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第7話

 シリアに言わせると今のイリスの舞は『鼻の頭を鼠に齧られ、のた打ち回る猫』程見苦しいらしい。


 彼女はイリスの絶不調をセダの街でカラムスに事実上負けたのが理由と考え、毎日の様に時間さえあればイリスをはじめ、全ての団員をしごいている。今も特訓中で、久しぶりにラシルは仲間の6人だけで焚き火を囲んでいた。


 今夜は野宿だが、気候がいい時期で乾いた風が返って心地よい。


「そんなに悪くないと思うけどなあ」


 アクアは膝を抱えて、辺りを見回しながら同意を求めた。もちろんイリスの舞についてである。


「ん〜、イリスもカラムスもどっちも良かったけど」


 性格が優しいジンは言葉を選んだ。


「いや、カラムスの方が心に残りましたね」


 替わりにミルテがはっきり答えた。


「あいつのは、なんか下世話っぽいんだよ。始終周りに色目使うしさあ。ねえ」


 メノウはカラムスが初めから嫌いな分見方が偏っている。ミルテにいっても同意を得られないのは分っているのでメノウはラシルに言った。


「確かに、神おろしはイリスの方がふさわしいと思うが、王の目に留まらないと神殿の舞手には選ばれない。そのやんごとなき人の耳に入るには貴族の推挙が要る。さらに貴族の関心を買うには民衆の人気が不可欠になる。意に沿わなくても彼らに迎合しなければ目的達成は難しいだろうな」


「うー」


 ラシルだけはイリスに同情的で味方だと思っていたメノウは不満の唸り声を上げた。だが彼はその不満を別の形でラシルに意趣返しすることにしたようだ。


「あの晩、ラシルとイリスは夜遅くに帰ってきたじゃん。なんかあんたが変なことしたんじゃないの? 傷心のイリスにつけこんでさ。だから調子が狂っちゃったんじゃない?」


「なにもしていない」


 それは事実だ。ただ、自分の発言がイリスの心を余計に混乱させたかもしれない事は黙っておくことにした。


 ミルテはラシルがからかわれる話題を逃さない。少し身を乗り出してにっこり笑った。


「その言葉に嘘はなさそうですね。でも今の言葉の前に『まだ』を付け加える必要はありそうですけれど」


「うわー、イリスの貞操の危機だね」


 メノウは冗談めかしながら顔をしかめた。


「イリスは可愛いですからね」


 ミルテの言葉にジンは驚いた声を出す。


「ミルテもイリスが好みなんだ。確かにシリアさんに似て綺麗だけど」


「ジンの基準はいつもシリアですね。イリスを誉めているようでちゃっかりシリアを誉めてますよ。そういうことは本人の前で言わないと意味がないことを早く悟りなさいな」


 狼狽し頬を上気させるジンの様子に満足して、ミルテはさらに続けた。


「イリスはいつも朗らかにしていますが、時折ちらっと見せる寂しげな顔がいいですね」


 イリスの寂しさに気づいていたのが自分だけではなく、ミルテも同様に気づいていた事にラシルは嫉妬や悔しさ、その他いろいろ混ざった複雑な気持ちが湧き上がった。


(仲間であり同時に友達でもあるミルテには知られたくない気持ちだな)


 顔色を悟られないよう、ラシルは不自然にならない程度に俯いた。口角は無理やり上げた。だが、さらっと聞き流せない自分の心の狭さを認めざるを得ない。そして自分がどれくらいイリスのことが好きなのかも。


「まあ、興が乗れば一晩過ごせるかもしれませんが、そうすると私の命が危なくなるのでね。こうみえても長生きしたいですから。最悪、皆との最後の別れの祈りを唱えてあげられるくらいにはね」


 ミルテはちらりとラシルを見てにやりと笑った。ラシルは軽く肩を竦める。


「いつもながら素直じゃないな」


 イリスの話はいただけないにしても、ミルテは何だかんだいって仲間とずっと一緒にいたいという願望を持っているのだ。ラシルをはじめ、皆ミルテを憎めないのはその気持ちを十分わかっているからだろう。その意を含めてラシルが物分りの良い笑顔を見せると、ミルテは途端に嫌そうに顔をしかめた。


「俺、もう寝るわ」


 膝を抱えて黙って話を聞いていたアクアは急に立ち上がると踵を返して立ち去った。


「ちょっと待てよ。俺も行く」


 メノウも慌てて後に続く。だが、急に立ち止まり振り返ると、ミルテに向かって馬鹿と叫び、再び走り去った。


「またケンカでもしたのか?」


「さあ、身に覚えがありすぎて、どれか分りませんね」


 ラシルの問いにミルテはそう答え、肩を竦めた。




 何かと騒がしい双子がいなくなると、暫くモスのくべる薪の爆ぜる音とまだ続いている舞の練習の曲のみとなる。今では口ずさめる程聞きなれた曲に耳を済ませていたジンが沈黙を破った。


「やっぱり旅芸人は普通の人と違っているからかな、今までの依頼人と違って不思議な雰囲気をもっているなあ」


 確かにジンの言うとおり、シリア一座の面々は不思議な雰囲気を持っている。普段はさして何事にも執着を見せることがないが、いったん舞の事になると皆ひたすらに打ち込む。まるで苦行を積み天国を夢見る僧のように。だが、その様子はただ『芸を磨く』では片付けられないものがある。


(そういえば、モスが言っていたな、シリアとナナが地面に片手をつけて祈りを捧げていた、と)


 モスは見たものをまずラシルだけに報告する。彼は普段寡黙で優しそうな印象を持つが、彼の観察眼と情報収集能力は目を見張るものがあり、年を重ねるに連れて鋭さを増していった。ラシルの人間観察眼は彼を手本として養われた。


(その行為をするのはベイラム国かコヨルテ=ラグドの人間か)


 シリアの血縁というイリスはコヨルテ産の馬、リスに非常に興味を持っている。


(と、言うことはコヨルテの民…?)


 ラシルは自分の手のひらを眺め、ぎゅっと拳を作った。それが事実であるならば、イリスはいつか告げるであろうラシルの気持ちに答えてくれないかもしれない。ふと心に浮かんだその考えに奥歯をかみ締め、ラシルは首を振った。


(コヨルテ人が宿敵であるスカトル国の神殿で、果たして舞を舞いたいだろうか? 常識から言えば『否』だ。…イリスは大地の女神を信仰する、俺の知らない小さな国の出身かもしれないじゃないか)


 そう言い聞かせてみたが、一度生まれた疑念はなかなか心から離れることはなかった。





 翌日は野宿ではなく、チュベロの街で宿泊だ。一日かけてたどり着いた宿屋で剣の手入れをしていたラシルの元に、いつもながら長い巻きスカートを綺麗に捌きつつシリアが入ってきた。


「相談があるの」


 シリアは物憂げに席に座ると耳元の髪を煩げに掻き揚げた。見るからに彼女は疲れている。

時間の許す限り彼らは練習に明け暮れているが、彼女の思うほど効果を挙げていないようだ。それがさらに彼女を精神的に疲れさせるのだろう。


 当初、夏祭りに間に合うようにトシスの街に入る予定だったが、『ネロール・ヘキセン公一座』もその街に入ることを知り、シリアは急遽行き先の変更を告げに来たのだった。


「残念だけれど、今のイリスではまた同じ結果になってしまうわ。これ以上イリスのスランプを増長させたくないのよ。トシスの街以外に、どこか他にいい街はないかしら?」


 ラシルは剣を鞘にしまい、脇に立てかける。


「カシスの街はどうだ? 港町で人の往来も多い」


 海に面しているが背後には山を望むことも出来、山海の野趣あふれる独自の文化を持つ地域でもある。トシスに行けないのであれば港町で人の往来も多いカシスは無難な選択だろう。そこへ行くのであれば、そうそうに荷物をまとめ、このチュベロの街を去らなくてはならない。一つ山越えがある分トシスの街へ行くより時間がかかるのだ。


 ラシルはさっと頭の中で幾種類か道の選択肢を考えた。急ぎであれば山の東ルートでもいいが、女子供がいる分西のルートの方が時間は掛かるが山肌が優しい。


 ラシルはシリアに街の様子と行くまでの道筋を簡潔に説明する。


「いいわ、そこで。道はあなたにまかせる。皆に言わなくてはね」


 シリアはラシルに微笑み、立ち上がり様吐きかけたため息を無理やり飲み込むと、顔を引き締め部屋から出て行った。





「さすがに連日連夜の練習のせいで疲れているのですかね」


 ミルテはラシルに馬を寄せてきた。

 

 イリスは一人馬車の後ろに腰掛け、揺られながらぼんやりと晴れ渡る青空を見上げている。トシスの街を出てから半月、ラシルも気がかりに思っていたが、誰かが近くにいるとそのような素振りは全く見せないので、イリスも指摘されることは望んでいないと思い、言い出せないでいた。


「そうだな」


 ミルテがイリスについて話すと心がざわめく。少しでもイリスが自分のことを憎からず思ってくれていることが分ればゆとりをもってミルテにも接することが出来るのだが、イリスの気持ちも、ミルテの気持ちも分らない今、ラシルは一人焦る心を抑えかねていた。


「この道は久しぶりに通りますね」


 ミルテの言葉で前に一度カシスの街まで人を警護したことを思い出す。そしてある一つの考えにラシルは笑みを顔に湛えた。


「この先の泉で休憩にしよう」


「もう昼ですし、無難でしょうね。…訳もなく急に微笑むと気持ち悪いですよ」


「俺は笑いたいときに笑うんだ。笑いたいときにあえて仏頂顔する誰かと違ってね」


 軽く眉を寄せながらも図星だったのだろう、何も言い返さずミルテは素直にシリアに告げに行った。


 

 泉の周りには先客は居らず、顔を洗ったり喉を潤したりと皆思い思いにくつろぎ始める。


 ラシルがイリスを探すと、イリスは一人で風に揺らめく木陰に寝転んでいた。ラシルが隣に座ると、軽く微笑んで上半身を起き上がらせる。


「疲れたか?」


「馬車に乗っていたからそんなに。アクアもメノウも薬草取りに行っちゃって、暇だから寝転んでいただけ」


「では少し俺に付き合わないか?」


「どこ?」


 ラシルは口の片端を上げた。


「それは行くまで内緒だ」


「じゃあ、シリアに言ってくるよ」


 イリスも興味をもったらしい。立ち上がる彼の腕をラシルは掴み、首を横に振る。


「シリアに言ったらナナ達が付いて来るだろう?」


 泉の側でシリアとナナ、ユリアにチファ、コリーが輪になって雑談を楽しんでいる。


「駄目なの?」


「駄目だ。俺はイリスだけに見せたい」


「…分った、いいよ」


 顔を軽く伏せたが、イリスの頬が軽く上気するのが見て取れた。そしてラシルは気づく。彼は『彼だけ』という特別扱いを喜び、望んでいるのだ。


(そう分っていたら、いくらでもしたのに)


 それは自分の望みでもあるので簡単なことだ。これからは進んで実行することにしようと心に誓った。


「かわりにミルテに言っておくから」


 イリスを先にリスのところへ行かせ、ラシルはミルテの元へ向かった。モスでもジンでも良かったのだが、ミルテを選んだのは、もしかしたらイリスと二人で出かけると言った時の表情を見てみたかったからかもしれない。


(俺はつくづく子供っぽいな。もしミルテがイリスのことを本気で思っていたら俺はどうするのだろう)


 ミルテは年が同じで初めて会った時から所謂『ウマ』が合った。軽口を叩き合っても後腐れないところがいい。彼の交渉能力も高く買っており、彼が仲間から外れることは考えられない。


 今まで知っている性格からすれば、彼は自分の好きなものには秘密主義を通す。指摘されてはじめて渋々と、傍から見れば世の中で一番嫌いな物を話すかのように好きな物について話し出すのだ。好きな物でも人でも、それを知られることは弱みを握られるのと同じと思っているらしい。イリスについてはあからさまに話すので違う、と思いたいが、ラシルはイリスの事になると霧の中を方向も分らずさ迷い歩いているような心持になってしまうのだ。  


 そんなラシルの心配をよそにミルテは意味ありげに笑い、ごゆっくり、と一言言っただけで、結局ミルテの気持ちは分らずじまいだった。




 リスにラシルは先に跨り、懐に引き入れるようにイリスを引き上げ前に乗せた。


 他愛無い話をしながら細い坂道を馬で進む。風が木々を渡り、光が競うように輝いている。今日この日が清清しい晴れでよかったとラシルは思った。


「ここから眼を瞑って」


「うん」


 素直に瞳を閉じるイリスに自然と頬が緩む。木々のアーチを抜けると少し開けた場所にでた。明るい日差しに直ぐ眼が慣れず、ラシルは軽く眼を細める。


「まだ眼を開けるなよ」


 ラシルはリスから降り、イリスを抱き下ろした。リスを近くの木につなぐとイリスの手を取り目的の場所へ誘う。


「とても風が気持ちいいね」


 約束どおり瞳を閉じたままのイリスは風を楽しむように顎を上げた。


「眼を開けてもいいぞ」


「わあ…」


 ラシルの合図で濃い茶色の眼を開けたイリスはラシルの思惑通り感嘆の声を上げた。


 切り立った崖の眼下には面々と続く深い深い緑の森。奥には海が濃い青を輝かせている。それに続き明るい水色が空いっぱいに広がる。自然が織り上げる見事なまでの色の絨毯、崖から吹き上げる緑の香りを含んだ風に、イリスは圧倒されたようだ。


「なんか…人間って本当に小さい存在だなって思えるよ」


「そうだな、俺もはじめて見た時に同じ感覚に陥ったよ。これをイリスだけに見せたかったんだ」


 ラシルは早速『特別扱い』を開始する。やはりイリスは嬉しそうに微笑んだ。


「言葉に…ならないね」


 イリスはそう呟いて再び今度は自ら瞳を瞑ると両手を広げた。服が風を孕み、海原に漕ぎ出でる帆船を思わせる。



 暫く二人は無言で立ち尽くした。



 何気にイリスを見下ろしたラシルは心臓が止まりそうになった。イリスは一歩踏み出し、今にも崖から飛び降りそうに見えたからだ。


「おい」


 慌ててラシルはイリスの腰を掴むと思い切り引き寄せた。その勢いあまってイリスを掴んだままラシルは後ろへ倒れこんでしまった。


「ゴメン! 大丈夫?」


 イリスの声が聞こえるが、彼の体の重みも心配の色を帯びた声色も心地よかったので、ラシルはそのまま瞳を閉じ、黙っていた。


「ラシル…?」


 軽く揺すられ、これ以上は黙っていることは出来なくなった。自然と笑みが浮かんでしまったからだ。


「やっぱり、気づいてたんじゃん」


 片目を開け、目を細めて安心した笑みを浮かべるイリスを確認してからラシルは体を起こし、イリスと向き合うように座った。


「イリスにかすり傷一つ負わせただけでもシリアに殴られそうなのに、怪我なんかさせた日には殺される。…どこも怪我はなさそうだな」


「ごめんね」


 イリスはラシルの腕に付いた砂を払った。


「どうした? 鳥にでもなった気分になったか?」


 ラシルもイリスの髪についている埃を払う。イリスはされるがまま俯くと、少し恥ずかしそうに呟いた。


「鳥じゃなくて…なんか風になれそうな気がしたんだ」


「風?」


「そう。風と一つになってどこまでも高く、気の向くままに行ける気がした。風になれなくてもそのまま空に溶けられたらなあ、って。でも…」


 イリスは言葉を区切った。ラシルはイリスの頬についた砂を払い、そのまま頬に手を添える。ラシルには思い切った行動でもあったが、イリスは嫌がる風でもないのでそのままでいた。


「でも、の続きは? イリスはいつも最後まで言わないで言葉を飲み込んでしまう。今日はちゃんと言えよ」


 イリスははっとラシルの顔を見上げた。そして思いかけずイリスの手が彼の頬にあるラシルの手に添えられる。驚いて少し眼を見開いたが、ラシルはすぐに微笑んだ。反対にイリスは泣きそうに眉をきゅっと寄せた。


「消えてもいいと思ったけど、あんたに引き寄せられた時もう少しここにいたいって思ったんだ。…一緒に」


 暫くの沈黙の後の、しかも消え入りそうで掠れた声だったが、これは思い上がりでなく告白ではないだろうか? 告白するには似つかわしくないイリスの表情だけれども。


 思い描いていた夢が実現する時が来た。


「俺は、ずっと側に居て欲しい」


 ラシルはゆっくり顔を近づけ、出来る限りの優しさを込めて、イリスに口付けた。それは怖がらせないように軽く触れるだけの、可愛らしいものだった。


 離れ際、空いているイリスの手がラシルの胸元を掴む。真っ直ぐ自分を見つめる少し潤んだ瞳はかつて共に見た、ちりばめた宝石のような星空を思い出させた。


(あの時は何とか自分を抑えられたが…)


 残念ながら今は出来そうにない。イリスの髪に自分の手を滑り込ませると、ラシルは先程とは違い噛み付くような激しさでイリスを求めた。


 下唇を吸い上げ、次に全てを弄るように入れられた舌に初めは体を硬くしていたイリスも直ぐ緊張を解き、積極的に答え始める。自分からラシルの首に腕を絡めてくれたこともラシルを喜ばせた。


(初めてイリスをリスに乗せたときにも思ったが、イリスはいい香りがする)


 幼い頃に庭で摘んだ名も知らぬ仄かに甘い白い花の香り。あの頃の幸せな思い出と今の満たされた気持ちが相まって、自然に顔が微笑んでしまう。だが、その気持ちは長続きしなかった。ラシルがもう一度口付けしようと体を傾けるとイリスが胸に手を付き拒ばんだからだ。


「もう、帰らなきゃ」


 先程の情熱は微塵も見せず、イリスは顔を背け立ち上がった。


 憧れぬいた空を高く舞い上がる途中、急に羽を奪われた気分だ。胸は施しようもないほど痛い。だが、イリスの熱を知らなかった前に戻りたいとは全く思わなかった。


 あまり遅くなると確かに心配するだろう。ラシルも立ち上がるとイリスと共にリスに跨り、もと来た道を無言で帰る。無口でいる分、心で噴出し反芻する迷いと疑問を消化できない。ラシルは唯一つだけ、急に拒まれた理由だけでも知りたいと思った。


「イリス」


「さっきのこと、全て忘れてくれる? 僕も忘れるから」


 行きとは違い、なるべくラシルに凭れ掛からないように体を強張らせているイリスは、体と同様の硬い声でラシルの言葉を遮るようにそう告げた。


「何故だ?」


「最近毎日練習続きで疲れてたから、きっと魔がさしたんだよ。駄目なんだ、そういうの。僕には必要ないんだ」


「必要有る無しの問題じゃないだろ」


「僕にはやらなければいけない事があるから」


「神殿での神おろしの舞か?」


「そうだよ、どんなことをしても舞わなくてはならないんだ。だから色恋沙汰にかまけている暇はない」


「あまり楽しそうに見えないが」


 その言葉に引っかかったのか、イリスはキッとラシルを振り向き様に睨み上げた。


「楽しいとか楽しくないとかは関係ない。あんたは認めていない様だけど、僕に出来るのは舞うことだけなんだ」


 声を荒げるイリスとは対照的にラシルはそっと微笑んだ。


「いつもそうやって心の中を出せばいい。そうしたらもっと俺はイリスを知ることが出来る」


 イリスは痛みを堪える表情をし、胸に下げている袋を握った。心を落ち着けたいときに見せる彼の癖のようなものだ。


「とにかく、忘れてくれればいい」


 ぽつり、と呟き顔を元に戻した。


「イリスが忘れても俺は忘れない。俺はイリスが好きだからな」


 はっきり言葉にした告白。前を向いているのでイリスの顔色は窺うことが出来ない。


「困るよ、そんなの」


 その掠れた声に困惑以外の、ラシルを喜ばせる感情が存在したように聞こえた。


(俺の希望的観測だろうか?)


 確かめるため、もう一度目の前のイリスを抱きしめたい衝動に駆られる。それを押さえるため、ラシルはリスの手綱を血管が浮き出るほど握り締めるしかなかった。



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