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episode1-10

 

暗く沈んだ気持ちで職員室に戻ると、何故か机の上にコーヒーカップが置かれていた。私が愛用している、ひよこの絵が描かれたコーヒーカップだ。心を落ち着ける香ばしい香りが辺りに漂っている。


「ちょうど大森さんが帰るのが見えたから。そろそろ戻ってくるかと思って」

 背後からそう言って話しかけてきたのは亘先生だった。手には水色のコーヒーカップが握られている。よく見ると、道元先生の机にも、豚のしっぽを把手に見立てたピンク色のコーヒーカップが置かれている。


「わあ、ありがとうございます」

「お疲れだと思ったからね。あれ、道元先生は?」

「トイレに寄るって言ってました。もうじき来ると思いますよ」

 言ってから、私は一口コーヒーを啜った。インスタントだが、人が淹れてくれたコーヒーは何故かおいしく感じる。


 ほどなくして、道元先生も職員室に戻ってきた。私たちの姿を見た道元先生の顔が、なぜかにやけている。何かいいことでもあったのか、こんな時に。

「あら、もしかしてお邪魔だったかしら」

 見合いを勧めてくるお節介おばさんみたいな顔をして、道元先生が言った。まったく、何をくだらないことを。本当にどうしてこんなに呑気なのか。


「いえいえ、実は道元先生と麻倉先生に、見ておいてもらいたいものがありまして……」

 当たり前だが照れた様子など一切見せずに、亘先生は自分の机から二枚のコピー用紙を持ってきて、私たちにそれぞれ手渡した。なんだろうと思って見てみると、そこには「授業中における日焼け止めの使用について」とある。

「さっき完成したから、一応お二人の意見を伺っておこうと思いまして」

 ああ、すっかり忘れていた。そう言えばそんなこと、亘先生に頼んでいたっけ。

「すごい、もう出来たんですか」

 忘れていたことのお詫びということで、少し驚いてみせた。だが仕事が速いのは事実だ。私だったら他の業務に追われ、完成までには一週間以上かかってしまうかもしれない。


 ざっと全体を見てみる。ある保護者から意見をいただいた旨、日焼けによるリスク、学校に日焼け止めクリームを持ってくることについてのメリットなどが記されておる。もちろん、私がいちゃもんをつける余地などない。

「いいと思います。これ、明日の職員会議で発表するんですか」

 この学校では、毎週水曜日の放課後に職員会議が実施される。職員が一堂に集まり、問題点や各学年の学級状況についての報告などが行われる。

「いや、朝礼の時間を使っていいと、教頭先生に言われたよ」

 というと十分か、長くて二十分。その程度の時間で解決出来ると判断されたのだろう。


「うん、いいんじゃないかしら。誤字脱字もないし」

 道元先生もようやく顔をあげた。どうやら文章をくまなくチェックしていたらしい。

「あ、でも日焼けのリスクの件、どうせなら見てもらえばよかったのに」

「え、誰にですか」

「御子柴さん」

 道元先生の冗談に、亘先生が噎せ返る。

「よしてくださいよ。報告書が辞書みたいになっちゃいますって」

「あはは、ごめんごめん。それで、明日は私たち、何かすることある?」

「いえ、僕の方で進行させてもらうつもりです。お二人には、決議の時に賛成票を投じていただければ」

「はい、了解。……そうだ、いいこと思いついた。私ちょっと抜けるわね」

 そう言うと、道元先生にしては珍しく、慌ただしく立ち上がって職員室を出て行った。何を企んでいるのだろう。


「ま、とりあえず、これを通さないと御子柴さんがまた怒鳴り込んでくるからな。……ところで、問題の方は解決したの? なんか喧嘩があったって聞いたけど」

 私は事の顛末を亘先生に話した。亘先生も道元先生と同じように、大森圭太たちの行動について動揺するような素振りは見せなかった。ただ、御子柴昌の行動についてはさすがに驚いたようで、話を聞いた後はしばらく絶句していた。


「御子柴さんが大森君を突き飛ばしたのか。多分、よほど傷ついたんだろうね。それにしても、お母さんの方は酷いな。子供のことをまったく見ていない」

「美織ちゃん、見ていてとっても可哀想でした。あれじゃ、いつかお母さんのこと、嫌いになっちゃいますよ……」

 このままでは、御子柴親子の関係が破綻してしまう。そんな予感が私の中で渦巻いていた。御子柴美織は、自分の母親をどう思っているのだろう。大森圭太に責められて動揺したということは、薄々母の異常性に気づいているはずだ。


 自分だったら、そんな母親を愛せるだろうか。


「御子柴さんから、少し話を聞いてあげた方がいいかもしれないな」

「え?」

「御子柴さんの家、確かお父さんが単身赴任で自宅にいないって聞いたよ。兄弟もいないし、母親は問題有り。そんな環境で、彼女は一体、何を頼りにすればいいんだい。大森君を突き飛ばしたのも、何かのサインなのかもしれない」

 そうか。彼女には現在、安心して寄りかかれる存在がいないのだ。つまり、私たちがその役割を果たさなければならない、ということだ。


「幸い、彼女には友達が多いから、母親のせいでクラスメイトから孤立するなんてことはないだろうけど、それでも心配だよ」

 確かに、今回の事件でも彼女をかばう児童は多かった。しかしそんな彼らも、いつどのような行動に走るか分からない。事実、私が信じていた児童の何人かは、彼女に対してイジメ紛いのことをしたのだから。


「分かりました。今度、時間がある時に話を聞いてみます。道元先生にも相談して」

「それがいいよ。もし心配なことがあるなら、僕に相談してくれてもいいし」

 この問題について、道元先生はどう考えているのだろう。いつものように、呑気に構えている場合ではないことを、本当に分かっているのだろうか。


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