episode1-Last Page
「ど、どうして私が黙らなければいけないんですか!」
道元先生の言葉に、私は反発した。確かに応接間で大声を上げた件に関しては私にも落ち度があるが、間違ったことを言っているとは思っていなかった。
「ちょっと待って麻倉先生。まずは、道元先生の話を聞こう」
嗜めたのは亘先生だ。仕方なしに、私は口を噤む。
「美織ちゃん、先生から、少し質問してもいいかしら」
道元先生は、相変わらずのんびりした口調で御子柴美織に話しかけた。しかし、そんな道元先生の態度とは裏腹に、御子柴美織は怯えた表情をしていた。まるで、道元先生を怖がっている様子だ。
「美織ちゃん、あなたは、モデルになりたくないの?」
怯える御子柴美織を諭すような問いかけだった。少し時間を置いて、御子柴美織はコクリと頷いた。
「そ、そんなの嘘よ! 美織ちゃん、あなた、あんな頑張って、いろんな雑誌に応募したり……」
「いいから、お母さんは少し黙っていてください」
道元先生からそう嗜められ、御子柴昌は不服そうに口を閉じた。やはり、御子柴美織はモデルになんかなりたくないのだ。全ては、この親のエゴだった。そう思っていた矢先、道元先生の口から、驚くような言葉が発せられた。
「先生も、おかあさんと同じ考えよ」
一同が目を丸くした。まさか、道元先生はこの親の肩を持つというのか。
「美織ちゃん、もう一度よく考えて。あなたは、本当に、モデルという夢を捨ててしまうの?」
捨てるも何も、御子柴美織は最初からそんな夢など持っていない。だって、彼女は私にそう打ち明けたではないか。さあ、早く返事をしろ。母親の呪縛から、解放されるために。
しかし、御子柴美織は首を縦には振らなかった。その代わりに、大きな目いっぱいに涙を浮かべ、小さな嗚咽を漏らし始めた。
なんだ。どうして御子柴美織は泣いているんだ。一体、何が起きている。
混乱状態の私を他所に、道元先生は御子柴美織の傍に回り込み、そしてその小さな体を抱きしめた。
「そうよね。あなたは、本当はモデルになりたいのよね。分かるわ。だって、あなたが毎日頑張ってきたのを知っているから。細い手足も、白い肌も、あなたが頑張って守り続けてきたものだもの。簡単に諦めきれる夢じゃないわよね」
真っ赤になった目から大粒の涙が溢れ出し、嗚咽が更に大きくなっていく。その嗚咽の間に、彼女は小さく、しかし何度も「ごめんなさい」と呟いていた。
道元先生は御子柴美織から離れ、私の前までやってきた。いつもの微笑みをたたえているものの、その細い目の奥には私を非難する光が宿っていた。
「麻倉先生、あなたはどうして、美織ちゃんがモデルになりたくないと思っている、と考えたのかしら」
「それは、だから、さっき、彼女からそう言われて……」
「それは聞きました。私はその根拠を聞いているんです。まさか、彼女の話を根拠もなしに鵜呑みにしたわけではないでしょう?」
根拠……私は、御子柴昌に不信感を持っていた。でも、それはどうして……そうだ。
「ダ、ダイエットです」
「ダイエット?」
「はい。御子柴さんは、炭水化物抜きダイエットをおかあさんから強要されていると聞きました。だから、私は緊急性を要すると思って……」
「わ、私は娘にそんなことを強要していません!」
御子柴昌が叫ぶ。ヒステリックで甲高いその声が耳障りだった。
「なるほどね。あなたは美織ちゃんがご飯やパンを残すのは、おかあさんの指示だったと思っているのね」
そう言うと、道元先生はキャビネットからメモ用紙を取り出し、そこにボールペンで何かを書き込んだ。
「美織ちゃんがパンやご飯を残したのは、おかあさんの指示なんかじゃないと、私は思うわよ」
「どうしてですか。私は美織ちゃんからそう聞いたんですよ」
私の質問に答えずに、道元先生はボールペンを胸ポケットにしまった。そして、小さなメモ用紙を御子柴昌のほうへ向けた。
「麻倉先生も、見てちょうだい」
言われるままに覗き込むと、そこに書かれていたのはなんと献立表だった。今日、そして昨日の給食のメニューだ。
昨日の給食のメニューには、バターロール、メキシカンシチュー、温野菜のサラダ、唐揚げ、牛乳と書かれており、その隣には主な材料が記されている。温野菜サラダの隣にはキャベツ、タマネギ 人参など、メキシカンシチューの隣には、トマト、ベーコン、豆、といった感じだ。今日のメニューも同様で、ご飯、カレー、ほうれんそうのおひたし、牛乳といった項目の隣に、人参、じゃがいも、豚肉などの材料が書かれている。
「御子柴さん、娘さんの食生活に気を遣っているということは、食べ物に含まれる栄養素についても詳しいと考えていいですか?」
「え、ええ、まあ。常日頃から気にしていますから」
それなら良かった、と、道元先生は一度しまったボールペンを御子柴昌に差し出した。
「では御子柴さん、もしも炭水化物抜きダイエットを行うとしたら、この献立から何を外しますか」
御子柴昌の顔がさっと赤くなる。
「だから何度も言っているでしょ! 私は、娘にそんなこと……」
「分かっています。あくまでも仮定の話ですから、とりあえずやってみてくれませんか?」
道元先生にそう言われ、御子柴昌はしぶしぶボールペンを手にとり、メモ用紙を睨んだ。
彼女は躊躇いなく、昨日のメニューの『バターロール』、そして今日のメニューの『ご飯』に大きく×印をつけた。当然だ。ご飯やパンには、多くの炭水化物が含まれているのだから。
しかし、御子柴昌はそこでボールペンを置かなかった。そして、道元先生に一つの質問をした。
「この、メキシカンシチューに入っている豆って、一体何の豆なんですか」
「主に、大豆やうずら豆などですよ」
道元先生の返答に、ああ、と返すと、なんと、御子柴昌は、『豆』にも大きく×印をつけた。
「あ、あとこれもダメね」
そう言うと、今度は今日のメニューのカレーにまで×印をつけた。
「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてカレーや豆まで外すんですか」
そう言ったのは私だったが、驚いているのは私だけではなかった。御子柴美織と亘先生も、メモ用紙を見ながら目を丸くしている。
「これが、炭水化物抜きダイエットが御子柴さんの指示ではないと、私が考えた根拠よ」
道元先生は、メモ用紙を私に差し出した。
「メキシカンシチューに含まれている豆、その中のうずら豆には、タンパク質が多い大豆とは違って、多くの炭水化物が含まれているの。それに、カレーはルーに小麦粉、具としてじゃがいもが入っています。全部、炭水化物が多く含まれる食品よ」
ああ、言われてみればその通りだ。普段はカレールーを使っているから忘れがちだが、カレーには小麦粉が使われている。それに、パンやご飯以外にも、炭水化物を多く含む食品はたくさん存在する。しかし……。
「ちょっと待ってください。それがどうして、炭水化物抜きダイエットを勧めたのは御子柴さんのおかあさんじゃないっていう根拠になるんですか。それに、カレーに入っている小麦粉やじゃがいも、うずら豆に入っている炭水化物なんて微々たるものでしょう? 普通は、そこまで気を遣わな……」
そこまで言って気が付いた。そうだ、普通はそこまで気を遣うことはない。じゃがいもや小麦粉はまだしも、うずら豆なんかその存在自体を知らない人も多いはずだ。普通は気にしない。そう、普通ならば。
しかし、御子柴昌だったらどうだろうか。彼女にはある程度の知識がある上に、今までの言動からかなりの完璧主義な一面が窺える。たとえ微々たる量でも、彼女なら気にしたのではないだろうか。
一方、御子柴美織はご飯やパンは残したものの、その他のメニューは綺麗に平らげている。ということは、カレーやメキシカンシチューには炭水化物が含まれていないと考えていたことになる。小学生である彼女が、うずら豆やカレー、じゃがいもに含まれている炭水化物を見逃すのは、至極自然なことだ。
「炭水化物抜きダイエットは、御子柴美織の独断……」
ふと父親の可能性も疑ったが、御子柴美織の父は単身赴任中だ。つまり、やはり炭水化物抜きダイエットは御子柴美織自身が行ったことだと言える。
そして、それはまた別の説の根拠になる。
そう、モデルだ。モデルという夢は、御子柴美織自身の夢だったということだ。彼女がモデルになどなりたくないと考えているならば、自ら進んでそんなダイエットをするはずがないのだ。
御子柴美織は、本当はモデルになりたかった。つまり、彼女が私に言ったことは、全部嘘だったのだ。
「そんな……どうして、そんな嘘を……」
「あなた、美織ちゃんと圭太君の喧嘩、覚えているかしら」
混乱している私に、道元先生はもう一つの問いを発した。
もちろん覚えている。何せ昨日のことなのだから。
「……はい。覚えています」
「だったら、美織ちゃんが圭太君を突き飛ばした理由は? それも覚えている?」
「……はい。二人が口論になって、それで……」
「正確じゃないわね。美織ちゃんは圭太君に、『お前の母ちゃんは悪い奴なんだから、消えちゃえばいい』と言われたから、突き飛ばしたのよ」
それは、どうだろうか。確かにその言葉が引き金となったのは確かだろうが、その言葉が直接的な原因ではなかったのではないだろうか。それまで投げつけられた罵倒が積み重なった上での暴力だったのではないか。私がそう言うと、道元先生はゆっくりと、首を横に振った。
「私は違うと思う。美織ちゃんは、その言葉を聞いたから、圭太君を突き飛ばしたのよ」
その言葉。大森圭太が、御子柴昌を侮辱した言葉。
ハッとした。頭の中で、すべてが繋がった気がしたのだ。
「圭太君は美織ちゃんに対して、『モデルになんかなれるわけがない』とも言ったわ。綺羅ちゃんがそう言っていたし。きっとそのときは、ぐっと堪えたのね。でも、美織ちゃんは、大好きなおかあさんが侮辱されたときだけ、怒ったの。結果、かっとなって圭太君を突き飛ばしてしまった」
『いつかおかあさんのこと、嫌いになっちゃいますよ』
浅はかな自分の言葉が脳裏に蘇る。
「モデルの夢をバカにされるより、自分自身をバカにされるより、美織ちゃんはおかあさんがバカにされることのほうが許せなかった。だから彼女は、あなたに嘘をついた」
御子柴昌はモンスターだ。だから、そんな醜い姿を見た娘は、母親を嫌いになる。そう思っていた。
「美織ちゃんは悩んでいたのよ、大好きなおかあさんが学校で疎ましく思われていることについて。そして彼女は、その原因が自分にあると思ってしまったのね。自分がモデルになりたいなんて思っているから、おかあさんが学校に無茶な要求をして、嫌われてしまう。ならば、モデルという夢を捨ててしまえばいい。そうすれば、おかあさんは学校にクレームを入れなくて済む。大好きな、優しいおかあさんだと周りに気づいてもらえる」
自分が母に苦しめられているなんて、御子柴美織はこれっぽっちも考えていなかった。彼女は、自分が、母親を苦しめていると思っていたのだ。
「だから美織ちゃんは、あなたに嘘をついた。きっと、自分で言っても母親は聞く耳を持たないと思ったのね。だから、あなたを頼った。母を説得するように。モデルになんかなりたくないなんて嘘を、母親に告げるために」
道元先生は、御子柴昌のほうへ向き直った。
「御子柴さん。娘さんをここまで追いつめたのはあなたの言動です。あなたの、学校を信用せず、お願いではなくクレームとして学校乗り込むという行動がすべての原因なんです」
御子柴昌は愕然とした表情を浮かべた後、がっくりと項垂れた。娘を思うあまり、自分を思う娘の姿を見誤っていたのだ。
「御子柴さん。私たちは、あなたたち親子の敵じゃないし、手下でもありませんよ。味方なんです。美織ちゃんを見守る同じ大人として、私たちは手を取り合って協力しなければならないんです。そうあるべきなんです」
泣き続ける娘の隣で、御子柴昌は黙って道元先生の言葉を受け入れていた。
「昨日みたいに自分の意見をぶつけるだけじゃ、美織ちゃんにとって、この学校はとっても暮らしにくい環境になってしまいます。そうじゃなくて、話し合いましょう。『日焼けなんてさせたくない』、いいじゃないですか。美織ちゃんが過ごしやすくなるように、私たちに相談してください」
娘の泣声に、母の嗚咽が混じる。どちらからでもなく、二人は自然に、互いの手を握り合っていた。
「あなたも私も、美織ちゃんの夢を叶えるためにいるのではありません。美織ちゃんがその夢を掴むことが出来るように、ちゃんと育ててあげるために、いるんです。大丈夫、美織ちゃんは、自分の夢のために頑張ることが出来る、とってもいい子ですから」
互いに手を取り合い、泣き崩れる親子。彼女らに温かい言葉を投げかける道元先生。
しかし私の心は、まったく別のところに、あった。
道元先生は、御子柴美織の本音をきちんと読み取っていた。彼女の行動や言葉を正確に汲み取った。実際に彼女から話を聞いた私なんかよりも、ずっと深く。
もしかして、と思う。
御子柴美織は、そのことを見越していたのではないだろうか。
彼女は、母の異常な行動を止めさせるために、モデルの夢を諦める、という選択肢を選んだ。その選択を母に伝える自信のなかった彼女は、私たち教師を頼ろうとした。
しかし、道元先生に相談すれば自分の心を見透かされる。彼女はそう考えたのではないだろうか。モデルになりたくないという嘘を見透かされてしまえば、彼女のプランはそこで頓挫する。今のように、道元先生が母を説伏せることまでは予測出来なかった彼女は、それではいけないと考えたのだろう。
そこで、私の出番だ。
ずっと不思議に思っていた。どうして御子柴美織は、経験の浅い私を相談相手に選んだのか。なぜ、頼りになる道元先生を差し置いて、私を頼ったのか。答えは明白だ。彼女にとって、道元先生の慧眼は邪魔以外の何者でもなかったのだ。もっと簡単に、ころっと騙されてしまう大人が必要だったのだ。
私は、彼女に利用された。二十三の私が、小学四年生の子供に、騙されたのだ。
「麻倉先生、分かったかしら」
御子柴親子の泣声に隠れるようにして、道元先生が呟いた。
「あなたが自分に自信を持っていないことを、この子は見抜いていたの。この間言ったわよね。『迷ってはいけない』って。自分で判断出来ることは即座に判断しなさい。そして、手に負えないと思ったときは、迷わず、誰かを頼らなければダメなのよ」
亘先生も言っていた。まずは、道元先生に相談するべきだと。
「子供は純粋だけど、純真じゃない。小さな体だけど立派な人間よ。彼らを助けたければ、助けることができるだけの力を持ちなさい」
膝から崩れ落ちたい気分だった。自分が背負おうとしたものの大きさに、私は今、初めて気が付いたからだ。
episode1 完




