episode3-3
小説をビジネスバッグにしまい、ホームへ降り立つ。他の乗客たちに揉まれながら改札を出ると、朝の強い日差しが体を差す。しかし、強い日差しは眩しいだけで、そこに冬の寒さを軽減させるほどの温もりはなかった。
コートの袖口から冷気が入り込んでくる。肩を縮ませ、露出した手を出来るだけコートに隠した。
その窄めた肩に、手が置かれた。
誰だと思って振り返ると、そこに立っていたのは意外な人物だった。
「よう、児玉先生」
「え、あ、おはようございます、久茂先生」
久茂先生の厳つい顔に驚きながら、とりあえず挨拶をした。
「珍しいなこんなところで。普段はあまり会わないが」
「そうですね。実は今日ちょっと、寝坊しちゃって」
「じゃあ、いつもはもっと早いのか」
「ええ、まあ、そうですね」
まずい。この人と何を話したらいいのかがさっぱり分からない。というか怖い。短いパンチパーマの下には真四角の顔、スーツの下のシャツが白じゃなかったら、間違いなくヤクザにしか見えないだろう。今まではできるだけ関わらないようにしてきた先生だ。
「……本、読んでいたな」
「……えっ?」
「電車の中でだ。ちらりと見えたもんだから」
そうだったのか。こっちは全く気が付かなかった。
「ええ、まあ」
「何の本だ。小説か」
「はい。外国のですけど」
有名な探偵小説だったので、タイトルを告げた。久茂先生も知っていたようだった。
「なんだか聞き覚えがあるな。昔読んだのかもしれん」
「僕は最近嵌ったんですが、昔の本でも、やっぱり傑作と呼ばれるものは今読んでも面白いですね」
といっても、小説を開くのは電車の中くらいだ。普段は仕事に追われるあまり中々その気にならないのだが、なぜか電車の中では熟読出来る。不思議なものだ。
「漫画は読むのか」
「はい?」
「漫画だ。最近は、俺の世代でも読む奴が多いからな」
なんだろう。その厳つい顔から漫画なんて言葉が飛び出してきたことに驚いたが、もしかして、小説や漫画が好きなのだろうか。だとしたらとんでもなく意外だが。
「漫画ですか……。まったく読まないわけじゃないですけど……少なくとも、電車の中では読みませんね。どうしてですか。もしかして、漫画、お好きなんですか」
「いや、違ぇよ。俺の知り合いの教師が、筋金入りの漫画好きでよ。通勤のときも、電車の中で読んでいたそうなんだ」
「はぁ……」
「それが偶然、児童の親に見られたらしいんだ。電車の中で漫画を読むとは何事だって、クレームが入ったらしい」
「え、漫画を読んでいただけで?」
確かに、いい歳をした大人が電車の中で漫画を読むなんてみっともない、という意見を聞いたことがないわけではない。だがしかし……。
「もちろん大事にはならなかったらしいがな。別に法律違反でもないし」
「でも、怖いですね。日常の些細なことも、案外見られているかもしれないなんて」
「下らないことで目くじらをたてる人間もいる。お互い、気をつけなくちゃならん」
「そうですね」
「でもな、目くじらをたてる方にも、理由があるのかもしれない」
「えっ?」
「さっきの漫画の件だが、実はかなり際どい表現が話題になっていた漫画だったんだ。実在の殺人鬼をモチーフにした、刺激的な描写のあるやつだ」
ああ、聞いたことがある。今、若者の間で人気になっている作品で、昨年には年齢制限付きで映像化されていたはずだ。
「その漫画を知っていた児童の親は、子供の担任がそんな漫画を読んでいることに不安を覚えた。だから学校に連絡を入れたらしいんだ」
「それは……確かに、その親御さんの気持ちも分かるかもしれません」
「そうだろう。どっちが正しいかは分からないが、時折、そんな問題が起こることもあるんだ」
正しいか正しくないかは置いておいて、互いの行動にはそれなりの理由がある。でも、久茂先生はどうして僕にそんな話をしてくれたのだろう。話の趣旨が見えない。そんな僕の考えを見越したのか、久茂先生は更に言葉を続けた。
「何か、問題を抱えているんだろう。昨日、亘先生や道元先生と話しているのを聞いたものだから」
「あ……木村さんのことですか」
聞いていたのか。本当に、誰が見ているか分かったものじゃない。
「しっかりと向き合った方がいいな。彼女が、息子の様子がおかしいと言っているのなら、それなりの理由があるはずなんだ。もしそうでなくても、母親の勘を侮らない方がいい」
「……分かりました」
「俺もあんなことになってつくづく思い知らされたよ。あんたには、俺みたいな思いはしてほしくないんだ」
あんなこと。それは無論、久茂先生に降り掛かったあの殺人未遂事件のことだろう。
学校が見えてきた。朝の光に照らされた学校には、まだ活気はない。子供たちはまだ来ないのかと、遠く待ちわびているようにも見えた。
久茂先生の話を聞いて、なんだかこの人も丸くなったな、と感じた。少なくとも、以前の彼はこんなふうに静かに助言を与えるようなタイプではなかった。
無論、その助言を無下にする気はない。偉大な先輩からの、大切なアドバイスなのだから。
その日の昼休み。僕が教室の中をのぞくと、都合良く安藤茉奈美が一人で本を読んでいた。岡部銀河の姿はなかった。あまり外で遊ぶような子ではないから、おそらく図書室にでも行ったのだろう。
「安藤さん。ちょっといいかな」
近づいて声をかけると、安藤は本を閉じ、訝しげな視線を僕に向けた。鋭く、揺らぎのない目だ。
白い長袖のシャツに茶色のスカート。一見他の子に比べて地味に見えるが、どこか洗練されたイメージを与えている。
「ちょっと安藤さんに聞きたいことがあるんだ。ついてきてくれるかな」
「……はい」
聞こえるか聞こえないくらいの声でそう返事をすると、安藤はそのまま立ち上がった。担任から呼び出された経験はあまりなさそうだが、動揺した素振りは見せず、落ち着き払っていた。
教室と同じ階の空き教室に彼女を招き入れる。そこに座って、と適当な椅子を指差して指示すると、安藤は素直に従った。
「ごめんね、呼び出したりして。別にお説教じゃないから」
「……はい。なんですか」
コンタクトをしているのか、目の奥がきらりと光った気がした。華奢で背も低いし、性格も大人しいのだが、この子にはどこか近寄り難さを感じることがある。友人もあまりいないらしく、教室で一人、本を読んでいることが多いのだが、本人がそのことを気にしている様子は見受けられなかった。
白いシャツから伸びた白い腕を膝の上において、彼女は僕の言葉を待っていた。いかんいかん。彼女の雰囲気にのまれている場合ではない。
「実は、木村君のことなんだ。安藤さんは、木村君と幼なじみだって聞いたんだけど、本当かな」
一重の目から覗く光が一瞬、揺らいだ気がした。
「……別に、仲が良いわけじゃないです」
「そうなんだ。でも、幼なじみってことは家も近いんだよね。一緒に帰ったりはしない?」
「……ほとんどしません」
やはり、仲が良いわけではないのか。まあ、小学四年生ともなれば、男女の間に距離が出来るのは自然なことだろう。
「そっか……。最近何か、木村君の様子がおかしいとか、そんなこと、感じたりしたことはないかな。どんなことでもいいんだけど」
質問しながら、やはり岡部に話を聞けば良かったかな、と思った。彼女からは、何も得られそうにない。
「……どうして、ですか」
「え?」
「どうして、そんなこと聞くんですか」
予想外の答えだった。てっきり、ありません、と冷たくあしらわれるだけだと思ったからだ。
「どうしてって聞かれると困るんだけど……ちょっと気にかかることがあってね」
「そうですか……別にないです。おかしい、なんて思うことは」
「……そ、そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて。もう戻っていいよ。ありがとう」
しかし、安藤茉奈美は立ち上がろうとしなかった。
「……どうかした、かな」
そう問いかけると、安藤は意を決したように、口を開いた。
「……先生、何か知ってるの?」
何か? どういうことだろう。
「ごめん、よく分からないんだけど」
「……何でもないです。失礼します」
そういうと、今度は立ち上がり、背中を向けて出口に向かっていった。
その時、気づいた。
「安藤さん、その手、どうしたの?」
僕は彼女の右手を見て言った。
「……っな、なんでもないです」
なんだ、今の動揺は。
安藤茉奈美は、逃げるように教室を去っていった。おかしい。今日、彼女が見せた唯一の違和感だった。それに、さっきの言葉。『何か知ってるの?』とは、一体なんなのか。何か隠しているのか。
それにしても、あれはなんだったのだろう。彼女に右手についていた、あの、猫の引っ掻き傷のようなものは。




