第26話
イリスはゆっくりと瞳を開けたが、自分が今どこにいるのか全く分らなかった。そのままぼんやりとした頭で、天井に映る揺れる影を見つめた。
ちゃんと捕まったのだろうか。
だが、牢の中とは思えない。イリスの体の下には柔らかな布が敷かれており、丁寧にケットまで掛けられていたからだ。
「気づいたか?」
声のする方に瞳を向けると、ラシルが安堵の色を滲ませながら微笑んでいた。
(ここは天国かもしれない)
イリスもつられる様に微笑み返した。会いたい人に会わせてくれるとは神もなかなか粋な事をしてくれる。
ラシルは腕を伸ばすと、イリスの髪を何度も何度も梳く。その心地よさに初めはうっとりしていたものの、そのあまりの生々しい感触にイリスは顔色を変えた。
「本物!?」
イリスは起き上がるとラシルの腕を掴み尋ねた。ラシルはイリスが掴む腕の力に驚いた表情を浮かべたが、直ぐ笑顔に変えた。
「俺の偽者がいるとは知らなかった」
イリスは唖然とラシルを見つめた。それが済むと次には怒りが涌いてきた。
「嘘つき。インセンから出るって約束したのに!」
「一人で出るとは言ってないぞ。『出る時はイリスと共に』と言わなかっただけだ」
怒るイリスにもラシルは表情を変えない。イリスの側にいられるのが嬉しいらしい。その表情を見ているとイリスも怒れなくなってくる。
「…詭弁だよ」
そう言うのが精一杯だった。
イリスは落ち着くと、今度は神殿のその後が気になりだした。気を失ってからどうなったのだろうか。
「忙しいな。気持ちは判るが、もう少し休んだらどうだ?」
ラシルは笑みを苦笑に変える。
「もう元気だよ。シリアがどうなったか知らない?」
初めはイリスとシリアの二人が首謀者として捕まる事になっていた。だが、イリスは自分一人で罪が被れる様であるならばそうしたいと密かに思っていた。ナナの為にもシリアには生き残って欲しい。それなのに、自分だけ助かり、シリアが捕まっていたのでは全くイリスの意志に反する。
「客席で姿を見た。ジンが連れ出す手筈になっていたが、きっと上手くやってくれているだろう、としか今はいえないな」
それぞれの役割をこなした後、皆決められた場所に避難するのだが、安全を考えて一箇所にしなかったと言う事だ。
「皆が無事だっていつ分る?」
「明日には」
「そう。一つお願いがあるんだけれど」
イリスは表情を引き締め、ラシルを見た。
「無事が確認できたら、僕をサンデラ将軍の所に連れて行ってくれない?」
ラシルは驚きの声を上げた。
「父に会うのか?」
「うん。舞手に推薦してもらったのに、こんな事に巻き込んで申し訳ない。せめて僕を引き渡す事が出来れば罪も軽くなるんじゃないかな」
ラシルは首を横に振った。
「父が聞いたら断るよ。そういう人だ」
「でも嫌だよ、迷惑かけるの」
食い下がるイリスにラシルはため息を一つ吐いた。
「怒らないと約束してくれたら、話したい事ががある」
ラシルの前置きに怪訝の顔をしながらもイリスは頷いた。
「イリスとシリアには秘密にしていたが、父サンデラとコヨルテは手を組んだんだ」
思いがけない言葉に、イリスは怒るどころではなかった。理解できなかったと言う方が正しいかもしれない。
「ありえないよ」
あまりのことに思わず軽く笑ってしまった程だ。サンデラとコヨルテはいわば『犬猿の仲』。…すくなくともコヨルテの民は国を滅ぼしたサンデラ将軍を憎んでいるはずだ。
「コヨルテが今後反乱を起さないという代わりに今日の計画に父が手を貸すってね。今回の計画は正直父の協力無くしては成功しなかったと言ってもいい。それにイリスを最終的に舞手に選んだのは王自身であることが重要だ。父一人を誰も責めはしないさ」
「なんだ…、そうだったんだ」
イリスは急に肩の力が抜けた気がした。
「だが、一つ計算外だったことがある。イリスの舞だ」
「僕の舞?」
どうしてなのか分らない。何かまずいことでもしただろうか。不安の表情をみせるイリスにラシルは起用に片眉を上げた。
「やはり『奇跡の舞手』と言われただけはあるな。雨が降った事を覚えているか?」
「なんとなく」
はっきりとは覚えていないが、そんなような気もする。
「あれで神官長は大慌てだ。イソアミルの神がベチベル神の舞を喜んでいるってね。民衆もそう信じるとやりやすいのだが」
王より上は神しかいない。その神が認めたのなら誰も文句は言えないだろう。
イリスは自然に目から一筋涙が零れ落ちた。
「僕、死ななくていいかもしれない」
覚悟をしたと思っていたが、今思うと全く出来ていなかったようだ。実は心のどこかでとても恐れていた。怖かったのだ。
震えるイリスをラシルは優しく抱きしめてくれた。
「死ぬのは俺が許さない。それに、まだ計画は終っていないんだ。最後にやらなければならないことがあるのだが、それが上手くいくかどうか一番気がかりなんだ」
ラシルは眉を寄せた。腕の中から見上げたイリスも同じように眉を寄せる。
「それは、何?」
「最後にイリスを連れて約束どおりインセンを出たいのだが、イリスは俺について来てくれるだろうか?」
真面目腐った表情に、イリスは思わず噴出してしまった。
「ラシルらしくないね。だめもとで説得してみたら? 本人も目の前にいる事だし」
イリスの言葉に、ラシルは不敵な笑みを浮かべた。
「それはそうだな。イリスがどの方法で堕ちるか分らないから色々試すとしようか」