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episode2-3

「あ、久茂先生!」

 昼休み、自分の机で書類の整理を行っていると、若い女の声が俺の名を呼んだ。見ると、どうやら声の主は四年三組副担任、麻倉という教師のようだった。俺の姿を確認すると、彼女はこちらに近づいてきた。


「はいはい、何の用だ」

「先ほど、久茂先生のクラスの親御さんから電話がありましたよ」

 

 親御さんからの電話。その言葉だけで嫌な予感が胸をかすめる。頭に思い浮かべるのは、遠野の母親の、幸の薄いみすぼらしい姿だ。

「……はぁ、用件は何だって」

「はい。来月の遠足についてだそうです。乗り物酔いの薬を持っていっても良いかという質問だったので、構わないとお伝えしましたが……」

 おや、と思う。こういった表現も妙だが、普通の問い合わせだ。


「おい、一体誰からだったんだ」

「え? ええと、確か佐々木さんと仰っていましたが」

 なんだ。遠野の母親ではなかったのか。心の底からホッとするのと同時に、誰からの電話かくらい最初に伝えろと、若い女教師に怒りを覚える。もちろん、そんなことで説教などはしないが。


「佐々木の親御さんか。ならいい」

「あの、どうかされました?」

 心の内が表情に出ていたのか、朝倉が心配そうな表情を浮かべて尋ねてきた。

「ああ、別に。なんでもねぇよ」

 そう言ってはぐらかそうとしたのだが、朝倉は何故か食い下がってきた。

「もしかして、遠野さんですか?」


「え、あ、いや……」

 親子ほど歳のはなれた小娘に言い当てられてしまい、思わず口ごもってしまう。

「最近よく来ますよね。噂で聞いたんですけど、やっぱり、何か理不尽なこととか言われたりしているんですか?」

 若者特有の不躾な質問を繰り出してきた麻倉の目に同情の色が浮かんでいるのを見て、俺はようやく、御子柴の母親とやり合ったのがコイツだったことを思い出した。

 

 こんな新米に話すのもどうかと思ったが、まあいいか、と考え直し、少し愚痴をこぼしてみることにした。

「まあな。毎回毎回、訳の分からないことを言われて困ってんだ。全く、教師をなんだと思ってんだ、って話だよ」

 亘に話しているときもそうだが、若い奴とこういう話をしていると、時々無性に自分の老いを感じることがある。俺が若い頃なんか、上司の愚痴ほど嫌なものはなかったはずなのだが、いざ自分が歳をとると同じことをしているのだ。おそらく麻倉も亘も、「うざい上司だな」などと思っているのだろう。しかしそう思われても別に良いかと考えてしまうところがまた、俺がオヤジになった証なのだろう。


 亘のように当たり障りのない反応を示すのかと思いきや、朝倉が発した言葉は意外なものだった。

「もしかしたら、遠野さんに何か事情があるのかも……」

 思いついた言葉がそのまま出てしまったかのような口調だったが、俺には朝倉が遠野の母親の肩を持っているように聞こえ、少し腹が立った。


「おい、それはどういう意味だ」

「え……ああ、違うんです! こういうのはデリケートな問題だから、対応が大変だな、と思って……」

 言葉にまぎれてしまった棘に気づいたのか、朝倉は慌てふためいたようにそう言った。

 

 デリケートな問題、と朝倉は言ったが、俺にはよく理解出来なかった。単に遠野の母親のことを、自分のわがままをこちらに押し付ける、身勝手な親としか思えないからだ。むしろ、「デリケートな問題」などと言ってグズグズした対応をしているから問題が悪化するのではないか。やはりこういった「わがまま」には、毅然とした態度で臨まなければならない。



「あらあら、一体何のお話?」

 突然背後からそう声をかけられ、俺は驚いて振り向いた。

 そこには、一人の女教師が立っていた。熊のぬいぐるみのようにずんぐりとした体型に乗っかった丸顔が特徴の中年女性で、その表情には地蔵のような笑みをたたえている。優しさの塊みたいな人間で、そう言えば、影で児童から菩薩などと呼ばれていると聞いたことがある。


「あ、道元先生」

 麻倉が、俺と話すときよりも幾分柔らかい表情になる。そう言えば、道元は、麻倉が副担任をしている四年三組の担任だった。


「何でもないですよ。ちょっと、やっかいな問題がありまして……」

 道元は俺よりも一歳だけ年上で、その分キャリアも一年長い。つまり先輩だ。

 

 確か、ここ私立F小学校に赴任してきたのは五年くらい前だったか。最初はトロそうなオバさんかと思ったが、流石、長いキャリアを積んでいるだけあって、親や児童、他の教師からの信頼を得られるくらいの実力を持った教師だった。

 

 しかし、実のところ俺は、この道元という女が少々苦手だった。子供を必要以上に甘やかさず、時には厳しく接することこそが重要と考えている俺と、常にのほほんとした道元が相容れるはずがないのだが、俺はそれ以上に、この女教師に、どこか空恐ろしいものを感じていた。


 先ほども言ったが、この道元という女、一見すると小太りのオバさんにしか見えず、動作の鈍い能天気な人間としか思えない節がある。いや、実際能天気ではあるのだが……。

 しかし、そんな見た目とは裏腹に、意外と物事を鋭く観察しているのでは、と思うことが何度かあった。御子柴の母親との一見も、彼女の慧眼があったからこそ、大事にならなかったのだという輩もいる。また、以前、日焼け止めの使用許可の問題で職員会議が開かれた際にも、自分の意見を通すため、養護教諭の白井というバアさんを取り込んでまで反対派を黙らせた、という噂も聞いたことがある。まあ、反対派は俺だったわけだが。

 

 そんなわけで、俺は道元があまり好きではないのだが、向こうはそんなこと露知らず、にこにこ笑顔を浮かべながら会話に入り込んできた。

「ほら、遠野さんの件ですよ。ここ最近、何回か学校に来てるじゃないですか」

 この小娘、いらんことを……。

「ああ、遠野さんね。大変みたいじゃない、久茂先生」

 どうやら遠野の母親が学校に来ては理不尽な要求をしているという話はかなり広まっているようだ。


「それで、今悩んでいるのはお母さんのほう? それとも、春季君のほう?」

 ……遠野春季のことも知っているのか。本当によく見ているな、と心の中で感心する。

「……どっちも、って感じですよ。親が親なら子も子です。ふざけてばっかで話は聞かないし、勉強しないどころか、ノートすらとらないし」

「え、遠野くんって、ちょっと問題あるんですか?」

 麻倉のほうは知らなかった様子だ。当たり前だ。他学年の児童のことなど、余程のことがない限り、普通は知らないだろう。普通は。


「凄く元気で明るい子なんだけど、ちょっと元気すぎるところがあるのよね」

 道元がホホホ、と笑う。呑気なもんだ。

「道元先生は、遠野のことを知っとるんですか」

「名前と顔くらいはね。去年、よく新堂先生に相談されたから」

 新堂というのは、去年遠野を受け持っていた教師の名だ。以前、遠野のことで相談したことがあったが、いやあ、僕には手が負えません、と碌な答えが返ってこなかったことは覚えている。


「確か春季君の家、お父さんが失業中じゃなかったかしら」

 ほら、こういうところが空恐ろしいというのだ。なぜこの女、そんなことまで知っているのか。

「よくご存知で」

「まあね。もしかしたら、家庭でストレスを抱えていて、それを学校で発散させているんじゃないかしら」


「まさか……」

 あのガキ、ストレスを与えることは多々あっても感じることはなさそうだが。

「でもそうだとしたら、心配ね。久茂先生、春季君と少しお話ししてみたらどうかしら。何か、解決の糸口があるかもしれないわ」

 

 遠野と話す? 勘弁してくれ。


「そんなの意味ないですよ。子供なんて、暴れたいから暴れているに過ぎんのです。厳しく指導してりゃ、そのうち収まるはずです」

「そのうちって、もう十一月よぉ」

 嫌味なのか天然発言なのか、道元はそう言って笑い転げている。さすがに失礼だと思ったのか、麻倉は慌てた様子で彼女の笑いを止めようとしている。


「……ちょっと一服してきます」

 オバさんの井戸端会議みたいな空気に耐えられず、俺は喫煙室へ逃避することにした。


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