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episode3-4.5


 お母さんがいた。 


 ここは、俺の家だ。俺はリビングで宿題をしている。漢字の書き取りだ。そして、お母さんは台所で晩ご飯を拵えている。

 お母さんがいるのは当たり前だ。ここは、俺の家なんだから。そう、当たり前なのだ。


 でも、どこか変な感じがする。同じ空間にお母さんがいることが、とんでもなくおかしなことに感じる。


 ねえ、お母さん。

 不安になって、そう声をかけた。いや、かけようとした。


 おかしい。声が出ない。


 お母さん、お母さん、お母さん。

 何度も口を開くが、やはり声が出ない。喉に上手く力が入らなくて、声の出し方が分からなくなってしまったみたいだった。


 それに、なんだか息苦しい。


 辛い。


 痛い。


 助けて、お母さん。


 お母さん。


 お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん………。



 その時、強い光が、僕を襲った。

 





「起きなよ、翔君」

 背筋がゾクリとする。冬の朝、暖かい部屋から外へ出たときみたいな寒気が全身を襲う。

「……ここ、どこ?」

 今のは、夢だったのだろうか。声が出なくなる夢。とても、怖かった。

「どこ、じゃないよ。学校だよ。今まで一緒に遊んでたじゃん」

 

 ハッとした。思い出した。俺は、俺は……。

 

 ぼやけていた視界が鮮明になった。

 強いゴムの匂いがする。バスケットボールやバレーボールが仕舞われているからだ。照明は、空気中を漂う細かな埃を照らしている。そして、その埃の向こうには、人影。



 ああ、アイツだ。


「お前……」

 思わず口をついて出てきた言葉に、アイツは反応した。

「お前? 相変わらず口の利き方がなってないね。怒るよ」

 いけない。コイツを刺激してはならないのだ。もしコイツが本気で怒ったら、チョコが殺されてしまう。


「で、どうだった。いい夢見れたかな」

「……夢?」

「そうだよ。あれ、覚えてないの。せっかく眠らせてあげたのに」

 思い出した。俺がコイツに呼び出されて体育倉庫の扉を開けた瞬間、背後から迫ってきたコイツに首を絞められたのだ。右腕ごと首に回して締め上げるように。死ぬかと思うくらいに苦しかった。頭が破裂しそうな感覚に陥りながらも、体の方はどんどん力が抜けていった。やがて意識が朦朧となり、気を失ったのだ。


「なかなか楽しいでしょ、これ。締め上げる力がそんなに強くなくても、コツさえ掴めば簡単に落とせるんだ」

 落ちる、とは、気を失うことだろうか。コイツは簡単と言ったが、やられた方は溜まったものじゃない。もがけどあがけど緩まることのない圧力に、絶望に似た感覚に襲われる。そう、それはまるで、死の恐怖だった。


「し、死ぬかと、思った……」

「なら良かった」

 満足げにそう言うと、コイツは倉庫の隅から、小さなゲージを取り出した。みゃあ、という弱々しい声が聞こえてきた。


「チョコ!」

 姿を見なくても分かる。あれは俺の、たった一つの宝物……。


「いやあ、あれからこの猫と一緒に暮らしてるんだけどさ、全然懐かないんだよ。なんかコツとかない?」

「お願い、チョコを、返してよ……返してください」

「やだよ。もう俺の家族だもん。大体君の猫じゃないでしょ? でも、いいよこの子。頭を思い切り殴ったり、腹を思い切り蹴り上げるとかわいい声で鳴くんだ。それがもう、なんとも言えな……」

「ふざけんな! チョコをいじめるな!」


 ギロリ、とアイツの目が僕を捉える。身がすくむ。悔しいけど、俺は、アイツが怖い。

「本当に生意気な口を利くね。まあいいや。うん。わかった。やめてあげるよ。でもそのかわり……」

 足音を響かせながら、アイツが近づいてくる。

「もう一回、死んでみよっか」

 耳元でそう囁いた後、アイツは再び、右腕を俺の首に絡ませてきた。


「や、やめろ!」

 俺は思わず、その腕を払いのけてしまった。

「いった……。ふうん。じゃあいいや。お前の代わりにこの糞猫をいじめるとするよ。さっき君にやったみたいに首を絞めたら、この猫どうなっちゃうんだろうね。楽しみだなあ。こんなにかわいい猫が、泡を吹きながら苦しんで死んで……」

 おぞましく歪んだ笑顔を浮かべながら、アイツは恐ろしい言葉を並べ立てていった。


「わ、分かった! 分かったから! お、俺の首を、絞めてください……だから、チョコには……」

「……そうこなくっちゃ。大丈夫だよ。本当に死ぬわけじゃないから」

 腕が、俺の首に蛇のように巻き付いてくる。痛みとともに訪れる嘔吐感。苦しい。酸素が欲しい。俺の本能が暴れだし、手足をばたつかせる。しかし、徐々にその力も失せていき、やがてさっきの死の恐怖が、再び俺を襲う。


 怖い。遠いと思っていた死が、間近にやってきているような感覚。いや、本当に俺はこのまま死ぬのかもしれない。


 でも、なんとしてでもチョコは守らなければならない。だって、チョコは唯一の、俺の、宝物なんだから。



 その日、俺はアイツに、五回も殺されることになった。


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