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episode2-8

 

 案の定、喧嘩の件は大事には至らなかった。小林の家に電話連絡をした際も母親が、うちの子も悪かった、遠野くんに謝っておいてくれ、と話していたし、危惧していた遠野の母も、申し訳なかったと電話口で謝っていた。時と場所が異質だっただけで、実際はただの子供の喧嘩だ。本人同士も直に仲直りするだろう。


 そう思っていたから、正直驚いた。翌日の放課後、教頭から遠野理子の来校を告げられたときは。


 応接室にいると言うので急いで向かうと、そこには先日と同様、ソファに腰掛けて陰鬱そうな表情を浮かべている遠野の母親の姿があった。彼女は俺の姿を認めると、小さくお辞儀をし、そして薄く笑った。正直不気味だ、と思った。


「……えっと、本日は、一体どのようなご用件ですか」

 単刀直入にそう尋ねた。まさか、この親に限って昨日の件についての謝罪ではないだろう。面倒な話にはあまり時間を割きたくない。さっさと済ませてしまうに限る。

「昨日の件だったら、後は当事者で解決してくださいと、小林さんにも言って……」

「あ、いえ、そのことではないんです……」

 じゃあなんだと言うのだ。苛立つ俺に対し、遠野の母は、予想外な言葉を口にした。



「実は、久茂先生に、助けて頂きたいんです」



 一瞬、俺の中の時が止まった。助けてほしい、だと。この女は、今俺にそういったのか?


「……どういうことですか。もしかして、春季君に何かあったとか……」

 まさか、俺の知らないところで、アイツが何か大変な目にあっているとか……。子供の担任教師に助けを求めてくるということは、それはそのまま、その子に何かあったということだ。ふと、道元と話した、ADHDという単語が頭を過る。もしや、病院かなにかでそう診断されたとか……。だが……。


「春季の、件ではないんです……」

「……はい?」

「実は、主人のことで……」

 主人? それは、遠野春季の父親のことだろうか。


「……ご主人が、どうかされましたか」

 この時点で、嫌な予感は薄々感じていた。先ほどの胸騒ぎとは関係ない。「面倒な話」という予想が当たっていそうだからだ。


「以前、主人のことは先生にお話ししましたよね」

 そうだっけか。……ああ、求職中とかなんとか言っていたアレか。

「ええ、聞いています」

「実は、あれからいろいろと仕事を探していまして……でもこのご時世でしょう。なかなか思うようにいかないらしくて」

 うんうん、そうか。それは大変だ。それで、だから何だっていうんだ。

「うちの主人、あまり人と会うのが得意ではないんです。だから、そういう仕事は向いていないかなって、私も思うんです。できたら事務仕事とか、そういった仕事がいいんですけど、でも、そうすると結構仕事が限られてしまって……」


 俺は、就職支援センターの職員だったか。いや、違う。れっきとした教師だ。

「条件を下げて自分に向いてない職業を選んでも、辞めてしまったら意味がないじゃないですか。だから、主人には自分に向いている仕事が見つかるまで、とことん頑張って……」

「と、遠野さん! ちょっと待ってください!」

 矢継ぎ早に言葉を投げかける遠野の母を黙らせた。

「ご主人が再就職に苦労されているのは分かりました。ですが、それに対して私たちができることはありません。せいぜい、市の求職センターを紹介するくらいしか……」


「そんなことありませんよ」

 遠野の母が片頬を持ち上げる。


「ほら、学校の事務員さんって、あまり人と話すこともないでしょう?」


 ……何を言っているんだ、この女は。

「うちの主人、根は真面目ですから、一生懸命働くと思いますよ。なんでしたら、面接とか、一度会って頂くことは……」

「できるわけないでしょう!」

 俺は思わず怒鳴った。こいつは、子供の担任に、夫の就職の面倒まで見ろというのか!


「あ、いや……今、事務や用務を担当してくださっている方もいますので、残念ながら空きはないんですよ」

 今すぐ首根っこを掴んで窓から放り投げてやりたい気持ちをぐっと堪え、非常にやんわりと牽制した。もし仮に空きがあったとしても、紹介しなかっただろう。当たり前だ。これ以上、この家族と関わり合いを持ちたくない。


「でも先生、そこをなんとかできませんか? 主人がちゃんとした仕事に就くことができれば、私も大分楽になる……」

「無理なものは無理です。ご用件はそれだけですか?」

 だったらお帰りくださいと言うと、遠野の母は素直に従った。本当に、たったそれだけを言いに、わざわざやってきたようだ。失礼します、と蚊の鳴くような声で挨拶すると、落胆した様子で応接室を出て行った。


 扉が閉められた瞬間、俺は体をソファの背もたれに預け、溜め息をついた。本当は机に飾られている花瓶をぶん投げてやりたい気分だったが、さすがに物に当たるほど俺は子供じゃない。そのかわりに目を瞑り、沸々と沸いてくる怒りをゆっくり鎮めた。




 職員室に戻って席についた瞬間、道元が俺のところにやってきた。疲れている時におかしなテンションのおばさんの相手はしたくなかったが、遠野の怪我の手当をしてくれたこともあり、無下にはできなかった。


「遠野さん、今度は何て言ってきたの?」

「夫をここの事務員にしてくれないかと相談されました。まったく、何を考えているのか……」

 そう言うと、道元は大口を開けてコロコロと笑い出した。


「あはは、なかなかやるわねぇ、あのお母さんも。さすがに御子柴さんもそんなことは言わなかったわ」

 笑い事ではない、と言ってもこのおばさんには無駄だろう。仕方なく、愛想笑いを返しておいた。


「じゃあ、昨日の事件とは関係なかったのね」

 そう言えば、昨日の件は何も言っていなかった。普通、何かしら言ってくるものではないだろうか。


「それで、宇喜田先生から話は聞いたの?」

「ええ。とりあえず、ことの顛末くらいは……」


 成り行きで、先ほど聞いた話を道元にもそのまま話してしまった。

「……ふぅん。それはそれは、春季君が怒るのも無理ないわね」

「いや、何を言われようが、手を出しちゃいけません」

「でも、相手を馬鹿にした綾斗君も悪いわね」

 そんなことは分かっている。どちらも悪い。喧嘩なんてそんなものだ。


「でも、大きな怪我がなくてよかったわ。綾斗君も春季君も」

「ええ。特に遠野のほうは、四月の頭と二学期の頭に休んだだけですからな」

「……四月の頭?」

 途端に、道元の表情が険しくなる。

「ええ。体調不良かなにかで」

 不意に、道元が考え込む仕草を見せた。一体なんだと言うのだ。


「久茂先生、児童の出席の記録帳、見せてくれる?」

 出席帳とは、児童の出席状況を記録したものだ。

「いいですけど、一体どうしたんですか」

「いいから」


 なんだ、理由くらい説明しろよ。心の中でそうぼやきながら、俺はパソコンのファイルを開いた。今はほとんどの教師が、そのようなデータをパソコン上に移している。

「四月の頭、ちょっと見せて」 

 言われるがまま、パソコンを操作する。四月のデータが画面上に表れた。

「……ん?」

 ない。遠野が欠席したという記録がない。しかしそのかわりに、ある印が、四月七日の欄に記されていた。


「早退?」

 そう、そこには欠席ではなく、早退、と記されていた。四月七日、遠野春季は欠席ではなく、早退していた……。

「やっぱり。私覚えてるわよ。遠野君、確か具合が悪くて、途中で家に帰ったのよ」


 俺の思い違いだったか……。一応二学期のほうも確認してみたが、九月四日は俺の記憶通り、欠席となっている。

 ……そうだ、思い出した。そう言われれば、具合の悪くなったアイツを保健室まで運んだ覚えがある。九月に休んだのとごちゃ混ぜになって記憶していたのだ。


「こりゃ、失礼しました。そうでした。アイツ、四月は早退でしたよ」

 しかし、だから何だというのだ。遠野が四月に欠席していようが早退していようが、別にどうでも良いではないか。成績表をつける際にはきちんと出席帳を確認するし、そんな勘違い、よくあることだ。

 だが、道元の表情は妙に神妙だった。まるで、そこに何らかの原因があると考えているような……。


「あの、道元先生……?」

 考え込んでいるような道元にそっと声をかけると、彼女はハッとしたようにこちらを向いた。

「あ、ごめんなさい。ちょっとボーッとしてたわ」

 そう言って微笑むと、道元はそのまま、自分の席に戻ってしまった。一体、どうしたというのだ。


 やっぱり、あの女の考えることはよく分からん。そう心の中で呟きながら、俺はタバコを手に、喫煙室へ向かった。


 ふと、疑問に思う。なぜ道元は、遠野春季が四月に欠席ではなく、早退したことを知っていたのだろう。少し不気味に思えたが、まあいいか、と思い直し、俺は喫煙室の扉を開けた。


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