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第8話

 シリアの望む成果がえられないまま、カシスの街についてしまった。


 イリスは初めて間近に見る『海』にも、風の運ぶ森とはまた異なった香りも心から楽しむことができないでいた。


 馬車の荷台から見える朱と黄色の交差する水面は、夜の帳が下りる前触れだ。浮かぶ多くの船の揺らめきと辺りを包む赤い色に、イリスの記憶は勝手に昔へさかのぼっていった。




「ナナ様、どこへ行くつもりですか?」


 突然の問いかけに、こっそり部屋を抜け出そうとしていたナナは一瞬体を強張らせたが、相手がイリスだと分かると、満面の笑みで駆け寄ってきた。運んできた水差しを飛びつかれてこぼれる前にイリスは慌てて机に置く。


「これから占星術の講義が始まる時間でしょう?」


「あのお話を聞いていると眠くなってしまうんですもの。小さい声でぶつぶつ言うのよ。きっと催眠術の講義と間違えていらっしゃるのだわ。それに毎回同じような事ばかりで、もうナナ覚えちゃったからいいの。それより…」


 ナナはイリスの腕を引っ張り、小さな歯を見せた。


「イリスも一緒に行こう」


「どこへですか?」


「聖山の御蔵岩の近くにすごくいい香りのする花が咲くんですって。侍女のマルタが言っていたのを聞いたの」


 御蔵石は神殿の裏手にある聖山にあり、大地の女神ベチベルが天界の神イソアミルを生むために籠もった洞穴として祭られている。山の中腹辺りにあるが、幼いナナの足では近いとは言いかねる距離でもある。


「御蔵石! これから行っては日が暮れてしまいますよ。明日にしましょう。そうしたら私がお連れします」


 イリスは宥めるようにナナに言った。


 ナナはコヨルテ=ラグドを治める神官長の愛娘であり、ゆくゆくは巫女としてこの土地を引き継がなくてはならない。一方イリスはその神官長に仕える母の口利きで6歳から神殿で働くようになった。


 初めはもろもろの雑用をこなしていたが、母譲りの綺麗な顔立ちと舞の素質を見込まれ、今では季節の節目の大事な神事の奉納舞もちょくちょく任されるようになった。


 ナナには初めて会った時から気に入られ、ナナが母親である神官長ニアに頼み込んだらしく、昨年からナナの世話係になった。周りからは兄妹のようだと言われるほど仲がいい。イリスは兄弟がいないので実際ナナを、立場上恐れ多いことではあるが、妹のように思っていた。


「明日じゃ駄目。その花はお空に星が現れると同時に花が開いて、お日様の光に当たると萎んでしまうの。しかも一晩しか咲かないんですって」


 大切な妹を守るもの兄の務めと思い、イリスは首を振った。


「例えそうであっても講義の先生を待たせておくわけにはいきません」


 本音を言えば、コヨルテ=ラグドはスカトル国の軍勢と交戦中であり、コヨルテの国を守る強固な城壁の表を流れる川を挟んでにらみ合っている。膠着状態は今に始まったことではないが、万が一を考え、聖山に登るために城壁の外へナナを出したくないだけなのだ。ただ、そんなことを言えばナナを悪戯に怖がらせるだけだと思い違う理由を挙げたに過ぎない。


「そんなの受けていたら花が咲き始めちゃう。イリスが一緒に行ってくれなかったら私一人でも行くから」


 ナナの変わらぬ強気の態度にイリスは再び首を振った。しかしこれは先程の『否定』ではなく『降参』の意味だ。


「分りました」


 結局イリスはナナに甘いのである。そしてナナはこう言えばイリスが付いてきてくれることを十分知っているのであろう。


「では見つかる前に出かけましょうか」


 行くとなれば途中で捕まるのも面白くない。ナナはにっこり笑うとイリスと手をつないだ。


「安心して、私が誘ったことにすれば誰も怒らないから」


 確かにそうかもしれないし、実際そうだ。


(ただ一人を除いてね)


 イリスは口に出かかったが、あえて言うのをやめた。





 ナナを神殿から連れ出し、裏の聖山に入るまでは順調に行っていた…はずであった。


「イリス、待ちなさい」


 山道に入りかけたとき、後ろから聞き覚えのある声が凛と響いた。イリスもナナも一瞬にして立ち止まる。


「…シリア」


 イリスは、叔母でありナナ付きの侍従長であり、ナナが唯一言う事を素直に聞くシリアに出来るだけ微笑みながら振り返った。  


 案の定、仁王立ちでシリアは立っていた。


「イリスは悪くないの、ナナが無理やり連れてきたの」


 ナナは言葉どおり気丈にイリスの前に立つとイリスを庇ってくれた。


「いえ、ナナ様は悪くありません。しっかりお止めできなかった僕に責任があります」


「本当に仲がいいわね」


 庇いあう二人に、シリアはため息を付いた。頭ごなしに怒る気は失せたらしい。


「これから夜になると言うのに聖山に来てどうするつもりなの?」


 イリスはかいつまんで話を聞かせた。


「月光花ね、あれは本当にいい香りよ」


「知っているの?」


「もちろん。早く行かないと咲き始めてしまうわ。花が開くときが一番香るのよ」


「じゃあ…」


 イリスとナナは顔を見合せ微笑んだ。シリアは右手の人差し指を一本立てた。


「その代わり、明日から一生懸命お勉強に励んでいただきますよ」


「わかったわ」


 ナナは意気込んで頷いた。シリアは右手の中指を追加した。


「二つ目、これからはちゃんと根回しして物事に当たるように。思い付きでは世の中上手く渡れませんよ。占星術の先生には体調がすぐれないとお伝えしておきましたし、安静にするために誰もナナ様の部屋に近づかないように言い含めておきました。これで一晩は騒ぎにならないでしょう」


 シリアは右手の薬指をさらに加え、艶やかな唇をきゅっと上げた。


「三つ目、私も一緒に行きます。なぜなら月光花が大好きだからよ。ここで私を仲間はずれにしたらどうなると思う?」


 結局シリアもイリス同様ナナに甘かった。シリアを味方にしてしまえば何も怖いものはない。怒ってさえいなければシリアは快活で楽しく、頼れる人なのだ。


「もちろん一緒に!」


 イリスもナナも喜んで頷いた。


 神殿の裏山は聖域で、神殿に仕える者以外は入ることは許されない。ナナとイリスは小さな頃からここを遊び場としていたので御蔵石までは暗くても勝手知ったる道だった。


「なんか、甘い香りがしてきた」


 もう直ぐ御蔵石と言う所でイリスは漂う香りを感じた。


「月光花の香りよ。咲き始めたのね」


「早くいかなきゃ」


 シリアの言葉にナナは二人の腕を掴むと先を急かした。


 香りを辿ることで、御蔵石の近くという以外に月光花がどこに咲いているのか詳しく知らなかったのだが、安易に探し出すことができた。


 月光花は蔓状の植物で、白く先のとがった大きな蕾の先が開き始めていた。今日は新月で辺りは暗いにもかかわらず、花は自ら光を放っているように白く淡い輝きを身に纏っている。


「光ってるよ、シリア!」


 ナナは驚きの声を上げた。


「これが月光花の名の所以ね」


 鼻を近づけ、シリアはうっとりと息を吸い込んだ。


「もっと沢山咲けばこの香りの水が取れるのに残念だね」


 イリスも同じように瞳を閉じて香りを楽しんだ。だが、その花とは異なった匂いが混ざり、イリスは弾ける様に顔を上げた。シリアは急いで高台にあがる。


「…なんてこと」


 イリスもシリアの隣に立ち、言葉を失った。


「街が燃えている」


 幾筋もの黒味を帯びた煙が眼下でたなびいている。所々に現れる真っ赤な炎が蛇の舌を思わせて気味が悪い。


「行かなくちゃ」


 突き動かされるように駆けだそうとしたイリスの腕をシリアが思いきり引き戻す。


「行ってどうするの? ここに来たのはきっと神の思し召しだわ。私達のやらなければならないことは街に下りることではなく、ここでナナ様を守ることよ」


 シリアの言葉を聞くまで、腰にナナがしがみついている事さえイリスは気が付かなかった。ナナの顔は不安で押しつぶされそうにゆがんでいる。イリスの心が不安定な事も彼女の心配に拍車をかけているに違いない。イリスは一つ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「大丈夫ですよ、ナナ様。僕たちが必ずお守りします」


 イリスがしゃがむとナナが抱きついてきた。泣いてはいないが、震える体がイリスに彼女がとても怖がっていることを知らせた。きゅっとナナを抱きしめたイリスはシリアを見上げた。


「状況が分らない以上、下手に動くより夜が明けるまでここで身を潜めていたほうがいいと思うけど。同盟国のベイラム軍が来てくれるまで持ちこたえれば、なんとか」


 シリアはイリスが冷静になってくれたことに安堵しつつ、顔を引き締めて頷いた。


「ただただ聖山を焼かれないことを祈るしかないわね。幸か不幸か今日は新月だから敵には見つかりにくいでしょうけど」






 神に祈りが通じ、聖山に手をつけることなくスカトル軍は去っていった。その代わり、街は再起不能と思われるほど思い切り叩きのめして行った。この攻撃は本当に見せしめにしか過ぎなかったのだろう、駐留することも無くスカトル軍は次なる戦地へ赴いていった。


「ひどい」


 ここが本当にコヨルテの街なのだろうか? 辺りは焦げ臭い匂いが充満し、まだ炎が消えていないところさえあった。まぶしい朝日に隅々まで照らし出された街は文字通り眼を覆いたくなる状況だ。血の海を見ただけで吐き気がしてくる。初めに向かった神殿にたどり着くまでだけでも幾つの遺体を見てきただろう。知っている顔が多い事も三人の心を締め上げる。


「女子供関係なく殺るなんて」


 シリアは返り討ちにあって亡くなった敵方の兵士が持っているべっとり血の付いた剣を憎憎しく睨んだ。


 一番奥の祭壇前の部屋にたどり着いたイリスは立ちすくんだ。普段はカッシアや乳香の甘くそしてスパイシーな香りに包まれているが、今日は血の匂いが真っ先に鼻を衝く。その真っ赤な海の真ん中に五人ほどの侍従が横たわっていた。


「母さん…」


 イリスは祭壇の間に一番近いドアの前で母の姿を見つけた。神官長付き侍従長の母は神官長を守ろうとしたのであろう、抵抗が激しかった分損傷も激しかった。


「キリア」


 シリアは姉の名前をそっと呼んだ。


 不思議と悲しい、辛いなどの感情が感じられない。頭がこの事態を理解することを拒否しており、白昼夢を見ている気さえする。


(夢ならそれでいい)


 はやく目覚めて母の笑顔を見たい。


『早く起きないと、またシリアに遅刻を怒られるわよ』


 小言でもいいから何でも母の声を聞きたい。だが、目の前の母は血の気がなく、石像を思わせるように冷たいままだった。


 昨晩やはり感情のまま聖山を駆け下り、皆を、いや母を助けるべきだったのではないだろうか。他にも彼らを助ける方法が何かあったのではないだろうか。自分は間違った選択をしたのではないだろうか…


 次から次へと湧き上がる後悔がイリスの頭を混乱させる。


「…いやだ…」


 イリスは髪に両手を突っ込むとあれほど混乱していた頭が真っ白になり、体の力が自然と抜け、床にひれ伏してしまった。そんなイリスの背中をシリアは優しく摩ってくれたが、あまり効果は上がらなかった。


 二人の啜り泣きの合間を抜け、奥の間から鈍い音が聞こえた。イリスもシリアも体を強張らせる。


 まだ敵兵がいるのかもしれない。


「そういえば、ナナ様は?」


 辺りを見回したがナナの姿はない。


 シリアは気丈にも敵兵の遺体が握る剣を引き抜くと奥の間を伺った。今のシリアならどんな相手でも切り捨ててしまえそうだ。


「ナナ様!」


 奥の間を覗き込んだ途端、シリアは剣を投げ捨てると中へ入っていった。イリスも涙を拭い、重い体を叱咤してシリアの後に続いた。


 床に倒れているナナをシリアが抱き起こしている。先程の音はナナの倒れた音だったのだろう。


 アカシアの磨きぬかれた祭壇上にナナの母親で神官長のニアが仰向けに倒れていた。だらりと下がった白い腕が人形を思わせた。


 ナナは一人でこの部屋に入り、現実を背負いきれず自ら意識を手放した。大人びて見えるが、まだナナは六つになったばかりなのだ。 


 シリアはナナを左手でぎゅっと抱きしめると祭壇の奥にある顔を砕かれたベチベル像を見上げ、空いている右手を床につけ、大地の女神に祈る形を取った。


「私達にこの無念を晴らせる力をお与えください。これではあまりに酷すぎます。どんな試練があろうと目的が果たせるのであれば構いません」


 イリスも同じように跪き、床に手を置いて祈った。今はどうしたらいいか分らないが、きっといい道を指し示して下さるであろう。


 シリアはナナを床に寝かせると祭壇へ向かい、神官長をどうにか見られる恰好に整えた。そして大地の女神に捧げられた聖なる土を転がっていた壺に入るだけ入れた。


「いきましょう」


 シリアが決意に溢れた静かな声でいい、ナナを再び抱きあげ立ち上がる。イリスは母のところへ行き、体を真っ直ぐにし眼を瞑らせる。本当はちゃんと葬儀をしたいが、状況を考えると母だけ特別にすることは憚られる気がした。せめて、と思いイリスはシリアから一掬いの土を貰うと母の胸元へかけた。聖なる土は母を天国へいざなってくれるに違いない。


(行って来ます)


 そうして最後の別れを告げた。






 街の中は元の形が分らないほど破壊されているが、城壁は壊れていない。


「きっと誰かが手引きしたのだわ」


 シリアは唇をかみ締めた。頑丈な城壁は裏を返すと逃げ場もない。もしもの時には逃げ道も考えられていたが、新月の夜陰に紛れた襲撃に上手く機能しなかったのかもしれない。あまりにも多い瓦礫と遺体の山は、いたたまれない光景に初めは顔を背けていたイリスの心を次第に麻痺させていった。


「声がするわ」


 街の外れでシリアが声を聞きつけた。


「敵兵かな…」


 イリスは体をこわばらせる。


「女の泣き声みたいだけど。もしかしたら生き残りかもしれない」


 シリアが辺りを探し、井戸の中から濡れ鼠のように体を震わせた女性を引き上げた。当時は名前を知らなかったが、コリーだった。


 物陰から気を失っているユリアを介抱し、家の瓦礫の前で放心状態のチファを見つけた。


 偶然出合ったこの六人で当てのないままコヨルテを出て暫くは街から街へと渡り歩いていたが、たまたま借りた宿で礼のつもりで舞ったイリスの舞が余りにも好評で、日々の生計を立てるために本格的に一座として活動を始めた。ユリア、チファ、コリーの三人もリズム感がよく、素質があった事も幸いして、人気は早いうちから出始めた。


 コヨルテ人であることは隠し、ナナ様のことを『ナナ』と呼ぶようにした。イリスはその呼び方に抵抗を感じたが、当のナナはまんざらでもないらしく、直ぐに受け入れた。


 シリアは積極的に人の集まる所へ行き、他のコヨルテ人の噂を集め、実際会ったりした。だが、あの戦で殆どやられてしまったのか身を潜めているのか、思った以上にその数は少ないのが実情だ。


「これでは何も出来ないわ」


 シリアの余りにも悔しそうな声が印象的だった。彼女はただスカトル国に復讐する事だけが生きがいになっていたので落胆も激しかったようだ。その頃は近寄ることさえ憚られる程だった。


 それが一転したのはスカトル国が新しい神殿を建て、そのこけら落としに神おろしの舞を人気の一座から選ぶという話を聞いた時だった。


「私達なりの方法で戦えばいいのよ。剣だけが戦いの全てではないわ」


 シリアは再び生気を取り戻し、皆に話した。スカトル国の民の勝利の証である神殿に彼らの崇拝しない神をおろし、精神的に『乗っ取る』と。


「できるかしら?」


 ユリア、チファ、コリーは一斉にイリスを見つめた。責任は全てイリスの肩にのしかかったも同然だ。まず神おろしの舞手に選ばれなければこの復讐は始まらない。


(そのころから、舞う事が楽しくなくなってきたのかもしれない)


 生計を立てるためだけの時は、自由に相手を選べたが、目的のある今、選択の余地は全くない。その頃から首から提げた袋を握る日々が多くなった。その中にはシリアが神殿から持ち出した土が入っている。辛い時はそれを握り締め、無残に命を散らした仲間たち、そして母を思い出すのだ。


(ラシルが言う通り、完璧に踊って見せても無理やり舞っている事が観客に伝わっているのかも知れない)


 ふと心に過ぎったラシルの面影に心臓が一つ早くなる。今思い返しても、彼らと合流してからの旅には楽しい思い出が急に増えた。


(メノウとアクアとはいい友達になれたし、それにモスもジンも優しい。ミルテは基本的にいい人だし) 


 そしてラシル。彼も優しい。だが、ジンやモスとは違い、その優しさはイリスの心を満たしつつ揺さぶる。彼が近くにいると落ち着かないが、近くにいないとまた別の意味で落ち着かない気持ちになる。


(駄目、駄目だ。これ以上考えるのは)


 だが、あの綺麗な景色の崖でラシルに引き寄せられた時は全てを忘れた。そのためか思いかけず自分から彼に腕を絡ませてしまった。今思えば勝手に体が動いてしまったとしか言いようがない。そのことに気づき、狼狽して三度目のキスは拒否したものの、ラシルにしてみれば急にどうしてだか理由が分らないだろう。


 それでも『好きだ』と言ってくれた。


(あまりこの世に未練を残したくないんだけれど)


 そう考える辺りもう手遅れだということにまだイリスは気づいていない。ただ、急に頼りなくなった心を落ち着かせるために両腕で自分を抱きしめた。






「到着したよ。…どっか具合でも悪いの?」


 驚いて顔を上げると、心配げにイリスの顔を覗きこむアクアの瞳が眼に入った。気づけば先程までイリスを包んでいた空の赤い帳は硬い青に変わっていた。思った以上に思い出に入り込みすぎたらしい。


「全然大丈夫」


 アクアに余計な心配をさせないようにイリスは歯を見せて笑って見せた。


 カシスの街も他の街と同様に明日から始まる夏祭りの準備が進められていた。色とりどりの飾りつけを見る限りでは祭りを今から始めてもおかしくない程完成されていた。大勢の女性が手一杯に白い花を持ってどこかへ消えていく。肉の焼けるいい香りも流れてきた。人々で沸き立つ通りを眺めつつ、イリスたちは町の中心の広場で馬を止めた。


 祭りは人の心を浮き立たせるものだが、準備を進めるこの街の人々の浮き立ち様はそれだけでは説明がつかないような気がした。


「いつもは漁に出て帰ってこない男たちが祭りの間中はずっと街に留まるそうだ」


 楽しげに会話をしつつ行き交う人々を見ながらラシルはイリスに話しかけた。彼は前と変わらず同じように接してくれる。気負いのなさがイリスにはありがたかった。


「そういえば港に船がいっぱい浮かんでいたもんね。だから皆嬉しそうなのかな」


 そう答えたものの、何故かイリスの体はこの雰囲気を受け入れられたがらなかった。


 暫く街の様子を眺めていると、知らない間にいなくなっていたシリアが息を切って走り戻ってきた。


「ここの街長の奥様が舞を見たいそうよ。もし気に入ればいろいろと便宜を図ってくださる約束を取り付けてきたの。だからがんばって今できることをしっかりやりましょう」


 シリアは明るくそう言ってイリスの肩に手を乗せた。だが、シリアの瞳に少し不安の影が過ぎったのをイリスは見逃さなかった。






 広い部屋に一つだけだが惜しみなく送られた拍手が鳴り響いた。同時にシリアの顔も明るくなる。


「素晴らしいわ」


 カシスの街長で港の権益を一手に牛耳るカロンの妻であるマンダは、豊満な巨体を揺らしつつまだ拍手をやめないでいた。


「あなたの舞はとても清楚ね。もぎたてのレモンの様な清潔感を感じるわ。これこそ本来のお祭りにふさわしい舞だと思いました。ご存知かどうか知らないけれど、ここの祭りは少し…猥雑だから」


 軽く頬を染めながら言うマンダは、話し振りからここの夏の祭りに余り感心していないようだ。


(とにかく、気に入ってもらえてよかった)


 イリスは緊張していた体をほぐす為ゆっくりと息を吐きだした。


「主人は今用事で明後日まで帰ってこないけれど、その間は私がしっかり後押しさせていただくから安心してね」


 カロン夫人はその言葉通り、まず離れの部屋を今回の宿に提供してくれた。離れといっても部屋は少なくとも十五以上はあり、一人に一部屋ずつ割り当ててくれた。


「なんか急に一人にされるとかえって落ち着かないんだよね」


 メノウはこれまたカロン夫人の好意で呼ばれた晩餐の席で隣に座ったイリスに正直に打ち明けてきた。


 隣ではせっかく掴んだ強力な後援者をここで逃す手はないと必死なのだろう、シリアがカロン夫人を上手く持ち上げていた。端正なラシルとミルテも卒なく相槌を入れるので、ほろ酔い気分も手伝ってか、カロン夫人はこれ以上ないくらい上機嫌で笑い声が絶えない。


(みんな一生懸命後押ししてくれる)


 イリスはふがいない自分にいたたまれない気持ちになる。早くシリアに満足して貰えるような舞を舞わなければならない。


(でも、前の自分のままじゃ駄目なんだよね)


 それだけは分っていた。実は少しずつだが、イリスは解決の糸口が見えそうな気がしているのだ。それに気づいたのはラシルと行った美しい景色を見てからである。勿論綺麗な景色を見たからだけではないことも、認めたくないが、分っていた。


「食べ終わったら街の様子見に行かない?」


 双子の誘いに乗って、イリスはラシルに告げずこっそり部屋から抜け出した。彼はまだカロン夫人に捕まっており、あの調子では当分抜け出せないだろう。


 イリスは双子と今ではすっかり日の暮れた街を夕涼みしながらぶらぶら歩いた。山から海に吹き抜ける風がいたるところに掲げられている色とりどりの旗を揺らめかせている。


「ここの夏の祭りはどんなのか知ってる?」


 夏の祭りといえば今までの農作業の苦労を労い、秋の作物の豊作を神に祈るものだ。その基本はどこも変わらないものの、各地方地方によってやはりそれぞれの特色が出る。イリスの祖国、コヨルテ=ラグドでは綺麗に染められた羽を身につけた若い女性がベチベルに祈りを届ける舞を舞いながら街を練り歩くものだった。最後に高台からまかれるその美しい羽の全ての色を拾うのが子供たちの楽しみであり、イリスもその一人となって全部の色の羽を集めて母にあげた。翌日目覚めるとその羽は子供心をそそる首飾りに変わっており、再びイリスのものになったそれを友達に自慢して見せたものだ。


 イリスの言葉にメノウはポケットから一輪の花を取り出した。アクアは興味深そうに花を眺める。


「カンフの花? でも珍しいな、普通は赤いのに真っ白なんて初めて見た」


「だろ?」


 草木に詳しい双子が珍しがるのだから、本当に変わっているのだろう。


「ここの男たちはこの花を持って山の麓に立つそうだ。後からやってきた女性に差し出して、めでたく受け取ってもらえると一緒にその花を山中の神殿に奉納しにいくんだって。で、後は…まあ想像通りだね」


 カロン夫人が『猥雑』といっていたのはこのことだろう。コヨルテにはそういう風習はなかったが、南地方へ行った時にそういう話を聞いたことがあった。ただ、北の地域に属するカシスの町にその風習があるのは珍しいのではないだろうか。


(もともと南に住んでいた民で、海を渡ってここに定住したのかな)


 イリスはぼんやりと勝手に仮説を立ててみた。メノウは花を器用に指で回していたが、ぴたりと止めた。


「ねえ、明日俺たちも試しに行ってみね?」


 メノウの提案にイリスもアクアも一斉に首を横に振った。


「ヤダよ」


 二人の様子にメノウはにやりと笑う。


「おっ、怖いのか?」


「違うよ。…その、俺達みたいなよそ者を相手にするとは思えないし、選ばれなかったら結構プライド傷つきそう」


 アクアの言にメノウは唸った。


「ん〜、確かに。考えてみると、ある意味残酷な祭りかもしれないなあ。でもイリスは別として、俺たちも顔だけだったら結構良い線いっていると思うけど」


『顔』だけに限定する辺り、自分達の性格を分っているのだろう。


 イリスは『そばかすが消えればあの二人はなかなかかわいい顔をしているのよね』とコリーが言っているのを聞いたことがある。彼女は舞台用の化粧を使って双子に化粧を施したいと虎視眈々とその機会をうかがっていたが、二人は逃げ回り、まだその野望は成就されていない。


 メノウは花を再びポケットにしまうと、わざとらしくひとつため息を吐いた。 


「残念だけど、君達はやっぱりラシルとミルテで我慢しときなよ」


「違うって言ってるじゃん」


 にやにや笑うメノウにイリスとアクアは、いつも双子がするように、期せずして声を合わせ否定していた。



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