episode2-4
六畳ほどの狭い喫煙室には、すでに先客がいた。
「あ、お疲れ様です。久茂先生」
「ああ、亘先生か。お疲れ」
真面目で健康そうな見た目によらず、亘も喫煙者だ。吸い始めたばかりの様で、手にしているタバコはまだ十分な長さを持っていた。
「凄かったですね、さっき。また遠野くんですか」
なんのことだ、と思ったが、すぐに先ほど遠野を叱りつけたときのことだと気づいた。
「隣のクラスにまで聞こえていたか」
亘のクラスと俺のクラスは、当然だが隣同士だ。
「ええ。はっきり。どうやら、ちゃんと板書をしていなかったようですね」
本当にはっきり聞こえていたようだ。俺の声は、そんなにでかいのか。
「その通りだ。まったく、ちゃんとノートをとる、居眠りをしない、静かに席につく……一体なんで、こんな簡単なことができねぇかなぁ」
「あはは……でも僕、将来あの子は大物になると思いますよ」
「ふうん、なぜだい」
「久茂先生に怒鳴られてケロッとしていられる子なんて、彼くらいですよ」
ほっとけ。
しかし、亘の言う通りだ。いや、大物云々は置いておくとして、遠野春季に反省する様子がまるでない、という点だ。叱られている時はしょんぼりとした顔をするのだが、その五分後には友達と楽しくおしゃべりをしていたりする。大成するかは知ったこっちゃないが、神経が図太いのは確かだろう。
「よっぽど、俺をおちょくるのが好きなのかもしれないな」
「分かりませんよ。もしかしたら彼、久茂先生のことが大好きなのかもしれませんよ。愛情の裏返しかも」
「やめてくれよ。そんなわけないだろ」
そう、そんなわけがない。俺がもし彼らの立場だとして、こんな教師を好きになることはないだろう。
児童に好かれる教師は様々だ。道元のような「優しい先生」、亘のような「かっこいい先生」、麻倉のような「友達みたいな先生」。俺はそのどれにも属していない。厳しいし、パンチパーマのヤクザみたいな顔だし、必要以上に彼らの目線に会わせるようなこともしない。「怖い先生」というのが、児童に貼られた俺のレッテルだ。
しかし、それでもいいと俺は思っている。児童に好かれたいなどとは思わない。嫌われていい。クソ教師、と影口を叩かれても一向に構わない。
俺の望みはただ一つ。彼らを、しっかりとした人間に育て上げる、ということだけだ。十年後に、俺のことなど思い出せなくていい。でも、俺が彼らに教え込んだこと、その何か一つでもいいから、身に付いていてほしい。俺は心から、そう思っている。
「そう言えば、今度の交流会、先生のクラスは何をするんですか?」
短くなったタバコを灰皿に押し付けながら、亘が尋ねた。
「交流会? ……あ!」
「あれ、もしかして忘れてました?」
しまった。すっかり忘れていた。俺は慌てて今日の日付を確認する。十一月十九日木曜日。交流会は、来週の水曜日だ。
ここ、市立F小学校では、毎学期一度だけ、「交流会」と呼ばれる行事が行われている。総合学習の時間を使用し、学年の枠を越えたレクリエーションが企画されるのだ。もちろん全校児童が一斉に行うわけではなく、決められたルールのもとに、交流するクラスは決められている。
基本的に、低学年は三つ上、高学年は三つ下の学年の、相応するクラスと交流することになっている。例えば、我が二年二組は五年二組と、亘のクラスである二年一組は五年一組と交流する。六年は三年と、四年は一年と、という具合である。
「亘先生のところは、何をするんだ」
「うちはサッカーです。五年一組の担任の児玉先生と相談して決めましたけど」
確か五年二組は、宇喜田という男が担任だったはずだ。俺ほどではないが、ある程度のキャリアを積んでいる教師なので、もしかしたら既に何か考えているかもしれない。
「さて、僕はもう出ます。お先に」
亘が立ち上がったので、俺もタバコを灰皿に押し付ける。
「俺も行くよ。宇喜田先生は職員室にいたっけな」
宇喜田は自分の机で、パソコンの画面とにらめっこしていた。
「宇喜田先生、ちょっといいか」
そう声をかけると、宇喜田はびくりと肩を震わせ、神経質そうな顔をこちらに向けた。
「な、何ですか、久茂先生」
「いや、交流会の件だよ。内容、どうしようかと思って」
俺のことを恐れているのは、何も児童だけではない。宇喜田のように小心者な教師の中には、俺をあからさまに避けようとする者もいる。
ああ、と彼は小さく呟き、俯いた。この間、まだ彼とは目が合っていない。
「一組はよ、サッカーやるみてぇなんだ。だからこっちは体育館か、教室でできることがいいと思うんだが」
「あ、あの、実は、いくつか候補を考えていまして……」
牛乳瓶の底みたいな眼鏡をクイッと持ち上げ、宇喜田は言った。そしてパソコンに向き直り、一つのファイルを開いた。そこには、いくつかレクリエーションの企画が書き込まれていた。
「なになに、クイズ大会、合唱、カルタ、椅子取りゲームにハンカチ落とし……」
地味だな、と心の中で呟いた。遠野春季からブーイングが出そうなものばかりだ。
「……すいません。地味ですよね」
どうやら自覚していたらしい。
「……いや、いいんじゃねぇか。カルタなんてよ、最近あんまりやらねぇだろ。逆に新鮮かもしれねぇぞ」
「はぁ……」
宇喜田が気のない返事を返す。
「じゃ、カルタでいいですか?」
「おう。じゃ、それで決定ということで」
カルタなら、遠野春季もあまりやんちゃできないのではないか。そんな考えが浮かんでいたが、当然、宇喜田には黙っていた。




