episode1-15
職員室では、教頭先生が堅い顔をして私たちを待ち構えていた。御子柴昌が来たくらいでなぜそんな切羽詰まったような表情を浮かべているのかと不思議に思ったのだが……。
「道元先生がいない!?」
私は教頭先生が言った言葉を倍のボリュームにして聞き返した。
「ああ、今はちょっと、市役所のほうにお遣いを頼んじゃって……」
皺だらけの額に汗を浮かべながら教頭先生が釈明する。放送をかけたはいいものの、道元先生の不在を後から思い出したらしい。どうせなら私を遣わしてほしかった。御子柴美織の話を聞いていたから無理な話なのだが。
「どれくらいで戻ってくるんですか」
私の背後から亘先生が尋ねる。
「うぅん、役所はここから車で十五分くらいだから、四十分から一時間で帰ってくると思うけど」
そんな長い間、御子柴昌を待たせておくことのできる人間はこの学校にはいない。
「仕方がない。麻倉先生、なんとかしてくれないか」
教頭先生からの無茶な要求に私は声を詰まらせた。代わりに答えたのは亘先生だった。
「だったら、僕も同席しますよ。そのほうが教頭先生も安心でしょう」
なんだか亘先生にはお世話になりっぱなしのような気がする。が、世話を焼かれるのは新人の特権だ。お言葉に甘えることにする。
「えっと、それで御子柴さんは……」
「ああ、いつも通り応接間ですよ」
ならば、応接間にはきっと今頃、女郎蜘蛛の巣が張り巡らされていることだろう。餌にならないように気をつけなければ。
それにしても、御子柴昌は一体何をしにやってきたのだろう。日焼け止めの件か、それとも他に何か……。
応接間の扉を開けると、中にはソファに腰掛けた御子柴昌が一人……ではなかった。
「えっ、どうして御子柴さんが……」
私が言った「御子柴さん」は、御子柴昌のことではない。御子柴美織のほうだ。何故か、御子柴昌の隣に、御子柴美織がちょこんと腰掛けているのだ。
「あら、麻倉先生。実は先ほど、偶然美織ちゃんと校庭で会いまして、どうせなら同席させようと思って」
マムシ柄のワンピースに真っ赤なスカーフを首に巻いた御子柴昌が答える。何時にも増して不気味な様相だった。
「……ところで、今日も道元先生の姿が見えなせんが」
御子柴昌の声のトーンが低くなる。同時に部屋の空気の温度が下がった気がしたが、クーラーがいきなり強くなったのだと思うことにした。
「えっと、道元先生は不在でして……あ、でも、直に、戻ります……」
御子柴昌は冷ややかな目で私を睨んでいたが、その後ろに亘先生の存在を認めると、幾分表情が柔らかくなった。
「ああ、亘先生もいらしたんですね。良かった。きちんとお話し出来る方がいらっしゃって」
辛辣な言葉も耐えるしかない。亘先生も困ったように曖昧な笑みを浮かべている。とりあえず、御子柴親子に向かい合う形で、私たちもソファに腰掛けた。
「それで、今日はどのようなご用件で……」
「決まっているでしょう、日焼け止めの件です。一体どうなったのでしょう、亘先生」
聞いたのは私なのに御子柴昌には亘先生しか見えていないようだ。もしかしたらこの人、私のことが大嫌いなんじゃないだろうか。仕方なく、亘先生が苦笑いで答えた。
「その件でしたらちょうど今朝、職員会議で話し合ったところですよ。まだ決定ではないですが、前向きに検討……」
「では、日焼け止めは許可されたんですね!?」
御子柴昌が食い気味に言った。
「え、いや、まだ決定では……」
「でも、近いうちには大丈夫になるんですよね。ああ、良かったぁ。これで美織ちゃんの真っ白な肌を守ってあげられるわ」
安堵の表情の御子柴昌に対し、御子柴美織は複雑そうな表情を浮かべていた。モデルになりたくないのであれば、御子柴昌ほどには日焼けに気を配らないだろう。だが喜んでいる母を前に、どんな顔をしていいか分からないのだ。
「ま、そういうことでしたら、窓際の席でも我慢させます。ね、いいわよね、美織ちゃん」
御子柴美織は小さく頷いた。
やはり、御子柴昌は日焼け止めの件が気になって訪ねてきたようだ。一応納得してくれたようで、私も亘先生も一安心、といったところだ。モデルの話をするのはよそう。まずは道元先生に相談してからだ。
「ところで、麻倉先生が私に何か話があるとか」
予想もしなかった言葉に、私は一瞬呼吸の仕方を忘れたかのように体を硬直させた。
「は、は、話、ですか」
不自然に吃る私を見て、御子柴昌は訝しげな表情を浮かべる。
「ええ、娘が先ほど、麻倉先生も話があるみたい、と言っていたのですが」
やられた。どうやら御子柴美織は先回りして私の逃げ道を塞いでしまったらしい。小学生にしてやられるなんて情けないが、ここは何か話題を作らなければ……。
「はい、ええと、あの……」
「早くしてくれませんか。私もヒマではないので」
嘘をつけ。……などと悪態をついている場合ではない。なんとか話をつなげないと。
「えっと、み、美織ちゃん、外で遊ぶときは、どうしているんですか?」
「は?」
「で、ですから、その、日焼けをすごく心配していらっしゃるようですけど、外で遊ぶときも、やっぱり日焼け止めを使うんですか?」
私は一体何を聞いているのか。御子柴昌もそう思ったのか、眉間の皺が更に濃くなった。
「あなた何を考えているんですか。美織ちゃんが外で遊ぶわけないでしょう」
「え、遊ばないんですか」
「当たり前でしょう。昼間は出来るだけ家から出しませんし」
外に出さない。それは、御子柴美織が外に出たいと思っていても、母親がそれを許さない、ということだろうかと、先ほどの相談のせいで変に勘繰ってしまう。
母の隣で、御子柴美織は丸い大きな目を細めて私を睨んでいた。話をはぐらかした私を非難しているのだろう。
「でも、友達とかと一緒に校庭で遊んだりは……」
気づかないふりをして、話を続行する。
「しませんよ。美織ちゃんだって日焼けなんかしたくないんですから」
「でも、もしかしたら美織ちゃんは、外で遊びたいと思っているかも……」
この私の不用意な発言に、御子柴昌は頬をさっと赤らめた。
「そんなこと、絶対にあり得ません! いいですか、この子の白い肌を守るために、私は最前の注意を払っているんです。出来れば学校にだって来させたくありません。不必要な外出だって避けますし。でもそれは、この子のモデルという夢を叶えるためなんです。この子のために、やっていることなんです! この子もそれを望んでいるんです!」
御子柴昌の熱弁は、私の心の中を空しく通り過ぎた。何を言っているんだこの母親は。何が娘のためだ。結局はお前の自己満足じゃないか。お前の娘は、モデルになんかなりたくないって言っているんだ。そんな窮屈な生活なんて、望んでいないんだ。
「日焼けだけじゃありません。体型を維持するために、食生活にだって気を配っています。私は娘の夢のために出来ることはすべてしたいんです。この子のためならどんな努力だって惜しむ気はないんです!」
食生活? 体型を維持させるために、御子柴美織に過度なダイエットを押し付けているだけだろう。炭水化物抜きダイエットなんて、こんな細い腕をした子供がやっていいことじゃない。この子の体からこれ以上、一体何を削り取る気なのだろうか。
「そのためには、先生方にも協力してもらうというのが私たちの考えです。だってそうでしょう、この子たちの夢を叶えるのが、教師の役目でしょう!」
ふざけるな。私たちの仕事は、児童を健全な大人に育て上げることだ。社会で必要な知識を授けることだ。そして何より、この子たちを守ることこそが、教師の使命だ。
「この子は私の宝です。希望です。この子のために、この子の夢のために、私はいつだって、どんなときだって、あなたたちに……」
「いい加減にしてください!」
もう無理だ。抑えられない。御子柴昌の下らない弁論を遮って、私は立ち上がり、そして叫んだ。
「な、何よいきなり」
「娘のため娘のためって言うけど、それって結局、あなたの自己満足でしょう? 美織ちゃんは、モデルになんかなりたくないって言っています! あなたの娘がモデルになりたいんじゃなくて、自分の娘をモデルにしたいだけじゃないですか!」
「麻倉先生! 落ち着いて!」
亘先生が止めに入るも、一度爆発した私の感情は簡単には止まりそうになかった。今まで感じていた御子柴昌に対する鬱憤が、止めどなく溢れてくる。
「あなたは自分の子供のことが全く見えてない! 美織ちゃんは苦しんでいるんです! あなたのエゴの所為で、あなたの下らない夢の所為で! 窮屈な生活を強いられているんです!」
「だ、黙って聞いていれば……」
御子柴昌の顔がみるみる赤くなっていく。唇をわなわなと震わせ、目には憤怒の色が見える。
「モデルは美織の小さな頃からの夢よ! 私は、その夢を叶えてあげたいだけなの! 自己満足なんかじゃない、エゴなんかじゃない!」
「おかあさん、やめて……」
御子柴美織が母のワンピースの裾に縋る。
「あなたは黙ってて! こいつは、あなたの夢をバカにしたの、あなたの努力をコケにしたの! こんな教師に美織ちゃんを任せておけないわ、教育委員会に訴えさせていただきます!」
「それはこっちの台詞です! あなたみたいな人に美織ちゃんの母親は務まりません! 虐待紛いなことまでしておいて!」
「虐待? 私が何時、美織ちゃんを虐待したって言うの?」
「美織ちゃんにダイエットを強要しているのも、あなたなんでしょう?」
御子柴昌の顔が歪む。理解不能といった表情なのか、それとも、痛いところを突かれた表情なのか。
「な、なんのことよ、私はそんなこと知らないわ!」
「とぼけないで! 私たちが気づかないとでも思ったんですか? 毎日ご飯やパンを残して……。これ以上痩せたら、美織ちゃんは病気になってしまいます!」
「やめて、おかあさん、先生……」
「落ち着くんだ、麻倉先生!」
御子柴美織と亘先生の声が、ものすごく遠くから聞こえる気がした。
「訳の分からないこと言わないで! 何の話をしているのよ、頭おかしいわよこの人!」
「おかしいのはそっちじゃないですか!」
御子柴昌の右手が、背後のキャビネットにおいてあった写真立てを捉えた。そして彼女はそのまま、その手を振り上げた。その軌道の中で写真立ては右手を離れ、私に向かって投げ出された。
「危ない!」
亘先生の叫び声とともに、私の視界が暗くなった。次の瞬間、体が横倒しになった。痛くはない。ソファに倒れ込んだようだった。体が、何か暖かいものに包まれていた。
「け、怪我はないか」
耳元でそう囁かれた。どうやら、亘先生が私を押し倒したらしかった。御子柴昌が投げた写真立ては、私たちの後方の扉に当たったらしく、入り口付近に転がっていた。
「おい、どうしたんだ!」
教頭先生を始め、何人かの先生が応接間になだれ込んできた。きっと、隣の職員室にまで響くくらいの騒ぎだったのだろう。
「え、あ、こ、これは、一体……」
教頭先生は絶句したようにその場に立ち尽くしていた。他の先生方も同様だ。応接間の有様に、誰もが状況をつかめず困惑していた。
御子柴昌はまだ何かを喚き叫んでいる。娘のため、夢のため。美しい娘の母親の顔は見にくく歪んでいる。まるでモンスターだ。
「と、とりあえず、麻倉先生は職員室へ。亘先生は、詳しい事情を……。ああ、御子柴さんはえっと、どうしようかな。あ、保健室、そうだ、えっと、白井先生に……」
「ちょっと待ちなさい」
慌てふためく教頭先生の言葉を遮って、彼らの背後から声が響いた。顔を見なくても分かる。道元先生の声だ。市役所から帰って来たのだ。
ギャラリーを押しのけるようにして、道元先生の丸顔がひょっこり現れた。驚いた表情だったが、困惑の色はなかった。それどころか、一瞬で状況を理解したのではと思うくらい、その表情は自然だった。
「私が話を聞きますから、他の先生方は出て行ってくださいます?」
道元先生が穏やかな声で周囲の先生に告げた。いや、とか、でも、を繰り返す教頭先生を宥めながら、丁重に応接室から追い払った。室内には、私、亘先生、御子柴親子、そして道元先生の五人が残された。
「亘先生、ちょっと事情を聞かせてくれる?」
「え、ここで、ですか?」
「ええ、二人を刺激しない程度に」
分かりました、と亘先生は詳しい事情を道元先生に話した。私が御子柴美織から相談を受けたことも、その内容も全てだ。
「なるほどねぇ……」
溜め息まじりに道元先生が呟いた。いつもと全く変わらないテンションが、ピリピリとしたこの空間で浮きに浮きまくっていた。
「道元先生お願いです、こんな先生副担任から外してください。これじゃ、安心して美織ちゃんを学校に送り出せません」
懇願するように御子柴昌は言った。しかし、道元先生は冷たく突き放した。
「黙りなさい、御子柴さん」
朗らかな表情から、氷の様に冷たい言葉が飛び出した。御子柴昌は絶句し、口をパクパクと動かしていた。私も亘先生も、道元先生のそんな言葉を聞いたことがなかったので非常に驚いた。
「まったく、あなたたちは美織ちゃんのことが全然見えていないわ。周りがこんな大人ばかりじゃ、美織ちゃんも嫌になってしまうわ。ねぇ」
そう言って、道元先生は御子柴美織に笑いかけた。今気づいたが、御子柴美織は泣いているようだった。それもそうだろう。大の大人二人が大声で罵り合ったのだ。恐怖を感じないわけがない。
御子柴昌が絶句しているうちに、私の言い分を道元先生に話しておこうと思った。
「道元先生、美織ちゃんは虐待を受けている可能性があります。ダイエットの強要も、やっぱりこの人が……」
道元先生がこちらに顔を向けた。彼女の表情を見た瞬間、私は凍り付いたように体を硬直させた。普段通りの笑顔のはずなのに、なぜかそこには強烈な威圧感があったのだ。
「あら、あなた聞こえなかった? わたしは『あなたたち』って言ったの。あなたたち二人が、美織ちゃんを苦しめているって言っているの」
……え?
「黙るのはあなたもよ、麻倉先生」




