三話
次の日、授業が終わると、俺と亮介はグラウンドに向かった。グラウンドは大学の西側にある。俺たちは普段東側の校舎で授業を受けているから、端から端まで移動しないといけない。十分ほど歩いて、ようやくグラウンドが見えてきた。近づくにつれ、ボールが蹴られる音や激しい声が聞こえてくる。運動部には入らないと決めているのに、俺はボールを蹴りたくて脚がウズウズしてくるのを感じた。
グラウンドの前では、マネージャーらしき女の人たちが、それぞれの部活の名前が書かれたプラカードを掲げて立っていた。ラグビー、テニス、陸上。俺たちはサッカー部のプラカードを見つけると、駆け足で向かった。
「あ、サッカー部の見学に来てくれたんですか?」
プラカードを持ったお姉さんは、素敵な笑顔と綺麗な声で俺たちに話しかけてきた。
「あ、はい。見学させていただきたいんですけど」
俺がそう答えると、お姉さんはより一層素敵な笑顔になった。
「ありがとー! じゃあ、あっちで練習やってるから、案内するね」
俺たちはお姉さんの後に続いて、グラウンドの奥に移動する。コート脇のベンチがあるところまでやってくると、お姉さんは俺たちにここで待つよう指示し、部長を呼びに行った。
残された俺たちはベンチには座らず、立ったまま練習風景を眺める。久しぶりに見る光景に、俺の脚はますますウズウズした。ふと横を見ると、俺とは対照的に亮介はガチガチに固まっている。そういえば、亮介はさっきから一言も喋らない。一体どうしたんだろうと思っていると、亮介はおもむろに俺の方を向き、口を開いた。
「なあ、拓未」
「ん?」
「俺さ、あのお姉さんに恋しちゃったかも」
「お、おう」
いきなりそんなことを告白されても返事に困る。大体、告白なら本人にしてくれ。俺は今、サッカー部に入りたい気持ちと真剣に戦っているんだ。俺は勉強のためにも文化部に入らないといけない。でも、サッカーがしたい。まるで、天使と悪魔が頭の上で囁きあっているようだ。つまるところ、非常に悩ましい。
「見学に来てくれたんやんね?」
いきなり大きな声が聞こえたので、俺たちはびっくりして顔を前に戻した。ユニフォームを着た大柄の男が俺たちを見下ろしている。隣にはお姉さんが立っていたから、俺はこの人が部長なんだとすぐに気付いた。
「そうです。今日はよろしくお願いします」
俺はそう言ってから一礼した。亮介も慌てて頭を下げる。
「そんな気ぃ使わんでもええよ。二人は友だちなん?」
「はい。三週間くらい前からですけどね」
俺がそういうと、部長は大声で笑った。大学に入ってから関西弁の人と話したのは初めてだったから、なんだか懐かしい。
「高校とかで、なんかスポーツやってた?」
「はい! 俺高校のときサッカー部だったんです。全然大会とか出るような強さじゃなかったんですけど。あ、ちなみに、こいつは帰宅部だったらしいです」
俺は、隣で固まったままの亮介の分までまとめて自己紹介した。部長はメンバーを集め、俺たちのことを紹介し、そして最後にメンバーについて一人ずつ簡単に説明した。部長は賀上さんという名前だった。さっきは顔を見上げる形だったから気付かなかったが、こうして離れて見ると、ものすごく端正な顔立ちをしているのがわかる。
「拓未君と亮介君、よかったらちょっとボール蹴ってみいひん? 靴貸すで」
「いいんですか? さっきからずっとやりたいと思ってたんです!」
俺たちは靴を借り、コートに入った。芝を踏んだ瞬間、興奮が全身に伝わる。やっぱりこの感覚はたまらない。体験練習の内容は置かれた三角コーンをめがけてボールを蹴るという軽いものだったが、それでも俺は十分楽しんだ。亮介も緊張が解けたのか、はしゃいでボールを蹴っていた。
「どうやった? なかなか面白い部員ばっかりやろ?」
練習が終わり、ベンチに座って靴を履きかえていると、賀上さんは俺の隣に腰を下ろした。
「はい! 今日は本当に楽しかったです。練習見せてもらって、すごくレベル高いなって感じました」
俺はありのままの感想を述べた。シュートやパス回し、ポジショニングまで、どれも洗練されていて、とても美しいと思った。
「おお、それは嬉しいな。俺も含めてなんやけど、大学に入ってからサッカー始めましたって子がほとんどなんやで」
「え、そうなんですか?!」
賀上さんの言葉に俺は驚いた。みんな、とても大学から始めたとは思えない身のこなしだった。賀上さんでさえサッカーを始めたのが四年前だなんてどうしても信じられない。俺は、どんな練習をしているのかもっと知りたくなった。
「よかったらさ、今度も練習しにおいでよ。次は明後日やから」
賀上さんはまるで俺の心を見通しているかのようだ。
「はい、来ます! でも明後日なんですか? 毎日練習あるのかと思ってたんですけど」
「ああ、医学部は勉強大変やからね。こうやって医学部生だけで部活作って、練習時間を少なくしてるねん。基本的には練習は週三回やで」
賀上さんの言葉に、俺はまたまた驚かさる。
「週三回の練習でここまで上達できるのって、やっぱり賀上さんの指導が上手いからですよね」
賀上さんは部長のカガミですね、と付け加えようかと思ったが、止めた。
「拓未君って、なかなか面白いな。そうや、二人とも、この後焼肉行くんやけど、来れる?」
俺は、いつの間にか隣にいた亮介と一緒に首を大きく縦に振った。
俺たちが大学近くの焼肉屋に着くころには、もうあたりはすっかり暗くなっていた。店内はとても広く、サッカー部以外にもここを利用している部が見えた。俺は先輩たちに言われるまま真ん中の席に座った。隣には賀上さんが座っている。亮介は俺とは違うテーブルの、やはり真ん中あたりの席にいた。ちゃっかりお姉さんの隣を確保している。
「拓未君、何飲む? ジュースでもいいし、お酒でもいいよ」
賀上さんは俺の前にメニューを置いた。
「すみません、俺が先に見ちゃって。どうぞ先輩方から」
俺が言うと、賀上さんは大きな声で笑った。他の先輩もつられて笑う。
「そんな気ぃ使わんでええって。今日は見学来てくれた二人が主役なんやから」
賀上さんは俺の肩を二回ほど叩いた。
「俺が一年だったときなんて、全然気遣いできてなかったっすよね」
先輩の一人が懐かしむように賀上さんに言う。
「お前は今も全然できてへんけどな」
賀上さんが言うと、また笑いが起こった。
「拓未君は、まだお酒飲んだこと無いの?」
さっきの先輩が尋ねてくる。
「そうですね。でも飲んでみたいとは思ってました」
「お、じゃあデビューしちゃいますか! でも、無理のない程度にしとけよ。俺みたいにゲロるから」
ゲロる。先輩のこの言葉を聞いた瞬間、俺はなぜか反射的に『ゲロゲロリ』と呟いてしまいそうになったが、止めた。
「じゃあ俺、レモンサワー頼んでもいいですか?」
俺の言葉に、先輩たちは「いいねいいね」と口を揃えた。
注文が済み、やがて全員分の飲み物がテーブルに並べられると、賀上さんの乾杯の音頭とともに飲み会が始まった。先輩が肉を焼いてくれるので、俺は申し訳なさそうな顔をしながらどんどん肉を食べた。初めて飲むお酒はとても新鮮だった。鼻に抜けるアルコールの匂いが何とも心地よく、一杯目を飲み終えたときには、俺はもうすっかり上機嫌になっていた。確か、好きな漫画の話とサッカーの話で、賀上さんと大いに盛り上がっていたところまでは覚えている。
ここから先は後日亮介から聞かされた話なんだが、あの後俺は賀上さんと肩を組んで一緒にアニメソングを歌っていたらしい。そして飲み会が終わり店の前で締めの挨拶が行われたとき、賀上さんが「サッカー部に入ってくれるかな?」と言うと、俺は一人「いいとも!」と拳を天高く突き上げていた……らしい。




