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第9話

 夏祭り初日。


 シリア一座は開放された広いカロン邸の庭の一角に場所を借り、夕方から始まる祭りに備えた。


「とりあえず、見た限りではイリスの敵になりそうな有能な舞手はいないみたいね」


 昼から街に偵察に出ていたシリアは戻るなりそう言い放った。


「ねえ、スカートの裾汚れているよ」


 ナナが指差したところには茶色いシミと、発泡酒の饐えた匂いがした。 


「これは負け犬の遠吠えと思えばいいのよ」


 街で他の一座を偵察に行った時に相手からかけられたのだろう。いきなり街にやってきて、しかも有力者の寵愛までさらった『シリア一座』は羨望と嫉妬の対象になっていた。


「さあさあ、貴方たちはそんな顔しないの。お客の入りは上々よ。がんばって頂戴ね」


 手をたたきながらシリアは皆に気合を入れていった。


 長いかもじをつけ、ここでも人気の演目『乙女の舞』の衣装を身にまとったイリスは、舞台袖からユリア、チファ、コリーの舞いを見ていた。


(初めのころより数十倍も上手くなったな)


 もちろんイリスの方が技術的には数倍も上手いのだが、ここ最近何故かイリスが足を引っ張っているような気がしてならない。


 舞い終わった三人は優雅に頭を下げると拍手の中、こちらにはけてきた。


「がんばってね」


 こっそり応援もしてくれる。イリスは頷くと舞台の中央へ出た。






「おお…」


 観客からのどよめきもいつもの通りだ。イリスもいつもの通り、何気ないふりをして客席の一番後ろに目をやる。


(あれ、いない)


 定位置にラシルはいなかった。客席の一番後ろ、イリスが良く見える場所に彼がいることを確かめるのが最近の舞を舞う前の儀式みたいなものになっていた。ラシルがいないことで生まれる不安感を知ることで、今まで彼の姿に安心感を見出していたことにむりやり気づかされる。


 いつの間に、こんなに彼を頼るようになってしまったのだろう?


(と、とりあえず、今は舞に集中しなきゃ)


 瞳を閉じ、身を低く構え、曲が始まるのを待つ間、何回も自分に言い聞かせた。


 静かな始まりに合わせ、ゆっくりと草木が芽生えるように体を伸ばしていく。イリスの動きにあわせて観客の視線が動く。それもいつものことなのに、イリスには熱く、重く感じられた。


(なんだろう…)


 勝手が違うことにイリスは戸惑う。舞が進むにつれそれは大きくなっていった。そしてイリスの『乙女の舞』は、同じ舞でも観客が今欲してる舞方とは違うのだ、という事が分った。


(引きずられる。これでは僕の舞が壊されてしまう!)


 頭が空白になりかけたイリスは、意識から観客からの波動ともいえる高まりを遮断した。その途端、彼らは自分から遠ざかったように思え、同時に果てしない敗北感に襲われた。


 イリス以上の上手な舞を見たことのない観客はそれでも惜しみない拍手をくれたが、イリスの耳には届かない。ただただ、この場から逃げ出したい一心だった。


 楽屋に帰ってきたイリスに誰も声をかけない。彼の苛立った雰囲気が通じ、皆遠巻きに見ていたが、イリスにとってはかえって有難かった。気難しいと思われてもかまわない。無言で手早く化粧を落とし、明日のために衣装を調え壁に吊るした。


「おつかれさま」


 全て自分のやるべき事が終わるとイリスは最低限度の挨拶だけ済ませ、そそくさと楽屋を出て行った。







(早く一人になりたい)


 カロン夫人が一人に一部屋与えてくれて良かった。カラムスに負けた時とは又違う敗北感を持て余しながら、イリスは賑わう庭先を小走りで走り抜けた。


「痛って…」


 もう少しで部屋のある離れにたどり着くという時に人にぶつかり、イリスは転倒した。


「気をつけろ」


 イリスはつばを吐き様に怒鳴りつけるぶつかった男を一睨みしたが、男はイリスの顔を見た途端に片方の口端を上げた。


「これは…『シリア』一座の花形役者様じゃありませんか?」


「人違いだろ」


 そうだ、と言っても状況が好転しそうにないのでイリスは嘘をついた。だが、その言葉には騙されず、男は首を一つ横にふる。


「いいや、商売柄人の顔を覚えるのは大得意でね。特に商売敵ともなれば」


 男は普通よりは整った顔をしている。どこかの一座の役者の一人だろう。彼が一歩近づくたびにイリスは尻餅をついたまま後ずさりする。


「あんた達のおかげでこっちは商売上がったりだ。そうだ、このまま稼ぎ頭がいなくなったらどうなるかなあ」


 男は楽しそうに言っているが、淡い青の瞳は全く笑っていない。


(本気で僕をどうにかする気だ)


 助けを呼ばなければと思うが、ここは庭の片隅で、しかも祭りの中心では運悪く華やかな音楽も始まり声が届きそうにない。それならせめてこの場から逃げ出そうと立ち上がったが、背中が壁にぶつかる感触を感じた。


(うそ! 追い詰められた)  


 じりじりと迫る男にイリスは腰の辺りに手を彷徨わせた。震えてなかなか探し出せなかったが、いつも提げている短剣の柄を布の下からこっそり掴むと、心を決めて切りかかるタイミングを計った。


 もう少し近寄ってきたら切りかかるつもりだったが、その前に男はぴたりと止まり、軽く両腕を上げた。


「言い寄る場所はここではなく山の麓と聞いたが?」


 聞きなれた声がした。明らかに怒りを含んだその声は、男を縮み上がらせるのに余りある。


「お前の顔は先程も見たな。これからも忘れない様にその顔へ化粧でも隠しきれない傷をつけてやってもいいのだが…」


 男は首を振ろうとし、左頬に剣先があることに気づいて口に出して謝った。


「すまない。ほんの出来心で、本当にどうにかしようなんて思っていなかったんだ」


「それにしてはお前達のすることは度が過ぎている。同じ舞手として戦うなら同じ舞台上で勝負しろ。相手を妨害しようとする暇があるくらいだから余裕なのだろう?」


「…わかった」


「他の団員にもちゃんと伝えろ。『シリア一座』の誰か一人にでも手を出すとどうなるか。先ほどは逃がしてやったが、今度は傷どころではなく首と身体が離れることになるとな」


 ラシルは剣先で男の頬を二、三度叩いて男をもう一度震え上がらせると、剣先を下ろし「消えろ」と呟く。男はこれ幸いに、転がるようにその場から立ち去っていった。






「大丈夫…じゃなさそうだな」


 いつまでも短剣の柄を離さずに握り締め、呆然と座り込んでいるイリスの前にラシルはしゃがんだ。


「とりあえず、物騒なものはしまえ」


 イリスは魔法にかかったかのようにラシルの言葉にしたがった。だが、短剣が鞘に戻る金属音が引き金になり、急に恐怖感なのか怒りなのか分りかねる感情が湧き上がってきた。


「来るのが遅いんだよ。それに…」



 ─どうして今日は見ててくれなかったんだ



 先程の男とのやり取りでなぜラシルが来なかったのか大体理解できたため、喉まででかかった言葉をイリスはむりやり飲み込んだ。それ以上に、ただでさえ心が不安定な時に弱音を口にしてしまったら自分がどうなるか分らない。


「それに? ちゃんと最後まで言え」


 イリスは答える代わりに首を振り、まだ少し震えの残る足を無理に立たせた。


「帰る」


「部屋まで送ろう」


 立ち上がったラシルを押しのけてイリスは先に歩き出す。ラシルが後ろに付いて来るのがとてもいらただしく感じた。


「必要ない。もう放っておいてくれ」


 思った以上にきつい口調になったが、構わなかった。自分から断ち切らないと心の不安を訴えてしまいそうだ。


 イリスは唯一考えられる安全な場所、自分の部屋に向かって走り出していた。




 


「待って、今度は上手くやるから!」


 そう叫んだが、観客はイリスに冷たい視線を投げかけ外へ出て行ってしまう。その中にラシルもいた。森の木々が映り込む湖の様に深く青い瞳は氷の様に冷ややかで、いつも綺麗だと思いつつ見ている金髪を煩げに掻きあげると他の客同様出て行ってしまう。


「待っ…」


 そういいながらイリスは目覚めた。辺りは窓から差し込む月光が床の一部を照らす以外真っ暗で、遠くで祭りのざわめきが聞こえる他は静かだった。


(これで何回目だろう)


 まだ祭りの音が聞こえるということはそんなに夜が更けているわけでもないとは思うが、何度も短い夢を見ては起きていたので、時間がどれくらい経っているのかがはっきりしない。


(しかも今のが一番悪い夢だったな)


 イリスはケットを引き上げるとぎゅっと握り締めた。たかが夢なのに心臓が早く打ち、すぐには寝られそうにない。


 何度目かの寝返りを打った時、木の軋む音が静かに聞こえた。普段なら気づかないほどの微かな気配だが、頭が冴えて今は神経が過敏になっているようだ。


(もしかして、鍵かけ忘れた?)


 部屋に入った時は気が動転していて、鍵をかけたかどうか全く覚えがない。ただ、ドアが開けられたことは事実で、自分の無用心さに呆れたが今は後悔していても始まらない。


(上手く逃げ出してラシルに…。でも、さっき一方的にケンカ腰で別れちゃったしな。いや、自分の身は自分で守れ、だろ)


 思い直したイリスは相手に気づかれないようにゆっくり腕を動かし、枕の下に隠した護身用の短剣の柄を握った。その銀独特のひんやりとして重い感触がさらに緊張感を高める。 


 ゆっくりと物音を立てないように入ってくる気配は段々近づいてくる。あまり間合いを狭められても華奢な自分が不利になるだけだ。そう判断したイリスは短剣を枕の下から抜き出し、鞘を払いながら跳ね起きた。


「誰だ!」


「悪い。驚かせるつもりはなかったのだが」


 窓から差し込む月明かりに照らされた金の髪は、溶けた蜜蝋のように芳醇な色を湛えていた。暗闇に浮かび上がる均整の取れたシルエットはさながら月の光の化身の様だ。


「ラシル…」


「シリアが心配して俺をよこしたんだ。本当は彼女自身が行きたそうだったが、話しているうちに叔母ではなく座長の顔になってしまっては今のイリスは嫌がるだろう、と」 


 だが、ラシルの言葉はイリスの耳に入ってはいなかった。


(もう、今日はこんなのばっかりだ)


 冷や汗をかきながら二度も短剣を握った。


 たとえ最後までまっとうできない寿命であっても、命が縮む思いがするのは嫌だ。


(それに、なんで自分だけに復讐の負荷がかからなければならないんだ)


 今まで押さえ込んでいた感情が抑えられなくなってきた。


 シリアは叱咤や誉め言葉を駆使して、何とかイリスの舞を良くしようと必死だ。答えなくては、と思う反面、彼女の瞳を見ると無言の圧力を受けているようで、息が詰まりそうになり逃げ出したくなることもある。偏にスカトル国が威信をかけて建築している神殿を乗っ取るためだ。だが、思いついたのはシリアなのだから、彼女がやればいい。そうすれば思うように舞が出来なくてもこんなに苦しい気持ちにならなくていいのだ。少なくとも今のままでは舞手に選ばれることはないだろう。


(だけど僕を一番混乱させるのはラシルだ)


 彼に出会う前までは、ただ殺された母や仲間たちのことを思うだけでいくら辛くても耐えられる気がしていた。早く本番を迎えて、この世から開放されることを望んでいたが、今は首都インセンに着かなければいいのにと願っている自分がいる。ラシルに全てを話したい自分がいる。彼なら全てを話しても、それをひっくるめた自分を丸ごと受け入れてくれるだろう。だが、自分だけ安穏と暮らすことはきっと亡くなった仲間たちや団員に申し訳ない事に違いない。そのジレンマがさらにイリスを苦しめた。


「イリス? 大丈夫か?」


 何も言わない自分にラシルは顔色を見ようとさらに近づいてくる。われに返ったイリスはとっさに叫んでいた。


「帰って。これ以上近づいたら…」


「どうなる?」


 ラシルは歩みを止め、両手を腰にあてた。イリスは答える代わりに先程から握り締めたままの短剣を目の前まで上げた。そこまでは威勢が良かった。


「手が震えているぞ」


 ラシルに指摘され、イリスは慌てて空いている手で震えを止めるために利き手を掴み、ぎゅっと押さえた。震えに気を取られ、ラシルから眼を離してしまった。


「相手から眼を離すのはよくないな」


 そう言って彼の大きな手が短剣ごとイリスの手を掴む。弾けるようにイリスはラシルを見上げた。


「離せよ」


 掠れて弱々しい声では全く迫力が出ない。だが、今のイリスには精一杯だった。


 その様子にラシルは軽く眉を寄せ、痛みを堪える顔をした。


「一番良くないのは、縋るような眼を俺に見せることだ」


 ラシルは素早くイリスの手の中から短剣を奪い取ると部屋の隅へ投げ捨てた。


「何す…」


 イリスの抗議の声はラシルの口で塞がれる。息をつかせない激しさだった。心のどこかで抵抗しなければと思うのだが、体が言う事を聞かない。しかもイリスは自分の体が次第に熱を帯び始めるのさえ感じ始めた。


(初めから抗えるわけなかったんだ)


 力が抜け、潤んだ瞳で見上げるイリスの体を、ラシルはゆっくりとベッドに横たえていった。




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