三話
電車が再び出発すると、間もなく僕の降りる駅に着いた。僕が家に着いた頃には、七時を少し回っていた。
玄関で靴を脱ぎ、リビングに向かう。
「ただいま」
僕はリビングにいた母に言った。母はテーブルに料理を並べている。
「おかえり。ご飯食できたよ」
母は僕にそう言うと、そのまま妹を呼びに二階に上がっていった。
しばらくして妹が気だるそうに二階から降りてくると、僕たちは三人でご飯を食べ始める。テレビを見ながら話していると、いつの間にか父が帰宅してその輪に加わる。これがいつもの食事の風景だ。
食事を終えると父はお風呂に、母は台所に、そして妹は二階にと、みんなばらばらに散っていった。
僕はリビングのソファーに座り、テレビをつけた。難易度の高い問題ばかり出すクイズ番組が放送されている。さあ答えの発表だ、というところでいきなりCMが流れ始めた。いつもなら僕はCMになるとすぐにチャンネルを変えるのだが、この日はなぜかそのまま見続けた。たまたま、とある予備校のCMが目に入る。僕はテレビを消し、ソファーに寝転がった。そして軽く目を瞑り、またあのことを考える。
なんで、僕は医学部に落ちてしまったんだろう。
受かるはずだった。というより、落ちる要素はどこにもなかった。高校での成績は三年間を通してずっとトップだったし、一回も学校を休んだことなんてなかった。だからクラスの誰もが、一人分の枠しかない医学部の推薦入試には僕が選ばれるのだろうと思っていた。
でも、実際に選ばれたのはアイツだった。僕はアイツのことをずっと親友だと思っていた。だから勉強が苦手なアイツに、よく勉強を教えてやった。徹夜で教えたことだってある。
それだけに、なぜか僕はアイツを許すことができなかった。アイツが選ばれたと知ったとき、裏切られたとさえ感じた。
僕はまた、ため息を吐く。今さら恨んだって仕方がない。もうどうにもならないことだ。気持ちの整理がついていないのは僕の方じゃないか。僕は選ばれなかった。ただ、それだけのこと。アイツには、俺よりも医師になる素質があったってだけだ。
その夜、僕はなかなか寝付けずにいた。本でも読もうと思い部屋の明かりをつけると、アイツとの写真が入ったフォトフレームが目に入る。別に捨ててしまってもよかったのだが、僕はそうすることができなかった。忘れてはいけない、逃げてはいけない、そんな気がしたからだ。
本当はわかってる。許せないのはアイツじゃない、僕自身だ。僕が推薦入試に選ばれなかったことを先生に告げられたとき、先生は僕なら一般入試でも医学部を狙えると言ってくれた。父と母も、もし落ちてもまた来年頑張ればいいと言ってくれた。
でも僕はそうしなかった。落ちるのが怖かったからだ。浪人するのが怖かったからだ。まだ間に合うかもしれないという状況で、僕は逃げだした。そしてもうどうしようもなくなってしまってから、僕は後悔ばっかりしているんだ。
僕はまたため息を吐く。そしてフォトフレームに向かって呟いた。
「やっぱり、拓未が医学部に行く運命やったと思う」
その週の土曜日、僕と島谷君と神崎さんは大学から少し離れたところにある大型ショッピングモールにやって来た。来月から始まる実験の授業に必要な物を買うためだ。必要な物は意外とすぐに揃ったのだが、途中で神崎さんが服も買いたいと言い出したため、僕と島谷君はフードコーナーで時間を潰している。
「ここって、修二君の家から近いんだよね?」
「え、ああ。うん。」
島谷君の言うとおり、ここは僕の家からなら大学に行くより近い。
「じゃあ修二君がY大学を選んだのって、やっぱり家から近いから?」
島谷君は続けて尋ねる。そういえば、この前は僕のことは話さなかったな。
「ううん、違うよ。医学部に行きたかったんやけど落ちちゃってね」
「そう……なんだ」
島谷君の声が震える。まずいことを聞いてしまった、とでも思っているんだろう。僕は笑いながら、「もう昔のことやから」と言っておいた。
神崎さんは一時間以上もどの服にするか悩み続けたあげく、結局どの服も買わなかった。これほど優柔不断な人がいるんだな、と僕は呆れてしまう。
僕たちはショッピングモールを後にし、駅に向かった。
「今日は楽しかったね」
神崎さんは嬉しそうな顔をしながら歩いている。一時間も悩むのがそんなに楽しかったのだろうか。僕なら絶対に時間を無駄にしたと思うだろう。女心は、難しい。
交差点の手前に差し掛かったとき、僕たちは一人の男性とすれ違った。その男性はスーツの上からもわかるほど腹が出ており、いかにも中年のオッチャンといった感じだ。僕たちが通り過ぎた直後、その男性は、「うわー!」といきなり叫び声をあげた。
僕たちが驚いて振り返ると、男性は鈍い音とともにうつ伏せに倒れこんだ。身体は痙攣し、口からは泡が噴き出している。
きゃー、っと神崎さんが金切り声をあげる。僕は周囲を見回したが、僕たちの他には誰もいなかった。いったいどうすればいいんだろう。助けを呼ぶ? 救急車を呼ぶ? だめだ、そんなことをしている間にこの人は死んでしまう。
「島谷君!」
気が付くと僕は叫んでいた。島谷君も「うん」と言い、二人で男性を仰向けにする。
僕は耳を男性の鼻のあたりに近づけた。やっぱり呼吸をする音は聞こえない。僕は男性の胸に手を当てる。そして二か月くらい前に教習所で習った心肺蘇生法を思い出す。落ちつけ。確か、もしもしカメよのタイミングでやればよかったはずだ。
「島谷君、救急車呼んで!」
僕はそう叫んだ後、心臓マッサージを開始した。歌を思い出しながら、両腕に力を込める。頑張れ、頑張れ、と心の中で唱える。僕はその言葉が男性に向けてなのか、それとも自分に向けてなのかさえわからなくなっていた。
もうずいぶん長い間心臓マッサージを続けているような気がする。救急車はまだ来ない。だめだ、これだけじゃこの人は救えない。なにかが足りない。僕は心臓マッサージを続けながら、教習所で習ったことを再び思い出す。そうだ、AEDだ。でも、そんなのどこにある? 警察? 学校? 病院? 病院、そうだ病院だ。確かこの近くには瀬屋内科という病院があったはずだ。神崎さんもこのあたりに住んでるから、もしかしたら知っているかもしれない。
「神崎さん! 瀬屋内科って知ってる?」
僕は男性の顔を見たまま叫んだ。
「え、あ、うん。行ったことあるから」
「すぐに先生を呼んできて!」
しばらくすると、神崎さんは先生を連れてきた。神崎さんは息を切らしている。
「よく頑張った。もう大丈夫だ」
先生が僕の頭をなでる。その瞬間、僕は全身の力が抜けたような気がした。
「みんな、危ないから離れて!」
先生は素早くAEDを男性に取り付ける。僕たちは言われた通り少し離れた。先生がボタンを押すと、男性の身体は電気ショックの影響で少し浮き上がった。それから先生はまた心臓マッサージを始める。
何分か経った後、ようやく救急車が到着した。中から担架を持った隊員の人が二人出てくる。先生は隊員の人に状況を簡単に説明した。
「今日の診察はもう全部終わったから、救急車には私が同乗します」
先生は僕たちに言うと、担架で運ばれる男性に「頑張れ」と声をかけながら救急車に向かって歩いていく。僕たちは「よろしくお願いします」と頭を下げた。
サイレンを鳴らして走っていく救急車を、僕たちは見えなくなるまでじっと見つめた。
「修二君、すごかったよ」
島谷君は僕の肩に手を乗せて言った。
「まだ間に合うかもしれんって、ここで逃げたら絶対後悔するって」
僕はそう、思ったんだ。




