episode1-1
「娘を、窓際の席なんかに座らせないでほしいんです」
能面のような表情から放たれたその言葉を、私は瞬時に理解することができなかった。ファンデーションを塗りたくった白い肌に映える真っ赤な口紅に圧倒されながらも、私はありのままに疑問を投げかけた。作り笑いを引き攣らせながら、それでも穏やかさを絶やさぬように。
「すみません、御子柴さん、どういうことでしょうか」
「ですから、先日の席替えの件です。なんでも、娘がくじ引きで、窓際の一番後ろの席になったとか」
「ええ、先週の席替えでそう決まりましたが、ええと、それがなにか」
引き攣っているのは何も私の笑顔だけではない。八畳ほどの応接間には緊張の糸がまるで蜂の巣のように張り巡らされている。言わずもがな目の前に座っているこの中年女性、御子柴昌はさしずめ女郎蜘蛛、私は彼女の餌となりかけている名もなき幼虫だ。
御子柴美織の母、御子柴昌が応接間で待っていると教頭から知らせを受けた時から、何となく嫌な予感はしていた。彼女は学校内でも要注意人物とされている、俗にいえばモンスターペアレントで、これまでも幾度となく、学校に理不尽な要求を叩き付けたことがあるそうだ。今年の春に新卒教師としてここにやってきて以来、運良く直接対峙することがなかったのだが、まさか、よりによってこんな日に来るなんて……。
「それが何か、ですって。あなたじゃ話にならないわ。担任の先生を呼んでちょうだい」
絵本に出てくるお妃様のような口調。その視線からは、小学校の教師を娘に仕える奴隷としか思っていない陰険さが伺える。
「ですから、担任の道元先生は出張で、ここにはいないんです」
私も必死に弁明するが、御子柴昌は聞く耳を持とうとしない。
「だからって、昨日今日来た新卒の先生に話を聞いてもらったって時間の無駄です」
私が情けなくも答えに窮していると、それまで話の成り行きを見守っていてくれていた男性教師が助け舟を出してくれた。二年二組の担任を受け持っている、亘先生だ。
「御子柴さん、麻倉先生も美織さんのクラスの副担任です。確かに教師としての力量は及ばない点があるかもしれませんが、そのために僕が同席しているんです。それで御勘弁願えませんか」
終始笑顔で、亘先生が御子柴昌を説得する。過去に一度、御子柴美織の担任をしていたことから、同席してもらっていたのだ。
ある程度キャリアのある男性教師からそう言われ、御子柴昌も口撃を緩めた。
「えっと、それで、窓際の後方の席になってしまったことが、どうして問題なのでしょうか。美織さんは視力検査も問題ないので、後方の席でも問題ないかと……」
「いちばん後ろの席だから問題なのではありません。窓際の席だから問題だと言っているのです」
だからそれはどうしてなんだ、と言いたかったが、あくまでも作り笑いで先を促す。頬の筋肉がぴくぴくしてきた。どうして亘先生は、いつまでもこんな笑顔でいられるのだろう。
「どうして、窓際だといけないんでしょう」
そんなことも分からないのか、という表情を浮かべながら、御子柴昌は声を張り上げた。
「どうしてって、日焼けをしてしまうからに決まっているでしょう!」
御子柴昌の甲高いヒステリックな声が応接間中に反響する。
「あなた、この学校に来てから日が浅いのでしょうけど、うちの美織の将来の夢、ご存知ですか?」
御子柴美織の将来の夢。知っている。というか、この学校の教師で知らないものはいない。
「も、もちろんです。えっと、モデルさん、ですよね」
そう、市立F小学校四年三組、御子柴美織の将来の夢はファッションモデルだ。
私が五年三組の副担任として道元先生について、最初に覚えた児童が御子柴美織だった。宝石のように丸く、キラキラした瞳、細くしなやかな手足、小学生とは思えない華美な服装は、はじめて教壇に立つ身としてはインパクト大だった。といっても決して厭味な児童ではなく、むしろ率先してクラスをいい方向に持って行こうとしてくれる、まさにリーダー的存在だった。芸能界で言えば、おそらく「スター性」というのだろう、皆の注目を集めながらも、周囲の反目を買わない才能を持っていた。
実際、読者モデルとして小学生向けのファッション雑誌に掲載されたこともあるらしい。
そういえばこの御子柴昌も、学校にクレームを入れにきたにしては随分と派手な格好だ。白で固められた高級そうなスーツに、全身スパンコールなんじゃないかと思うほどにきらびやかなアクセサリーが散りばめられている。もしかしたら、御子柴美織のモデルという夢は、それはそのまま御子柴昌の夢なのかもしれない。
「わかっているなら、どうしてうちの娘を窓際の席なんかにするんですか!」
別に私が決めたわけじゃない。公正なるくじ引きの結果だが、今それを言っても聞き入れてもらえるとは思えなかった。
「今までの先生方はちゃんと理解してくれていましたよ。こちらがわざわざ言わなくても、美音が窓際の席になたことなんてなかったんですから」
まさか、単なる偶然だろう。学校側がそんなことに配慮するわけがない。その考えを裏付けるように、亘先生が言った。
「御子柴さん、席替えに関して、私たちがそのように配慮した覚えはありませんよ」
親の仇でも睨みつけるような視線が、今度は亘先生に向けられた。
「でも、体育の時は要望を聞いてくれたじゃないですか」
あのことか、と私は想像する。御子柴美織は、どんな真夏の炎天下だろうが、体育の際には必ず長袖を着用するのだ。秋になってからはそうでもないが、夏場は一人だけ長袖のためにかなり目立っていたことを思い出す。また、球技などの試合形式での授業で応援に回る時には必ず日陰に入り、体育の時間だけ許可された日焼け止めを顔中に塗りたくっていた(本来は授業前につけることのみを許可されているだけだったが、黙認されていたのだ)。これは他の先生に聞いた話だが、以前は衣替えの時期に合わせて長袖か半袖かを決めていたらしいが、数年前に完全自由になったのだそうだ。今の口ぶりからすると、おそらく御子柴昌、またはそれを中心とした父兄より申し立てがあったのだろう。
「それとこれとは話が別です。体操服の袖の件はきちんと会議で決まったことで、しかも全校生徒平等に与えられたルールです。誰か個人を窓際に座らせないといったものとは性質が異なるんですよ」
高ぶった感情に水をかけるような冷静な対応。自分が担任をしていた時にも同じようなことがあったのだろう、亘先生の彼女に対する姿勢はこなれたものがあった。
「でも、先生、日焼け止めは体育があるとき以外、持ち込みができないじゃない。それで窓際の席に座らせるなんて、あんまりです」
そんなものはあってないようなルールだということは、御子柴親子が誰よりもよく知っているはずだ。体育の授業中のみならず、休み時間などに鞄から取り出して使用している姿を目撃したのは一度や二度ではない。
「あ、あの、確かに日焼けは肌に悪いですけど、体にいい部分もあるんですよ」
雑誌かなにかで、日光を浴びることで食べ物からは摂取しにくいビタミンDを生成できるという話を読んだことがある。そのことを説明しようと思い口を開いた瞬間、御子柴昌の表情が般若の形相に変わり、怒りをぶちまける勢いで捲し立ててきた。
「そんなことはあなたなんかに言われなくても私だって知っています!ですが、それの何倍も、デメリットの方が大きいに決まっているでしょう!」
それから三十分以上、御子柴昌は日光を浴びることのデメリットを力説した。皮膚がんの発症リスク、しわ、シミの発生、さらには白内障のリスクまでを並び立たせ、私たちを閉口させた。
結局、通常の座学でも日焼け止めの使用を許可する、という議題を会議で審議する、という提案を亘先生がして、御子柴昌はようやく帰って行った。御子柴昌を昇降口まで送り届けた後、職員室に戻った私は崩れるように自分の椅子にへたり込んだ。