episode1-11
「はあ、どうせまた御子柴さんなんだろ」
亘先生の説明の後、最初に口を開いたのは、二年二組の担任、久茂先生だ。亘先生と同じく二年生を受け持っている先生で、歳、キャリアは道元先生と同じくらいのベテランなのだが、彼女とは違い、昔気質で厳格な性格で児童からは恐れられている。私の倍もありそうな、横幅の広い体に四角い頭が鎮座しており、ぎらついた瞳の上には白髪まじりの太い眉が引かれている。頭はパンチパーマで、その風貌は教師どころか堅気にすら見えない。
先生方全員にプリントが行き渡ったところで、久茂先生は亘先生に噛み付
いた。
「あ、あの、久茂先生。今はそういうことは置いておいて、日焼け止めの持ち込みについて……」
亘先生が非常にやんわりといった様子で反論する。御子柴昌と話しているときよりもさらに気を遣っているようだ。
「だってよ、体操着の袖の件もあの人なんだろう。いいのかよ、教師が親の言いなりになんかなっちまってよ」
ドスの利いた声が亘先生に浴びせかけられる。
「いえ、決して言いなりというわけではなくて、あくまでも日焼け止めの必要性を考えてほしいんです」
「んなもん、家で塗ってくりゃいいんじゃねえのか。なんで普段の授業で日焼け止めが必要なんだよ」
「それは、例えば窓際の児童に日が当たることで、日焼けをしてしまうことを心配される親御さんがおりまして……」
「カーテンでも閉めりゃいいじゃねえか!」
どうやらかなりご立腹のようだ。おそらく常日頃から、細かい注文を付け、学校教育に対して必要以上に介入してくる御子柴昌に怒りを覚えていたのだろう。
「大体よ、子供に日焼け止めなんか必要なのかよ。俺なんかこの五十年、そんなもんつけたことねぇぞ」
その結果がシミだらけの顔だろう、と心の中で突っ込みを入れる。児童がみんなあんたみたいになったらどうする。無論口に出せるはずもないが。
「昔と今では状況が違うんですよ。お手元のプリントにも書いてありますが、オゾン層の破壊などで紫外線の影響は昔よりも強くなっているんです。皮膚がんなどの発生リスクから考えても、日焼け止めの必要性について考えなければいけないと……」
「だ、か、ら、それなら家で塗ってくりゃいい話だろ! なんでわざわざ学校に持ってくるんだ」
予想以上の反発(といっても一人だけなのだが)に、亘先生は見るからに苦戦していた。助けてあげたいが、私が何かを言って事態が好転するとも思えない。
「ちょっといいかしら」
心地悪い空気の中、職員室後方から嗄れた声が聞こえた。
「え、あ、白井先生、どうぞ」
予想外の人物の登場に、亘先生は驚いた素振りを見せて彼女の発言を促した。よっころらせ、と小さく声を漏らし、白井先生は立ち上がる。
「えっと……」
ほんの一瞬、白井先生は自分の手元に目を伏せ、何かを確認する素振りを見せた。
「今、ね、久茂先生の方から、日焼け止めを学校に持ってくる、えー、ことに対して、疑問が出たわけですけれども」
やけにたどたどしい話し方だな、と少し気になった。
「えー、日焼け止めというのはですね、汗や、それから手で擦っただけで、簡単にとれてしまう場合があるんですね。それでは、ね、日焼け止めとして意味がないわけなんです。日焼けによるリスクは、えー、みなさんご存知でしょうけど、場合によっては、塗り直した方がいいときもあるんです。それからですね……」
ほとんどプリントに書いてあるような内容だったが、養護教諭の白井先生が言うと妙な説得力がある。久茂先生も口を挟もうとはしなかった。
「日焼け止めには、様々な効果があるわけですが、まず、PA値ですね。これはProtection Grade of UVAを略したもので、これは、まあ簡単に言えば、光に当たった時にどれだけ肌が黒くなるか、を数値化したものです。またSun Protection Factorという言葉を略したSPF値というものもありまして、これは紫外線を浴びた時に、どれほどの時間で肌が赤くなってしまうかを数値化したものです。つまりは、皮膚がんやその他皮膚病の原因となり得る紫外線B波を、一体どれだけカットすることが出来るのか、ということですね。これは20や50といった数値で表されますが、PA値の方はPA+,PA++などで表記されています。両方ともですね、数値が高ければいいというものではなく……」
いきなりの横文字や専門用語の頻出に、戸惑ってしまったのは私だけではないだろう。文字で見るならまだしも、口頭で説明されても頭に入ってこない言葉だらけだ。久茂先生や進行役の亘先生でさえも、呆気にとられた様子で白井先生の話を聞いている。
「……と、いうわけでですね、日焼け止めが肌へ負担をかけてしまうことも考えられます。是非一度、日焼け止め製品に関しての補習的講義のようなものを開いた方がいいと、えー、私は思います」
ああ、そういうことか、と私は合点がいった。白井先生はあえて亘先生のプリントに書いていないような難しい用語を並べることで、久茂先生を煙に巻いたのだ。実際、結論部分の内容は今の会議に何の関係もない。ただし久茂先生に対しては有効だったようで、彼はうなり声一つ上げて黙り込んでしまったようだ。
「あ、あの、亘先生、時間もあまりないようなので、そろそろ決議の方を……」
白井先生の演説は時間稼ぎの役割も果たしたようで、痺れを切らした教頭先生が先を急がせる。
「そ、そうですね。では、ここで先生方の意見をお聞きしたいと言うことで、賛成か反対かに挙手をしていただきたいと思います。ではまず、賛成の方」
私、道元先生、白井先生が真っ先に手を挙げる。それに続くようにぞろぞろと他の先生の手も挙がっていき、最終的には久茂先生を含む二、三人の先生以外が挙手をする形となった。圧倒的勝利だ。久茂先生は苦々しげな表情を浮かべている。
幾分ホッとした様子の亘先生の顔を見ながら、私の頭の中にはある疑問が生まれていた。
白井先生は日焼け止めの持ち込みについて賛成してくれたわけだが、彼女には今日の議題については詳しく知らされていなかったはずだ。それなのに、彼女は専門用語を並べ立て、説得力ある説明で久茂先生をねじ伏せた。いくら養護教諭だとしても、咄嗟にあのような発言が出来るのだろうか。
……まさか。
いいことを思いついたと言って職員室を飛び出して行った道元先生。彼女はあのとき、どこへ向かったのだろう。彼女は保健室に赴き、白井先生に協力を扇いだのではないだろうか。いや、それだけではないかもしれない。白井先生はさきほど、一瞬自分の手元を確認するような素振りを見せた。もしかして、彼女は何かを見ながら話していたのではないか。もしそうだとして、そのカンニングペーパーを作ったのは白井先生なのだろうか。それとも……。
道元先生は素知らぬ表情を浮かべ、自分の席でいつもの微笑みをたたえていた。




