第6話
最初の目的地であるトシスに着くまで地道に街道沿いの街を回った効果が出始めたのか、『シリア一座』は知らない街へ入っても名前を告げるだけで興味を持ってもらえるようになっていた。だが、シリアは浮かれたところを一つも見せない引き締めた面持ちでラシルの元へやってきた。
「今日はこのセダの街での興行だけど…」
「何か問題でも?」
ラシルは気丈なシリアにしてはめずらしく顔を曇らせていると思った。
「ここにネロール・ヘキセン公一座がいるみたいなのよね」
途中の街で何回も聞いた一座の名前だ。
「ヘキセンの所の一座と同じ位良かったよ」
誉め言葉としてそう言われたのは一度や二度ではない。それはトシスの街へ近づく程よく聞かれるようになった。この辺りで有名な一座の名前であり、神おろしの有力候補でもある。
「いたらまずいのか?」
「会うとしたらトシスの街辺りだと思っていたからね、本命と当たるのが少し早すぎると思ったの」
シリアは開演の準備を進めているイリスを見やった。
「街の人は同時に話題の一座の対決が見られるとあって楽しんでいるようだけれど、イリスはあまり人と比べられることに慣れていないのよ。今回の事がいい方に出ればいいのだけれど」
一つため息を付いてから、シリアは表情を引き締めると準備の真最中である現場へと向かった。ラシルもメノウと共にいるイリスの元へ歩み寄る。反対方向からもイリスの元に一人の少年が近づいて来るのが見えた。
「えっと、イリスは…」
人目を引く顔立ちを持つその少年は、不躾にイリスとメノウの顔を交互に見回した。
その態度にムッとしたメノウは手を上げた。
「俺がイリスだけど」
少年はメノウを見て鼻で笑う。
「お前な訳がない。同じ匂いがしないんだよね、全く」
目を見開くメノウをあっさり無視し、少年の髪と同様に明るいブラウンの瞳はイリスの前で止まった。
「お前がイリスだろ?」
「…そうだけど。じゃあ、あんたがカラムス?」
「なんだ、もうばれちゃった」
カラムスはからからっと笑い声を立てた。
彼は『ネロール・ヘキセン公一座』の看板役者だ。
背はイリスよりも少し高いくらいで、年も少しだけ上だろう。旅すがらイリスは彼と何回も比較された。イリスはストイックな美しさがあるが、カラムスと名乗る少年にはあけすけな華やかさがある。彼は急に訪れた侵入者に体を強張らせるイリスに構わず辺りを見回す。
「シリア一座のシリアってどこの貴族?」
「うちの座長だよ」
「なに? ここパトロンいないんだ」
カラムスはさも可笑しな冗談を言われたかのように笑った。
確かに旅の一座は出資者を募り、その財力の元その名を掲げながら興行を行うのが普通だ。カラムスの一座の現在のパトロンはそのままネロール・ヘキセン公と言うことになる。ただ、お金を出して貰う代わりにパトロンの要求は遵守しなくではならず、それは神の言葉と同等の力があるといっても過言ではない。パトロンが望めば余興の相手だけではなく『夜』の相手も務めなくてはならないのだ。
「イリスは男の子だけど、見た目かわいいからね。そんなことさせたら死んだ姉さんに天国で合わす顔がないから」
シリアはそう言ってパトロンを付ける事はしなかった。
「用がないならさっさと帰れよ」
今ではイリス達一座を家族同然に考えているメノウが腹立たしげにカラムスを睨んだ。
「怖いなあ。同じ旅芸人のよしみで挨拶に来ただけだからもう帰るよ。まあ敵情偵察も兼ねてるけどね。あ、そうだ」
悪びれずカラムスは答え、イリスの隣に立っていたラシルに妖艶ともいえる笑みを振りまいた。
「綺麗なお兄さん、是非うちを見に来てね。それで帰りに楽屋に寄ってよ。お兄さんとなら喜んでもっと楽しいことも付き合うから」
カラムスは言いたい事を言い、奥歯をかみ締め平静を装っているイリスを見下ろすような笑顔で一瞥し、ひらひらと手の平をふって足取り軽く去っていく。メノウは思いっきり顔をしかめて舌を出せるだけ出した。イリスはラシルに何か言いたげに軽く口を開いたが、首を振ると再び作業に取り掛かった。
(イリスはいつも自分の言葉を飲み込んでしまう)
イリスと一緒に過ごすようになってから分った彼の気になる行動の一つだ。不自由な旅まわり生活で我慢癖が付いたのかもしれないが、自分には話して欲しい、とラシルは寂しい思いをかみ締めた。
一見冷静なイリスとは対照的に、メノウは見た目に分りやすいほどいきりたっている。
「あんなやつ、今日でおしまいにしてやる。…イリスがね」
がんばれ、とメノウは力強くイリスの肩を叩いた。
セダ市民の要望でネロール・ヘキセン一座とシリア一座の公演は時間をずらして行われることになり、先に演じるのはここでは新参者のシリア一座となった。
開演前に楽屋ではユリア、チファ、コリーがお互いの手を握り合って緊張感をやり過ごしている。
「いつものようにやればいいからね」
胆の据わっているシリアは緊張感を微塵も見せない。
「そんな事言ったって今日は無理。客席の雰囲気が違うもの」
ユリアは袖幕からちらりと客席を覗き、長い息を吐き出した。ユリアの言う通り、今までとは違う。目の肥えた客が多いのだろう。
イリスは黙々と鏡に向かい化粧を施している。その表情からは感情が読み取れない。
「弱音はかないの。ほら、自分を信じて」
シリアは安心させるように笑うと、娘三人の尻を叩き舞台へ送り出した。
基本的に度胸のある三人娘はいつもの実力を発揮し、とりあえず観客の心を掴むことに成功していた。
「イリス」
シリアはイリスの両肩にそっと手を置く。イリスも答えるように軽く頷くとキッと前を見据え、舞い終ったユリア、チファ、コリーと入れ替わるように舞台の中心へ出て行った。
「ほお…」
いつものように観客席の後ろから見ていたラシルは客席から自然とこぼれるため息を誇らしさと、少々の嫉妬感を交えて聞いた。イリスは登場と同時に人々の心に上手く入り込んだようだ。演目はこれまた市民の要望で『乙女の舞』である。手の差し出し方、眼差しの向け方…イリスは今日も寸分の狂いもなく基本通り舞をやってのけた。
終わりと同時に歓声が上がる。
「よし、勝ったね」
まだ『ネロール・ヘキセン公一座』の舞を見ていないが、メノウはそう結論づけた。
「まだまだ地方にもいい一座がいるもんですねえ」
出てくる人々の感想はおおむね好評のようだ。ラシルも人知れず一安心する。好きな人の悪口は聞きたくないものだ。次に行われるネロール・ヘキセン公一座のテントへ向かう人々の流れから別れ、裏方に入る。すでに三人娘は服を着替え一刻後に行われるネロール・ヘキセン公一座へ向かって居なかった。
「イリスも見に行く?」
ラシルと一緒についてきたメノウがイリスに尋ねる。
「ん…化粧落としたら多分行くと思う。モスとジンはナナ達ともう行ったし、ミルテとアクアは席をとっておくって言って、今さっき出て行ったよ」
「何二人仲良く出かけているのさ。…邪魔しに行こ」
メノウはまた後で、と軽く手を上げると走って楽屋から出て行った。
「あまり見に行きたくないようだな」
一人残ったラシルは、近くの椅子を引き寄せると腰掛けた。
「気にしないつもりではいるんだけれど、やっぱり少し怖いかも」
二人きりだからか、珍しくイリスは弱音をはいた。だが、返ってラシルは心の一部を垣間見せてくれたことを嬉しく思った。
「行きたくなければ無理することはない」
「ううん、行くよ。現実はちゃんと見ておかないとね。でもあまりおおっぴらに見には行きたくないんだ。後ろの方でいいから、その、一緒に見てくれない?」
おずおずと頼む様子にラシルはイリスを強く抱きしめたくなる衝動に駆られる。持ち合わせている理性をかき集めてぐっとこらえると、代わりに笑顔で頷いた。
「もちろん。イリスの行くところは俺の行くところだからな」
「そうか、ラシルは僕の警護があるもんね」
薄く笑うイリスにラシルはそれだけじゃない、と心の中で呟いた。
『ネロール・ヘキセン公一座』も同様の人の入りで、すでに空いている席はなく、必然的にイリスが望んだ通り後ろで立ち見となった。
緩やかに背を壁にもたれながら見ていたイリスも姿勢を正す瞬間が来た。
カラムスの舞う『乙女の舞』だ。
イリスとは趣が違うものの、華やかな雰囲気を持つ彼も観客の心を初っ端から掴んでいった。舞が進むに連れて客は身じろき一つしなくなる。今や彼らの関心事はカラムス一人の一挙一動に注がれていた。
急に腕をつかまれ、ラシルはそちらを向いた。イリスは食い入るように舞台上を見つめているが、自力で立っていることが出来ないらしい。キッと前を見続ける横顔は微かに震えていた。
短いようで長い時間だった。
公演が終ると、人々はまだ夢から覚めないかのように出口へ向かう。
「シリア一座の子もいいと思ったけど、見比べるとやっぱりカラムスには敵わないな」
「確かに綺麗なんだけど、それだけで、何か物足りないんだよなあ」
噂の本人がここにいる事を知らない観客達は好き勝手に感想を述べた。
イリスにまだ動く気配がないので、ラシルは周りの声に耳を傾けつつ辺りを見ていた。人々の中に一つ飛び出たジンの頭を見つける。モスやナナ達も一緒にいるだろう、そのまま人の流れに乗って出て行った。ミルテとは目が合った。ラシルが軽く横に首を振ると彼も心得たもので、メノウとアクアの気を上手くそらしてイリスに気づかせなかった。気づけば必ずこちらに来てイリスを誉め、何とか励まそうとするに決まっている。麗しい友情だが、友達の慰めや激励を受け入れるには今のイリスにはまだ早いであろう。
「ごめん、ラシル。行こうか」
イリスがそう呟いた時には殆どの観客は外に出ていた。イリスはゆっくりした足取りで元来た道を辿る。その後ろをラシルは黙って付いていった。おかげで街の様子がラシルの耳に良く届く。
(賑やかだな)
広場では先程まで演目を見ていた人々が輪をつくり、各自持ち寄った楽器の音色に乗せて高ぶった気持ちを発散するように踊っている。
ふいにイリスの足が止まり、ラシルも止まると視線を戻す。振り向いたイリスは思いのほか厳しい表情をしていた。
「はっきり言って僕のほうがカラムスより技術は上だと思う。だけれど…」
イリスは不安げに一度首から提げている袋をぎゅっと握り、再び続けた。
「ラシルは僕の舞を一度も誉めたことがないよね。どこが悪いかはっきり言って欲しいんだけど」
外さない視線は射抜かれそうに強い。だが、ラシルの目にはとても痛々しく見えた。締め付けられるような胸の痛みを隠し、ラシルはその場の雰囲気を和らげるように笑い、頷く。
「分った。では、こっちに来い」
手を差し出すとイリスは戸惑った表情ながらラシルの手を掴んだ。
「どこ行くの?」
少し不安げに聞く声が愛らしい、そう思いながらも何も答えず先程来た道を戻り、途中から逸れ、人々の輪に近づいていく。同時に楽器の音もざわめきもしっかり判別できるようになっていく。
人だかりの手前でイリスはラシルの腕を引っ張って止めた。
「ここ?」
「そう」
ラシルは親指で人だかりの中心を指した。
「思いつめても仕方がない。気分転換に踊らないか?」
イリスにとってそれは思いがけない誘いだったようだ。
「そんな気になれないよ。それに早く帰って出しっぱなしの道具をしまわないとシリアに怒られる」
「誘ったのは俺だから、俺がかわりに怒られてやる」
「シリア怒らすと怖いよ」
「もう二月も一緒にいるんだ、それくらいは知っている。だから誠意を尽くして謝れば地獄の門番を怒らせた為に頭からバリバリ食われた哀れなキノリンにならなくて済むことも知っているのさ」
「でも…」
煮え切らないイリスの言葉を遮るように、輪にいた中年の女性が声をかけてきた。
「あんたたちも踊るかい?」
「ええ、よければ」
ラシルはイリスが何か言う前にミルテの真似をして微笑んで見せた。
「じゃあ、中に入りなよ」
勧めた女性は頬を染めながら二人の背中を押して中心へいざなった。
「え、ちょっと僕は…」
イリスは断りの言葉を口にしたが、残念ながら周りからあがった拍手にかき消されてしまい、帰るに帰れない状態となってしまった。
この集まりの中心人物らしき男が音楽の触りを聞かせラシルに顔を向ける。
「この曲を知っているか?」
「俺は子供の頃に踊ったことがあります」
イリスは知らない、と小声で言った。
「では次はこれで」
またまた残念な事にイリスの声は男に届かなかったらしい。男が手を上げると曲の前奏が始まってしまった。
イリスはもともと知らないし、そもそも踊る気分になれないのか一歩下がる。ラシルはイリスを見たが、彼は首を横に振った。
(仕方がない)
ラシルはイリスに向かって肩を軽く竦めると輪の中心で頭に巻いていた布を解いた。
「おお」
周りから感嘆の声が上がる。女性からはため息が聞かれた。いつも隠している分、ぱっと目の前に広がる鮮やかな金髪が及ぼす効果をラシルは知っていた。
子供の頃の記憶を手繰り寄せながら曲にあわせ手足を動かす。さすがに昔のようには軽やかにいかないものの、意外に覚えている自分に驚いた。
ラシルの人目を引く登場に目を奪われたまま周りの人々は動けず、初めはラシル一人で踊っていた。だが、途中から誰からともなく歌声と手拍子が始まり、曲が終ると歓声と拍手が再び起こった。
イリスも目を丸くして驚いている。今まで踊る姿など見せたことがないので、彼の中では意外だったに違いない。
「金髪のお兄さん、あんた中々やるじゃないか」
先程の男がにこやかに手を叩きながら近づいてくる。
「しかし、都風の踊りだな。ここで一緒に楽しみたければこうだ」
男は再び手を上げて曲を始めさせると踊り始めた。周りもそれに合せて踊り出す。輪に入れてくれた女性が近づき、熱っぽい視線と共に『セダ風』の踊りを教えてくれた。
「わかった?」
そう聞かれたが苦笑しかできない。基本的には同じなものの、左右ステップの違いや全く違うところもあり、知っている通りに覚えこんでしまっているラシルの脳は混乱し始めてきた。
「違うよ」
間違って踊るラシルを見かねてイリスが声をかけてきた。
「ここは、こう」
正確に踊ってみせるイリスにラシルは驚いた。
「知らないんじゃなかったのか?」
「一度見ればだいたい覚えられるよ」
「それはすごい特技だな」
ラシルが感嘆の声を上げるとイリスはやっと、軽くだが、微笑んだ。
「あら、こちらは可愛い子ね。覚えたのなら一緒に踊りましょうよ」
なかば強引に女性に手を取られ、イリスは苦笑しながらも輪の中へ一歩ふみだした。
初めは乗り気でなかったイリスもだんだん興が乗ってきたようで、2曲目、3曲目と進むうちにラシルよりイリスの方が輪の花形になっていた。
「うまいわ、ほれぼれして見とれちゃう」
ラシルにとっては当然と思うのだが、ここにいる誰もがイリスが『シリア一座』の看板役者であることに気づいていない。目の前の女性も例外ではなく、見目よい二人と楽しく踊れることが純粋に嬉しいらしい。イリスの顔にも笑顔が戻り、声を立てて笑うまでになった。
(今のイリスは生き生きとして綺麗だな)
そう思うのはラシルだけではないらしく、イリスに色々な人からお誘いがかかる。
「お兄ちゃん、もう一曲踊らないか?」
「いいよ」
イリスを中心にどんどん踊りの輪が広がっていく。皆微笑み、楽しそうだ。
(イリスには人を幸せにする能力がある。ただ、それが自覚できるかどうかだな)
途中から観客に転じたラシルは家の壁にもたれながら輪の中心の、ひときわ眩しく見えるイリスだけを見ていた。
「なんか、すっごく楽しかった。嫌なこと全部忘れてもう無我夢中で踊った感じ」
夜も更け始めたので、皆名残おしそうではあったが解散し、ラシルとイリスも帰路を辿る。来たときとは大違いでイリスはまだ少し昂奮冷め遣らぬようだ。
「連れてきてくれてありがとう。十分気分転換になったよ」
イリスはにっこり微笑んだ。
「これが俺の答えだ」
「…え?」
イリスは意味が分らない、と顔に書いて振りむいた。
「俺に聞いただろ? イリスの舞に何が足りないかって。だから、こういう気持ちじゃないのか? 足りないのは」
ラシルはイリスの瞳を見返し、ゆっくりとかみ締めるように言った。だが、イリスからは何の返事もなく、ただ瞬きを忘れたようにじっとラシルを見返すばかりだった。