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episode1-2

「大変だったね、麻倉先生」

 そう声をかけてくれた亘先生の顔にも疲労の色が浮かんでいる。申し訳なくなり、私は頭を下げた。

「すみませんでした。関係ない亘先生まで巻き込んじゃって」

「仕方ないよ、道元先生だっていなかったんだから」


 先ほどの会話でも登場したが、道元先生はここ、市立F小学校四年三組の担任教師である。今年二十九年目のベテランで、一年目の私は副担任という形で彼女の下に就くことになったのだ。見た目は小太りで大人しく、熱血というよりは静かに子供達を見守っているような先生で、そのせいか子供達よりも父兄の方々からの人気が厚い。性格も穏やかで、彼女から様々な指導は受けるものの、声を荒げられたことは一度もない。それは無論、児童たちに対しても同様で、常に落ち着き払っている様から、一部の児童は影で「道元菩薩」などとのたまっている。教科書で奈良時代の大仏が登場した時などは大騒ぎだった。


 私が四年三組の副担任になってからも、御子柴昌が学校にクレームを入れてきたことは何度かあったが、道元先生が全て一人で対応していた。彼女がどんな対応をとっていたのかは分からないが、取り立てて大きな問題になることはなかったことからも、彼女の教師としてのスキルとベテランの力が伺える。


「でも亘先生、大丈夫なんですか。御子柴さんにあんな提案しちゃって」

 無論、日焼け止めの件である。

「問題ないよ。というか、彼女に言われる前に、そろそろ会議で提案しようと思ってた事案だからね」

「え、そうなんですか」

「うん。さすがに御子柴さんは気にし過ぎだけど、紫外線の影響は確かに少なくない。オゾンホールとか排気ガスの問題で、紫外線がどんどん僕たちに影響を与え始めている。日焼け止めを持ってくる何て過保護だ、なんて古い考えの人もいるけど、この問題はすでに、三十年前の常識を持ち出していい問題じゃない」

「でも、他の先生方はどうですかね」

「分からない。結構な堅物が何人かいるからな」

 おっと失言、と亘先生は手で口を覆い隠す。

「御子柴さんはどうでしょう。それで納得しますかね」

「してもらわないと困るな。いくらなんでも御子柴美織だけ窓際に座らせないなんて道理は通らない。ところで、麻倉先生のときはどうだったの。小学校に日焼け止めは持って行ってた?」


 十年以上前の記憶を掘り起こす。確か、日焼け止めは自宅で塗ってから出かけていたはずだ。学校に持って行った覚えはない。いや、でも遠足の時は持って行っていたかもしれない。体育の時は、どうだっただろう。


「学校には持って行ってなかったと思います。昔のことだからあんまり確かじゃないですけど」

「そっか、麻倉先生の時代でもそうなのか。だったら、やっぱり児童が日焼け止めを持ってくることに、抵抗はあったりするかな」

 そう尋ねながら、亘先生は少し遠い目をした。今年で三十になる亘先生にとって、やはり私は違う世代だと捉えられているらしい。

「うーん、それはないですね。紫外線の脅威があちこちで騒がれてますから、子供たちやその親が過敏になるのは当然じゃないですか。もちろんプールの時はよくないですけど」


 自分の発言で、嫌な記憶が蘇った。そう、プールの件だ。

 体育の時間の前は日焼け止めの使用が許可されているが、さすがにプールの時間は別だ。水槽内に溶け出した日焼け止めが、他の児童の目などに入ってしまった場合の健康被害を考慮した、というのがその理由だ。

 その結果、プールの授業に参加する児童が半減してしまった。男子の中にもちらほら、女子に至っては三分の二以上が見学という事態に発展した。確かに通常の体操着よりも露出の多い水泳に限って日焼け止めクリームが使えないとなれば、そうなってしまうのも当然だった。

 その現状に見かねた学校側は今年、児童、またはその父兄に対してプールに参加するようにという旨を記したプリントを配布した。このままでは成績判断にも差し障りがあると判断したからだ。

 ところが、その配布したプリントに対して父兄からの批判が殺到した。主に女子児童の母親からの意見で、プールに参加してほしいなら日焼け止めの使用を許可しろ、といった内容の電話が鳴り止まなかったのだ。中には、プールを屋内に作れ、などという無茶な要求もあった。結局、プールの参加人数は増えることなく、今年も見学者がプールサイドの隅に溢れかえる結果となった。


「プールもどうにかならないかな、とは思うんだけど、こればっかりはな。日焼け止めを許可したら、今度はプールに参加している児童の親から文句が来る」

「目からの混入はゴーグルで避けられますけど、口から入る可能性もありますからね」

 私も、誰かの肌に塗られた日焼け止めクリームが溶け出したプールの中で泳ぎたいとは思わない。


「どっちにしろ、この案を通さないと御子柴さんは黙らないだろうな」

「でも、未だに日焼け止めクリームを化粧品の一種だと考えている人もいなくはないですし……」

 頭の固いベテラン教師陣の顔を思い浮かべた。思わず溜息が漏れる。


「児童たちだけじゃなく、親や他の先生まで相手にしないといけないなんて、この仕事も大変だろう」

 からかうように、亘先生は言った。

「本当ですよ。学生時代なんて、影で先生の陰口ばっか言ってましたけど、とんだ罰当たり者です」

 いや、その罰がきっと、今になって返ってきたのだろう。


「ま、こんなところで愚痴をこぼしていてもしょうがない。さっさと提案書を作らないとな。明日ってわけにはいかないが、明後日までにはなんとかなるだろう」

「手伝いますよ。元はと言えばうちのクラスの問題ですから」

「いやあ、大丈夫。麻倉先生だって、やることいっぱいでしょ」

 そう言って、亘先生は私の机の上を指差した。採点中のテスト、授業で集めた作文などでごった返している。

「……すみません」

「いいっていいって。それじゃ、こんなことでめげずに頑張って」そう言い残して、亘先生は颯爽と自分の席に戻っていった。自分もいつかあんな風になれるのだろうかと、その後ろ姿を見つめながら少し思った。

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