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大学生活  作者: 彼樹成
四月
1/6

一話

 自分のため息ほど、ため息を吐かせるものはない。考えても仕方がないことほど、考えずにはいられない。俺は気分を紛らわせようと、ベッドに寝転がったまま、携帯で適当にニュースサイトを開いた。何か面白そうな記事はないかと画面をスクロールしていると、画面の下の広告バナーが目に入る。なぜ見たくないものほど勝手に視界に入ってくるんだろう。このどこかの予備校の宣伝文句は、おそらく俺とは全く異なる意味合いで使っているんだろうが、それは今、俺が一番考えたくない言葉だった。

『どうして、私が医学部に』

 俺は携帯を放り投げ、手を頭の後ろで組んだ。そしてまた考える。なんで、俺は医学部なんかに受かってしまったんだろう。


 ベッドの上で目を瞑ったまま、どこかに携帯がないか手探りで探す。昨日は確か携帯をいじっている途中で眠ってしまったはずだ。案の定、携帯は俺の右大腿付近に転がっていた。拾って電源ボタンを押し、目の前まで持ってきて俺はようやく目を開けた。画面に映し出された時計はもう八時半を回っている。

 俺は慌てて学校に行く支度を始めた。歯を磨き、髭を剃り、パンを齧り、とりあえず一通りの身支度ができた頃には、いつの間にか八時四十五分になっていた。俺は机の上のノートと筆箱、それと一冊の教科書を鞄に詰め込み、急いでアパートを出た。


 四月も終わりかけとなると、春の陽気は夏の気配にかき消され、植物と昆虫だけが心を躍らせている。俺はアスファルトを覆う桜の絨毯の上を自転車で走り抜ける。確かに追い風が吹いているはずなのに、なぜか学校に向かう速度は一向に上がらない。まるで学校から強い向かい風が吹いてきて、俺のところでぶつかり合っているかのようだ。つまるところ、あまり学校に行く気がしない。それでもチラと時計を見ては自転車を漕ぎ、X大学の門をくぐり抜けた。


 なんとか九時五分前に教室に入ることができたものの、まだエアコンをつけるには早いこの時期の教室の温度は、自転車通学をする者にとっては厳しすぎる。まるで、温室効果ガスに晒された地球のようだ。つまるところ、非常に暑い。俺はいつものように奥の窓際の席に向かう。

「またギリギリだな、拓未。汗もすごいし」

 亮介は呆れたように笑いながら、自分の荷物を椅子から退けた。亮介とは入学して最初の授業の時に隣同士になり、それ以来俺は毎日こうして亮介に隣の席を確保してもらっている。

「うぃーっす。目が覚めたのが八時半だったからね」

 俺は服の袖で汗を拭いながら、空けてもらった席に座った。

「牧本君おはよー」

 俺が席に着くや否や、後ろの席から真紀ちゃんが声をかけてきた。真紀ちゃんは毎回俺のすぐ後ろの席で授業を受けている。

「うぃーっす」

 俺はいつもの調子で返事をした。


 九時になり、先生が講義室に入ってきた。先生は実験用の白衣を着ており、七三分けに黒縁の眼鏡と、いかにも真面目そうな雰囲気を身に纏っている。先生は慣れた手つきでパソコンをプロジェクターに繋げると、パワーポイントを立ち上げて授業を始めた。

「では、今日は昨日の続きで、電子伝達系のところから始めます」

 先生はスクリーンに映し出されたミトコンドリアの写真をポインターで指しながら話している。俺はまた、ため息を吐いてしまう。医学部の授業が始まってからというもの、俺は全く授業についていけていない。授業の内容はさっぱりわからないし、そのうえものすごいスピードで進んでいく。まるで徒歩で車と競走しているかのようだ。つまるところ、差は広がるばかりだ。

 隣をチラッと見ると、亮介は何か黙々とノートを取っている。後ろを振り向くと、真紀ちゃんはボーっと前のスクリーンを眺めていたが、俺の視線に気付くと、『真面目に授業を聞け』と言わんばかりに眉をひそめて人差し指をスクリーンの方に向けてツンツンした。俺は仕方なく前に向き直り、そのまま一時間、講義を余すところなく聞き流した。


 休み時間になると、さっきの授業の疲れが一気に押し寄せてくる。

「なあ、亮介。俺もう全然わかんねえよ」

 俺は机に突っ伏したまま亮介に愚痴った。

「いやいや、まだ全然いけるだろ。そんなに難しいところじゃないって。まだ高校生物の範囲だからさ、高校の参考書とか見ろよ」

「俺、高校のとき物理選択だったんだよ」

「まあ、大学なんて入りさえすれば何とかなるって」

 亮介は俺の肩を二度叩いた後、俺と真紀ちゃんから出席カードを回収して教卓へ提出しに行った。

「ねえ、牧本君。私のでよければ生物の参考書、あげよっか?」

 真紀ちゃんが俺の背中を人差し指でツンツンする。

「マジで!? サンキュー!」

 俺は後ろを向くと同時に、精一杯声のトーンを上げて言った。

「牧本君、授業わからなかったら先生に聞きに行った方がいいよ」

「うん。でも俺、自分が何をわかってないのすらわかんないんだよね」

「それは……ちょっとヤバいかもね」

 自分でも気付いてはいるが、真紀ちゃんにそうハッキリ言われてしまうとさすがに凹む。事実、昨日も寝る前に少しだけでも勉強しようとはしたのだが、何から始めてよいものかわからず、結局ノートを開いただけで終わってしまった。


 次の一般教養の授業でも、俺は周囲との差をひしひしと感じてしまう。

「では、これからの日本の世界における在り方について、考えたことを書いてください。出席カードの裏に四百字程度で。書いてないと出席にはしません」

 授業が残り十五分くらいになると、先生は本日の課題というものを出す。講義の内容をもとにして自分が考えたことを、授業時間が終わるまでに書いて提出しなければならない。

 俺は何度も講義プリントを見返したが、何を書けばいいのか全く以てわからない。出席カードに『牧本拓未』と書いて以降、俺はシャーペンを持ったまま固まっている。時間だけが刻一刻と過ぎてゆく。周りのカリカリとシャーペンを動かす音が、俺をひどく焦らせた。

「書けた人から休み時間にしてください」

 先生の呼びかけで、みんな一斉に席を立ってぞろぞろとカードを提出しに行く。その様子を眺めていると、隣の亮介もペンを置き、腰を上げた。

「じゃ、先に食堂行って席取っとくわ」

 亮介は鞄に荷物を詰めながら小声で言った。

「了解! サンキュー」

 俺は左手を額の高さまで挙げ、必死に笑顔を作って答える。亮介は小さく手を振り、教室を出て行った。

 俺は後ろに首を捻ったが、真紀ちゃんはいつの間にかいなくなっていた。あたりを見回すと、教室には俺を含めて四人しかいなかった。でも俺を除く三人はみんな真面目そうで、書くのに困っているというより、むしろ一度書き出したら止まらなくなって困っているという様子だ。俺はまた、ため息を吐いてしまう。

 そういえば、先週もこんな感じだった。この前の課題は確か、『医師を志した理由』だったか。もう何を書いたのか全然思い出せない。どうせ本か漫画かなんかを読んで憧れたとか、適当なことを書いたんだろう。

 結局、授業時間を五分延長してもらったが二百字しか書けなかった。先生がそれで妥協してくれたので、俺は何とか課題を終えることができた。今は焦りから解放されて少し胸が軽くなったものの、来週も再来週もまたこの課題に苦しめられるのだろうと思うと胸が詰まる。

「ありがとうございました」

 俺は先生に軽く会釈をして、急いで食堂に向かった。

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