二話
島谷君が駐輪場に自転車を停めた後、僕たちはエントランスへと続くガラス張りの扉の前に立った。扉は自動で開き、中から涼しいエアコンの風が吹いてくる。汗はスッと引いた。
「そうだ。今エレベーターが故障してるらしいから、階段で行くよ」
島谷君にそう言われた直後、なぜかさっき引いたはずの汗が再び戻ってきた。
島谷君の後に続き、三階まで階段を上る。家の前まで来ると、島谷君は鍵を開けてドアを開いた。
「お邪魔しまあす」
神崎さんが真っ先に部屋に入る。僕と島谷君は肩をすくめて笑った。
玄関からは細長い廊下が続いている。途中左側にはキッチンがあり、右側には洗面所に続く木製のドアがある。廊下の突き当たりにもドアがあり、開けるとリビングが広がっている。
リビングはとてもシンプルだ。手前にはシックな木製の勉強机が、そして中央には大きな丸いテーブルがある。そしてその奥には一人で見るには大きすぎるくらいのテレビと、六段もある立派な本棚が置かれている。
僕と神崎さんはいつもこの丸いテーブルでレポートを書く。
「では坂宮先生、よろしくお願いします!」
「はいはい」
僕はいつも通り神崎さんの向かいに座り、頭の中で考えた文章を読み上げる。それを神崎さんは一字一句レポート用紙に書き留める。途中で僕がもっといい文章を思いつくと、神崎さんに言って書き直してもらう。島谷君はたまに僕と一緒になって文章を考えたりするが、たいていは勉強机で本を読んでいる。だから、レポートはほとんど全部僕が書いていると言ってもいい。
自分のレポートと内容がかぶらないようにするのは結構神経を使う。それに神崎さんは書くスピードが遅く、その上よく書き間違えたりするもんだから、僕はだんだんイライラしてしまう。そもそも勉強を教えるというのは、それだけ根気のいる仕事だ。僕がこれほど熱心に勉強を教えてあげた人は今までで二人しかいない。一人が神崎さん、そしてもう一人がアイツだ。僕はため息を吐いた。また、アイツのことを思い出してしまった。
今回のレポートは必要な文字数が多く、なかなか終わらない。ふと壁にかかっている時計を見ると、もう四時を過ぎていた。
「そろそろ休憩にしない?」
島谷君がコーヒーとチョコレート菓子を持ってきてくれた。神崎さんは素早くテーブルの上を片付ける。それから僕たち三人はしばらく無言のままコーヒーを啜った。
突然、神崎さんの携帯電話が鳴る。彼女は母親からだと言い、リビングから出て行った。
「神崎さん、今度のテスト大丈夫なんかな」
僕は呟くように言った。
「まあ、なんとかなるんじゃない? 修二君が教えてあげれば」
島谷君は意地悪そうに笑う。白い歯が輝いた。
「全部僕が教えるんかよ。島谷君も勉強得意なんやから、ちょっと教えたったら?」
「いやいや、僕が得意なのは数学と物理だけだからね」
島谷君が数学と物理が得意なことはクラスでも有名だ。僕も時々教えてもらう。そこにある本棚だって、数学や物理関係の本で埋め尽くされている。
「そういえばさ、なんで島谷君は東京からわざわざ大阪まで来たん? 東京やったらY大学よりもっといい大学があると思うんやけど」
僕は前からこのことを聞いてみたいと思っていた。工学部なら他の大学にもあるし、学科が珍しいわけでも、Y大学が特別すごいというわけでもない。
もしかしたら島谷君も僕と同じように、本当は他に行きたいところがあったんじゃないだろうか。いつしか僕はそんなふうに思うようになった。今までこんなことを聞くのもどうかと思ってためらってきた。でも、仮にもしそうだったとしても、島谷君もさすがに気持ちの整理はついているだろう。それに、お互い叶わなかった夢をぶっちゃけた方が心も晴れる。いわゆる、虚心坦懐ってやつだ。
けれど、島谷君の答えは僕の予想とは全く違うものだった。
「うーん。一言では難しいんだけど……。使命というか、ちょっとやらなきゃいけないことがあってね」
島谷君はそう言うと深く考え込み始めた。僕は少し面食らってしまった。まさか、使命なんて言葉が出てくるとは。
「やらなあかんことって、なんなん?」
他人のプライベートにはあまり突っ込まない方がいいのはわかっているけど、あまりに意外だったから、僕は興味のあまり聞いてしまった。
島谷君は俯いたまま黙っていたが、やがてゆっくりと顔をあげ、僕の目を見た。
「そこまで聞かれたから言うけど、変な奴だと思わないでね。実は僕、ある人の運命を変えてしまった。今はその償いをしにここまで来たんだ」
島谷君の声は少し震えている。そんなに変な奴だと思われるのが嫌なんだろうか。それとも、何かに怯えているんだろうか。
「いや、別に変とかではないけど」
僕はそれだけしか言えなかった。震えには気付いていないふりをした。
「まあ、そんなに大したことじゃないんだけどね」
島谷君はまた俯いてしまった。これ以上は聞くべきではないような気がする。とにかく、島谷君はこの大学が滑り止めではなかったことだけはわかった。
神崎さんが戻ってきたので、僕たちは勉強を再開した。レポートは困難を極めたが、なんとか日が暮れる前には終えることができた。
「本当にみなさまのおかげです。ありがとうございました!」
玄関先で、神崎さんは大声でそう言いながら頭を下げる。島谷君は、「いやいや、僕は場所を貸しただけだよ」と言って左手を横に振った。
夕焼けと暗闇が混ざり合う空の下を、僕と神崎さんは並んで歩いた。線路沿いを進み、右手に見える公園やコンビニを過ぎると、五分もかからず駅に着いた。ここは大学の最寄り駅からは離れているから、他の学生はほとんどいない。
構内に入ると、ちょうど電車が来たところだった。僕たちは電車に乗り込むと、一番端の空席に座った。電車が発車してからしばらくすると、島谷君のマンションが見えた。
「なあ神崎さん、島谷君ってどう思う?」
「え? どういうこと?」
「いや、別にそんな深い意味はないんやけど」
なんで突然こんなことを聞いてしまったのか、僕にもよくわからない。さっきの島谷君との会話が心に残っていたんだろうか。
「うーん。よくわかんないけど、住んでる次元が違うなって感じたことはあるよ」
「それは……数学とか物理が飛び抜けてるって意味で?」
「それもあると思うんだけど。まあ、女の勘ってやつかな」
住んでる次元が違う、か。確かに、償いのために大学に通う人なんてそうそういないだろう。
僕たちが話している間に、電車は神崎さんの降りる駅に着いた。神崎さんはもう一度お礼を言うと、電車から降りていった。神崎さんも僕も実家から大学に通っている。しかも、実家はわりと近所だ。




