一話
自分のため息ほど、ため息を吐かせるものはない。考えても仕方がないことほど、考えずにはいられない。僕は気をそらすため、リビングのソファーに座ってテレビをつける。難易度の高い問題ばかり出すクイズ番組だ。さあ答えの発表だ、というところでいきなりCMが流れ始める。いつもなら僕はCMになるとすぐにチャンネルを変えるのだが、この日はなぜかそのまま見続けていた。とある予備校のCMが目に入ったのは、まさにその時だった。なんで見たくないものほど勝手に視界に入ってくるんだろう。このどこかの予備校の宣伝文句は、おそらく僕とは全く異なる意味合いで使っているんだろうが、それは今、僕が一番考えたくない言葉だった。
『どうして、私が医学部に』
僕はテレビを消し、ソファーに寝転がった。そしてまた考える。なんで、僕は医学部に落ちてしまったんだろう。
朝、僕はいつもの時間にいつもの電車に乗る。そして一番端の空席に座ると、すぐにミュージックプレイヤーを起動させる。プレイリストに入れてある三曲がちょうど再生し終わったとき、それが僕の電車を降りる合図となる。駅を出てから徒歩十分、僕はY大学の門をくぐった。
僕はいつものように後ろの方の真ん中あたりの席に座った。授業まであと十五分だ。僕は教科書と筆箱、それとノートを机に並べる。そして教科書をパラパラとめくり、今日の授業の予習を始めた。
「おはよう、修二君。相変わらず偉いね」
島谷君が僕の隣に腰を下ろす。島谷君は僕と同じ工学部の学生で、入学した当初から僕たちが同じ授業を受けるときには、こうして必ず隣同士に座っている。
「おはよう。もうすぐテストやし、ちょっとずつ勉強しとこかなって思ってんねん」
「修二君は気が早すぎる。テストはまだ一か月も先なんだよ」
島谷君はまだ一か月もあるなんて言うけれど、僕にしてみればもう一か月しかない。テスト勉強は早くしすぎてもしすぎることはないと思う。
九時になると、先生が教室に入ってきた。先生は教科書を片手に、いきなり黒板に問題を書き始める。英文の括弧の中に入る言葉を答えろという問題だ。簡単すぎてふざけているとしか思えない。僕は島谷君と顔を見合わせ、お互いにピースをし、そして頷きあう。
僕は退屈になり、周囲を見回した。みんな、答えを探そうと必死に教科書をめくっている。僕は呆れた。こんなの知ってて当然だ。みんな、四月から今までいったい何を聞いてきたんだろう。
そんなことを思っていると、後ろの扉から誰かがコソコソと教室に入ってくる音がする。その人の歩く音はだんだん大きくなり、僕の後ろで止まった。そしてその人は僕の真後ろの席に座る。いつものことだ。振り返らずとも、誰だかなんてわかりきっている。そして、なんでいつも僕の後ろの席に座るのかも。いわゆる、単純明快ってやつだ。
「じゃあ、遅れてきた神崎さん、この問題答えて」
先生はチョークを持った手で神崎さんを指す。後ろで慌てて席を立つ音が響く。
「はい! えっと、えっと」
神崎さんはなかなか答えない。僕は前を向いたまま、後ろに向かって小さくピースをした。
「えっと……二番、ですか?」
「はい、正解です。座ってください」
そういって先生は本題の講義に移った。後ろで、へなへなと座り込む音が聞こえた。
休み時間、神崎さんは僕と島谷君の前にやってきた。
「さっきは本っ当にありがとう!」
神崎さんは僕たちに頭を下げる。これも、いつものことだ。
「いやいや、教えたのは修二君だよ。僕は何もしてない」
島谷君は左手を横に振った。
「そっか。坂宮くぅん、ありがとう」
神崎さんは僕の前で手を合わせる。
「別にええよ。それより神崎さん、明日提出のレポートはもうできてんの?」
僕が尋ねると、神崎さんの顔は真っ青になった。そして、またまた僕の前で手を合わせる。僕は島谷君の方を向き、肩をすくめた。島谷君も、同じようにする。
「島谷君、今日家いける?」
僕が尋ねると、島谷君は「もちろん」と言って左手でOKサインを作った。
「じゃあ、三時くらいに集まろうか」
島谷君がそう言うと、神崎さんの顔は急にパッと明るくなった。そして鼻歌を歌いながら、また僕の後ろの席に着く。神崎さんは本当にわかりやすい。いわゆる、天衣無縫ってやつだ。
この日の授業が全て終わり、僕と島谷君は大学を出た。
レポートの締め切りが近くなると、神崎さんはいつも僕たちを当てにする。レポートのための勉強会を開いてほしい、と彼女が初めて頼んできたのは四月の終わり頃だ。確か、環境問題について英語で書けとかいうやつだった。思えば、この三人が仲良くなったのもそのあたりからだった気がする。まだあの頃から一か月ほどしか経っていないというのに、勉強会はもう十数回も行われている。初めのうちは大学の空き教室とか、近くの喫茶店とかでやっていたのだが、いつの間にか島谷君が一人暮らしをしているマンションで集まるようになった。
神崎さんは、男子がそのほとんどを占める工学部において、アイドル的な地位を確立している。数少ない女子学生の中でも、一際ルックスがいい。だからそんな彼女が最初僕に近づいてきたとき、正直僕は彼女のことを疑った。なにか裏があるかもしれない、と。でも、今となってはそんな昔の自分を殴ってやりたいくらいだ。
神崎さんは島谷君のマンションまでバスで移動している。島谷君は自転車で通学しているが、勉強会のときはいつも自転車を押して僕と一緒に歩く。それはまあ、僕がバス代をケチって歩く所為なんだけれど。
五月も終わりかけともなると、太陽は輝きを増し、歩道にくっきりとした日向と日陰のコントラストを作り上げる。太陽からの放射熱をこれでもかと吸収したアスファルトは、今度はその熱を空気中にじわりじわりと溶け込ませる。僕と島谷君が歩いているのは午後二時過ぎ、つまり空気に取り込まれる熱量が最大限に達するときだ。
「いくらなんでも暑すぎるやろ」
僕はだらだらと流れる汗をハンカチでぬぐいながら、バス代をケチったことを後悔した。いわゆる、自業自得ってやつだ。
「確かに、暑いね」
島谷君はそう言うものの、スポーツ刈りのその頭にはほとんど汗が見られない。汗かきの僕からしてみれば、とても羨ましい。羨ましいのはそれだけじゃない。島谷君は長身だし、体格もいい。なのに今までスポーツをしたことがないっていうんだから、宝の持ち腐れだ。
大学を出てから二十分ほど歩き続け、ようやく島谷君のマンションに到着した。
「もう、二人とも遅い」
神崎さんは待ちくたびれた様子で、ハンカチで顔を扇いでいた。




