episode1-3
翌日午前七時半過ぎ、まだ暑さが残る十月初旬の日を浴びながら、愛車の軽自動車を校舎裏の駐車場に停める。砂利の敷かれた地面を歩き、そのまま裏口の扉を開けて靴を履き替える。
誰もいない廊下。空っぽの校舎に私の足音だけが鳴り響く。私一人だけという爽快感と孤独感を味わいながら、二階にある職員室を目指す。
職員室の扉を開けると同時に、背後からいきなり声をかけられた。
「麻倉先生」
驚いきながら振り返る。そこに立っていたのは、丸顔で細い目、お団子みたいな鼻がチャームポイント、抱き枕のようにふっくらとした体型の中年女性、道元先生だった。
「あらどうしたの、そんなにびっくりして」
「ああ、道元先生、おはようございます。びっくりしました。早いですね」
「おはよう、少し片付けておきたい仕事があったから、少し早めに出勤したのよ」
朗らかな笑みを浮かべながら、道元先生は職員室の中に入っていった。今週の鍵当番の先生が見当たらないということは、おそらく喫煙室だろう。
道元先生は私の隣の席だ。彼女は風船のように膨らんだ身体をゆっくりと椅子に沈み込ませながら、私に話しかけてきた。
「そうそう、昨日は大変だったみたいねぇ」
私たち以外に誰もいない職員室に、道元先生のふんわりした声が響く。人ごとのように間延びした口調だが、これは道元先生の癖だ。ちなみに昨日の顛末の概要は、すでにメールで知らせてある。
「はい。放課後に御子柴さんが乗り込んでこられて、席を変えてほしいと……」
「あはは、乗り込んでこられて、ってなかなかすごい言葉ねぇ」
何が面白いのか今ひとつ理解に苦しんだが、道元先生はひとしきり笑った後、話を続けた。
「それで、どうなったの?」
「ええ、平常授業においての日焼け止めクリームの使用を許可できるよう、会議で持ちかけることを約束して、帰っていただきました」
それも昨日のメールに書いたはずだ。ちゃんと読んでいないのだろうか。
「あら、じゃあ提案書を書かなきゃ」
「いえ、それは亘先生が書いてくださるようです。何でも、以前から考えておられたようで」
それも書いたはずだったが。
「そう、じゃ、亘先生に任せましょうか」
ホッとした様子を見せる道元先生から、これで話を打ち切ろうとする空気を感じ取り、私は慌てて言葉を紡いだ。
「あ、あの、道元先生はどう思います、日焼け止めの件」
「どうって、何が?」
「だから、児童が日焼け止めクリームを持ってくることに関してです。賛成ですか?」
「……別にいいんじゃないかしら」
どうでもいいといった様子で、道元先生は答えた。
「でも、授業に関係ないものを持ち込むなんて、って思う先生方もいらっしゃると思うんです」
「あはは、確かに授業には関係ないけど、別に妨げになるものでもないでしょ。というか、今だって皆持ってきてるじゃない」
「それは、そうですけど……」
あまりにあっけらかんとした返答に、私は言葉を失ってしまった。と同時に、少しがっかりした。
これは私がここに来た時から感じていたことであるが、道元先生にはこういうところが多々ある。つまり、どこか楽観主義というか、物事をあまり真剣に捉えないというか……。普段は朗らかでいい先生だと私も思うが、いざ共に働いてみるとなると、時々責任感が欠如しているのではないかと思う時もある。何を考えているのか分からない、というか、何かを考えているのかさえ疑問に感じるような彼女の下で働くことに、一抹の不安を覚え始めていた。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、道元先生はコロコロと笑い続けている。
「でも、そんなにうまくいかないと思うんですよ。先生たちの中には、お堅い人もいますから」
「あらあ、大丈夫よ。きっと亘先生がなんとかしてくれるわ」
やっぱり人ごとかよ、と心の中で呟いた。と同時に、面倒な仕事を押し付けられた亘先生に同情する。半分は私の所為だけれども。
そんなことを話している間に、時計の針はいつの間にか八時を回っていた。
「あら、子供たちが登校してきたわね」
道元先生は能天気な声でそう言って、窓際に近づいていった。私も後に続く。
窓から校庭を見下ろすと、ランドセルを背負った児童たちがぞろぞろと校舎に向かって歩いているところだった。ランドセルに背負われているような低学年の子と、身長もすっかり伸び、早くも大人びた雰囲気を醸し出している六年生が仲睦まじそうに校舎を目指している。子供好きじゃなくても微笑ましくなるような光景だ。
そうだ。弱気になって愚痴なんか言っている場合ではない。亘先生や道元先生、その他堅物の先生たちと一緒に、彼らが幸せに暮らすことが出来る学校を作らなければならないのだ。私がしっかりしないと。
「子供って、本当にいいですね」
思わず口をついて出た言葉に、道元先生が笑みを浮かべる。
「本当にそうね。お肌なんかピチピチで、うらやましいわ」