が言った。
「そうなんですか。まだ、お子さんが小さいときのものですよね……あれ?」
よく見ると、父親の腕にも、何かが抱かれていた。
「あれは……猫ですか」
全身真っ白な毛に覆われた猫が、父親の腕の中で大人しく抱かれていた。
「ああ、はい。昔飼っていた猫です」
「昔……今は」
「知人の家に引きとって貰いました。一番下の秋穂に猫アレルギーがあることが分かって」
猫アレルギー……猫やその毛に触れることで咳などのアレルギー反応を引き起こしてしまう症状のことだ。おそらく、秋穂という子が生まれる前から飼っていた猫なのだろう。別れは寂しかっただろうが、保健所送りにならなかっただけでも良かった。
木村邸を辞したのは午後二時を少し回った所だった。実は昼食を摂っていなかったので、駅前のラーメン店で済ませることにした。食べ終わり、店を出たのが二時四十分だった。
改札口を通る寸前、なぜか見覚えのある顔が横切ったような気がした。不思議に思って振り返る。児童の誰かだろうか。
いや、違う。僕が今来た道を歩く後ろ姿……小学生ほど小さくはない。だが大人でもない。中学生か、背の低い高校生。もしや……。
改札を通らずに、彼の後を追う。そして徐々に歩くスピードを速め、追い抜く。ちらり、と横目で顔を窺う。
やはり、思った通りだ。そこにいたのは、先ほど木村邸で見た写真に写っていた人物だった。背は伸び、顔も大分精悍なものになってはいるが、間違いなく、木村翔の兄である木村大助だ。
「あの、ちょっといいかな」
思わず、木村大助に声をかけてしまった。少年は驚いた様子で立ち止まる。
「木村……大助君だよね」
肩まで伸びたのが目の黒髪に黒ぶち眼鏡。木村翔のような快活さはあまり感じられないが、成る程、利発そうな少年だった。
少年は初め、戸惑いの表情を浮かべていたが、僕の顔を見るなり、何やら考え込むような素振りを見せた。
「あ……すみません。小学校の先生ですよね。今、翔の担任の……」
「うん。児玉、といいます」
「あ、そうだった。児玉先生」
一応、木村大助の方は僕のことを覚えているようだった。こちらとしては少し体裁が悪い。
「日曜日ですけど、仕事ですか?」
僕が持つ中学生のイメージからしても、木村大助は大分大人びているように見えた。物腰から言葉遣いまで、決して背伸びをしているわけでもなく、至って自然だった。
「うん、実は今、君の家でお母さんと話していたんだ」
少年の目が見開かれる。
「……まさか、翔が何かしたんですか」
「違うよ。ただ、お母さんから少し気になる話を聞いたから」
僕は木村大助に、木村翔の腕の痣について尋ねた。
「痣……ですか。そう言えば、少し前に母がそんなことを言って騒いでいました」
「大助君は、何か心当たりはないかな。話を聞いた限りだと、柔道で出来たものではないみたいだけど」
「ちょっと分からないです。でも、母の言っていることはそんなに気にしなくてもいいと思いますよ。あの人、僕たちに対して少し大袈裟なところがあるから」
中学三年ともなれば、母親と距離を置きたがる年頃だろう。木村大助の目からは、親に対する鬱陶しさのようなものが感じられた。
「うーん、そっか。ごめんね、変なこと聞いて」
「いえ、別に……でも」
「え?」
「先生は、もしかして翔が誰かに怪我をさせられたって考えているんですか?」
心臓が大きく脈を打った。この子、なかなかどうして鋭いようだ。
「どうして、そう思うの?」
「だって、それだけのことで担任の先生が児童の家に来るなんておかしいから。普通は、翔に事情を聞いてお終いです」
確かにそうだ。これでは、何か問題が起きていると疑っているように見えてもおかしくない。いや、実際そうなのだけど。
「怪我の理由は分からない。でも僕は、翔君や他の子からも話を聞いた。その上で、僕はこうして行動しているんだ。何かが起きてからでは遅いからね」
って、僕は中学生相手に何を話しているんだ。腕の痣について話を聞きたかっただけなのに。
「そうですか。どちらにしても、今後とも母や弟をよろしくお願いします。もしかしたら、その下の子もお世話になるかもしれないし」
「あ、いやこちらこそ」
何がこちらこそだ。僕は、中学生にまで話の主導権を握られてしまうのか。
別れ際、僕はもう一つ、少年に尋ねた。
「翔君とは、仲はいいのかい」
「ええ、まあ。学校のこととか友達のこととか、よく話してくれますよ」
「そっか。それは良かった」
もし何かあったら、君が彼の支えになってくれ。流石にこの言葉は、口をつく寸前に飲み込んだが。




