episode1-13
「私、モデルになんかなりたくないんです」
午後三時半。西日が差し込む空き教室にて、私は御子柴美織にそう告げられた。
校舎の四階、四年一組の教室の隣にある、この空き教室を指定したのは私だったが、私が扉を開けた時には既に、彼女は教室中央辺りの席について本を読んでいた。私の存在に気づいて持ち上げた顔には、幾分緊張の色が浮かんでいた。表情も沈んでいて、白い肌は青白く光っているように見えた。
「遅くなってごめんね」
遅れてきたことに対して一応謝罪の言葉を述べたが、実際は職員室に荷物を置いてきただけなので、SHRから五分と経っていない。
「それで、相談って何かな」
てっきり、御子柴昌についてか、若しくは昨日のことについての相談だと思っていた。だから、先ほどの台詞が彼女の口から飛び出してきたとき、私はその内容に関して驚きを隠しきれなかった。
「……どういうこと、かな」
なんと言っていいか分からず、私は間抜けな返答を返してしまった。顔立ちはともかく、細い腕に白い肌、自然な笑顔、どれをとってもモデルを目指すために努力した跡が見られるし、何より、本人がモデルになりたいと強く願っていたのは周知の事実だ。なぜこの子が、今更そんなことを言うのか理解出来なかった。
「モデルになるために、今までいろんなことを頑張ってきたんじゃないの? 今諦めてしまうのは、ちょっともったいない気がするけどな」
おそらく、モデルになるための辛い努力に心が折れそうになっているのだと思い、励ますつもりでそんな言葉をかけた。しかし……。
「……諦めるわけじゃないです」
「え?」
「最初から、モデルなんかなりたくなかったんです!」
突然、御子柴美織が声を張り上げた。この子がここまで感情を露にするのは珍しいことだ。今日といい昨日といい、一体どうしたのだ。
「最初からって……そんなことないでしょう。いつも日焼け止めを塗ったり、読者モデルに応募したりしていたじゃない」
「……ママに」
ママに? 御子柴昌がどうしたというのか。……まさか。
「ママにそうしなさいって、言われたから……」
血の気が失せていくのが分かった。モデルという夢を見ていたのは、御子柴美織ではなく、御子柴昌のほうだったというのか。御子柴昌は自分の夢を、娘に押し付けていた、ということか。
「ママが、『あなたはモデルになるんだから、それくらいの努力はしなくてはダメ』って言うから……」
「ちょっと待って。御子柴さんはモデルになんかなりたくないのよね? それなのに、お母さんがそう言った、ってこと?」
御子柴美織はコクリと頷いた。それはまるで操り人形のように機械的な動きだった。その姿に哀れみを覚えたのと同時に、私はあることを思い出した。
「……炭水化物抜きダイエット」
「……え?」
「御子柴さん、あなた、炭水化物抜きダイエットをしているんじゃない? 昨日も今日も、パンやご飯を食べていなかったじゃない」
端正な顔がたちまち強ばる。やはりそうだった。給食に出されたパンやご飯を残したのは、好き嫌いでも満腹だったからでもない。無理なダイエットだったのだ。それも、自分の意思ではないのかもしれない。
「……モデルになりたくないなら、そんなことする必要ないよね。つまり、それも、お母さんが……」
御子柴美織は否定も肯定もしなかった。しかしその思い詰めた表情を見る限り、答えは明白だった。
娘をモデルにするために、過度なダイエットを押し付ける。先ほど、私が危惧したことは現実に起きていたのである。しかも、モデルという夢は御子柴昌が描いた虚像であり、それは本人が望む未来ではない。これは、一種の児童虐待に当たるのではないだろうか。
「とにかく、道元先生にも話を聞いて…」
もしもこの話が本当ならば、これは私一人で対処するべき問題じゃない。道元先生を呼ぶべきだと思い、教室を出ようとする。しかし、御子柴美織は私の言葉を遮るようにして言った。
「麻倉先生、道元先生には言わないで!」
その口調があまりに切実だったので、私は廊下へ向かおうとしていた足を止めた。
「先生、お願い」
「どうして? 道元先生は担任の先生よ。きっとあなたの味方になってくれる……」
御子柴美織が道元先生を拒否する理由が分からない。そもそも、どうして担任の道元先生ではなく、私を相談相手に選んだのだろう。
「道元先生は……あんまり、ちゃんと話を聞いてくれそうにないから……」
御子柴美織が消え入るような声で言った。しかし、どういうことなのかはよく分からなかった。確かにいい加減なところもある先生だが、それでも私よりは頼りになるはずなのだが……。それとも、彼女なりに道元先生を信用出来ない理由でもあるのだろうか。教師になりたてで、半人前の私に相談するほどの理由が……。
「それに、麻倉先生なら、きっとなんとかしてくれると思ったから……」
ハッとした。そうだ。この子は私を頼りにしているのだ。私が半人前だとか、道元先生のほうが頼りになるとか、そういう問題ではない。私はこの子の先生で、この子は私を信頼している。助けてほしいと思っている。ならば、私が救いの手を差し伸ばさないでどうする。それが、教師としてやらなければならないことではないのか。
「それで、御子柴さんは私にどうしてほしいの?」
「あの、ママを説得してほしいんです。私が言っても、きっと許してくれないから」
つまり、御子柴美織をモデルにする、という御子柴昌の夢を諦めさせる、ということだ。なかなかの難題だが、私を頼りにしてくれるこの子の前で、不甲斐ない姿は見せられない。教師として、一人の社会人として、この子を守る存在として、なんとかしなければならない。
「大丈夫、先生に任せて」
弱い自分を必死に押さえ込みながら、私は御子柴美織に笑いかけた。彼女も、幾分、安心したようだ。
道元先生には話さないという彼女との約束を守るなら、彼女なしで御子柴昌を相手にしなければならない。それは並大抵のことではないが、何か使命感のようなものが、私の背中を後押ししてくれているような気がした。
そして私はこのときの決断を、後に大きく後悔することになる。




