episode1-12
またまた給食の時間。今日は三班の児童たちと机を囲んでいたが、どうしても、二班の御子柴美織に目がいってしまう。口に運んでいるカレーライスの味もよくわからない。
今日の二班は、やけに静かだった。神田百花と明石綺羅は時々言葉を交わしているようだが、後の三人はほとんどだんまりだ。とくに大森圭太と御子柴美織は、朝から誰とも目を合わせようともしない。
元気なら元気で煩わしく思っていたが、こう静かだとやはり寂しい。それに、私は、昨日の事件は自分の能力不足で引き起こされたものという意識があったので、彼らに申し訳ない、という気持ちもあった。
日焼け止めの件はまだ決定ではないが、なんとか認められそうだ。これで御子柴昌も少し大人しくなってくれるだろう。でも……。
久茂先生の言葉がひっかかっていた。教師が、学校が、親の言いなりになっていいのか、という言葉だ。学校という教育現場に、必要以上に介入してくる親に対し、ただ指をくわえて見ているだけでいいのか。いや、そんなわけがない。教師や学校が、親の理不尽な要求に応える必要はない。
しかしその一方で、学校にクレームを入れる親たちの気持ちにも、理解出来る部分があった。私たちは、子供を育てる仕事をしている。しかしそれは、その子供たちの親だって同じなのだ。自分の子供を一人前の人間に育て上げる。それこそが、彼らの役目であり、使命だ。だが、彼らも四六時中自分の子供を見張っているわけにはいかない。日中はどうしても、私たち教師に自分の子供を預けることになる。
自分の子供が快適な学校生活を送れているのか、何らかの障害が我が子を襲ってやいないか、心配するのは当然で、その矛先が教師に向けられるのも、考えられるといえば考えられる。
しかしそこに誕生するのは、同じ教育者としての信頼関係ではなく、親が学校を評価づける監視システムだ。久茂先生が私と同じことを考えているのかは分からないが、どちらにせよ、子供主体の教育現場が揺らいでいることに危機感を感じずにはいられない。例え、私がまだ一年目のペーペーだとしてもだ。
そんな考えを巡らせながらの食事だったから、味などほとんど分からなかった。ただただ視線だけが、二班の御子柴美織に向いてしまっていた。
「先生、片付けないの?」
とうとう三班の女子児童にそう声をかけられてしまった。見ると、カレーの入った器もご飯が入ったステンレスの器もすっかり空っぽになっていた。時間も差し迫っていることに気づき、慌てて片付け始める。
ちょうど、御子柴美織も食器を片付けているところだった。彼女の後ろにつく形となったとき、不意に御子柴美織の食器の中が目に入った。
「えっ……」
私は思わず声を漏らした。彼女のトレーに乗っているステンレス製の器の中には、ご飯がほとんど手つかずで残されていたからだ。
私の声に気づいた御子柴美織は、ばつの悪そうな顔を浮かべて俯いた。
この子は確か、昨日もバターロールをほとんど残していた。そのときは、単にパンが苦手だと言っていたが……これは……。
「ねえ御子柴さん、ご飯そんなに残しているけど、大丈夫なの?」
おかずを一品残すならまだしも、成長期の子供が主食をほとんど残すなんて心配だ。
「あ、えっと、はい。あの、お腹いっぱいに、なっちゃって……」
明らかにしどろもどろだった。何かいけないことを見られてしまったように慌てているようにも見える。見ると、他の器は全て空っぽだった。つまり、昨日と全く同じ状況、というわけだ。
「うん、でも、今度からはちゃんと食べるようにね」
一口食べれば残していいというルールがある以上、私が言えるのはそれだけだった。彼女はそのまま、残ったご飯を残飯用の袋に入れた。
その姿を見て、私は一つの可能性を思いついた。
「炭水化物抜きダイエット?」
道元先生が素っ頓狂な声を上げる。昼休み、私は職員室で道元先生に、先ほど思いついた考えについて相談してみることにしたのだ。
「はい。御子柴さん、昨日もバターロールを残していたんです。そのときは、パンが嫌いなだけだって言っていたんですけど……」
「今日もご飯を丸々残していたのを見て、不審に思った、と」
お腹がいっぱいになったという話が本当だという可能性もなくはないが、考えにくいだろう。彼女が残しているのはご飯だけで、カレーは綺麗になくなっていたからだ。普通、カレーがあればご飯と一緒に食べるだろう。お腹が一杯になったと言うのなら、カレーも少し余るか、そうでなければご飯がもっと減っていたはず。つまり、御子柴美織は意図的にご飯を食べなかった、と考える方が自然なのだ。
「ご飯も嫌いだという可能性は?」
「あるかもしれませんけど、だとしたらどうして『お腹がいっぱいになった』なんて嘘をついたんです? 昨日はパンが嫌いだと言ったのに」
それもそうねぇ、といって、道元先生は俯いて考え込んでしまった。真剣に考えているのかそうでないのか、今ひとつ見極めにくい反応だ。と、そのとき、急に背後から声をかけられた。
「なんだい、その炭水化物ダイエットって」
亘先生だった。話を聞いていたのだろうか、私にそう尋ねてきた。まさか、炭水化物抜きダイエットを知らないのだろうか。
「あはは、炭水化物“抜き”ダイエットよ、亘先生。炭水化物ばかり摂ったら、逆に太っちゃうじゃないのよ」
私の代わりに答えた道元先生が、コロコロと笑い声を上げた。
「炭水化物抜きダイエットってことは、ダイエットのために炭水化物、つまりご飯やパンを抜くってことですか? そんなことするより、カロリーの高い肉とか、揚げ物とかを抜いた方がいいように思えますけど……」
割と世間一般にも知れ渡っているダイエット方法だと思っていたが、亘先生ぐらいの男性には知らない人もいるのかもしれない。
「ええっとですね、炭水化物抜きダイエットって、ちょっと前に流行ったダイエット方法なんですけど……。ご飯やパンなどに含まれる炭水化物って、体の中でブドウ糖に変換されるんです。それで、このブドウ糖は筋肉の中で更にグリコーゲンに変わって体内に貯蔵されるんですけど、貯蔵出来なかった分って、実は脂肪に変わっちゃうんです」
「へぇ。あ、なるほど、つまり炭水化物を摂りすぎるとそれが脂肪に変わって、太ってしまうということか」
亘先生が納得したように何度も頷いた。
「そこで、炭水化物をなくす、または極端に減らすと、運動する時にグリコーゲンではなく脂肪を燃焼させるようになるんです。つまり、体内に蓄積されていた脂肪を使うわけですから、痩せやすくなる、ということですね」
簡単にだがひとしきり、炭水化物抜きダイエットのメカニズムについて説明したところ、亘先生も理解してくれたようだ。
「ふうん。それにしても随分詳しいね」
「え、あ、ええ、まあ」
学生時代に経験がある、とは言えなかった。
「でも、それなら極端な食事制限をしなくていいんだろう。普通のダイエットよりも健康的なんじゃないの?」
「いえ、実はデメリットもあるんです。例えば脳です。糖質は脳にとって唯一の栄養源ですから、全く摂らなければ頭が働かなくなります。それに、体重だけじゃなくて、体力や筋力の低下を誘発する、とも言われていますよ」
午後からも授業がある小学生にとっては致命的、ということだ。このダイエット方法が流行った時に、同時にこのような警告を発する専門家も多かった。
「なるほどね。それで、御子柴さんはその炭水化物抜きダイエットをしているの?」
「うーん、まだ確定ではないですけど、私はそうじゃないかと……」
「道元先生はどうです?」
「そうねえ、何とも言えないけど、その可能性もあるわねえ」
相変わらず呑気なご様子で。
「でも、小学生が炭水化物抜きダイエットなんて知っているんですかね」
「何年か前に流行ったしねえ……。それに、あの子読者モデルみたいなことをしているでしょう。もしかしたら、その雑誌かなにかで知った可能性があるわね」
「ああ、そうか。ま、どっちにしても、いずれ本人からきちんと話を聞いたほうがいいですね。もし本当ならやめさせたほうがいいかと思います」
亘先生と道元先生の二人は、御子柴美織が独断で炭水化物抜きダイエットをしている、と考えているようだったが、私の考えは違った。
「……もしかしたら、御子柴さんのお母さんがやらせているのかも……」
亘先生が目を見開いた。
そう、私は、御子柴昌が娘に炭水化物抜きダイエットを勧めていると考えたのだ。娘をモデルにしたい、またはモデルという夢を叶えさせてやりたいと願う御子柴昌の暴走。昨日の彼女の姿を見たせいか、私は、御子柴美織が独断で炭水化物を残したと、いうことよりも早く、この可能性を疑った。無論確定的な証拠はない。御子柴昌の異常性を目の当たりにしたからこその突飛な考えだ。
「え、お母さんって、どういうこと?」
「ですから、お母さんが御子柴さんに、ダイエットをさせている、若しくは提案しているかもしれないって……」
これにはさすがの道元先生も驚いた様子で、いつもの笑顔は影を潜めていた。
「ちょっと待って。じゃあ何、御子柴さんのお母さんは、自分の娘にダイエットをさせている、っていうことか?」
「も、もちろん証拠とかはないです。でも、もしそうだったとしても不思議はないかなって……。娘をモデルにしたい一心で、そういう行動に走った可能性も……」
「いや、不思議はないって、そんなことないだろう。だって、君の話を聞いた限りだと、そのダイエットって危険な面もあるみたいじゃないか。それを娘に勧めるって……」
「そうね。それに、御子柴さんは誰がどう見ても痩せ形よ。それはあの母親も分かっているはず。娘にダイエットをさせようなんて思うかしら。逆に、御子柴さんの将来の夢はモデル。自分の体重を異様に気にするようになった彼女が自分でやったと考えるほうが自然じゃないかしら」
……道元先生の言うことはもっともだった。やはり、私の考え過ぎかもしれない。
そのとき、職員室の前方で、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。声のするほうに目を向けると、児玉という先生が職員室の入り口に立ってこちらを見ていた。
「どうしたんですか、児玉先生」
二人から離れ、彼の元を目指す。
「ごめんね、話し中に。どうも、この子が麻倉先生に話があるみたいで……」
そう言って児玉先生は扉のほうに目をやった。扉は開かれており、廊下が丸見えだ。そして、そこに立っていたのは……。
御子柴美織だった。彼女は廊下から盗み見るようにして、職員室内の私を窺っていた。
児玉先生にお礼を言ってから、私は廊下に出て扉を閉めた。何となく、彼女は話を誰にも聞かれたくないと思っているような気がしたのだ。
「あの、先生、お話があるんですけど……」
遠慮がちに御子柴美織が口を開いた。
「うん、どうかした?」
もしかして、ご飯を食べていないからお腹がすいたのかしら、などと、いかにも道元先生が考えそうなことを想像してしまった。
「ええと、放課後なんですけど、ちょっと時間ありますか?」
「え? うん。大丈夫だけど」
「少し、相談したいことがあるんです」
相談? 児童からそんなことを言われたのは初めてだったので驚いたが、どうせこっちから話を聞こうと思っていたところだったのでちょうどいい。
「分かったわ。じゃあ、道元先生も一緒に……」
児童からの相談なのだから、担任の道元先生にも同席してもらうべきだろう、という思いだった。しかしそう言うと、御子柴美織は慌てた様子で、「それは、ダメです」と言った。
「え、ダメって?」
「道元先生にはナイショで、麻倉先生に相談したいんです」
今度は本当に面食らった。まさか、道元先生を差し置いて私と話したいだなんて……。
「え、でも……」
「と、とにかく、私は麻倉先生に相談したいんです。道元先生にはナイショで」
しばらく説得してみたが、私と二人きりで話したいという条件は、どうやら譲る気はなさそうだ。仕方がないので了承すると、彼女はホッとした顔になり、教室へ戻っていった。
職員室の前で、私は考えを巡らせていた。
ここは当然、道元先生に伝えるべきだろう。私はまだまだ駆け出しで、彼女の助けが何より必要だ。児童のことを想うなら、どんなことでも彼女に相談するべきだ。だが……。
それは、御子柴美織を裏切る行為のような気がした。必死に私を頼ってくれる彼女を、道元先生に丸投げする。それは、果たして教師として正しいことなのだろうか……。
……話を聞くだけだ。話を聞いて、それから道元先生に相談しても遅くはないだろう。もしかしたら、なんてことない悩みなのかもしれないし。
そう言い聞かせて、私は職員室に戻った。そう、児童の相談にのるだけ。そんな簡単なことができなくて何が教師だ。大丈夫。大丈夫だ。
そう言い聞かせながらも、何だか心がざわめくような、嫌な予感が胸に広がっていた。




