第25話
今日で最後の潔斎が終了した。
イリスは水気を取るために用意された布で体を拭うと、真新しい服に袖を通した。今日の舞台衣装である。絹でできた真っ白な生地の襟首には本物の金糸で絡まる蔦が刺繍されている。体に吸い付くような感触が心地よい。
今のイリスは不思議なほど心穏やかだった。
(最後にラシルに謝れてよかった)
彼はまた会えると思っているようだが、今生では無理だろう。彼もインセンを出ると約束してくれたし、今では憂いは何もない。
「済んだのなら此方へ」
「はい」
神官に連れられて、イリスはひんやりした石の廊下を無言で渡った。窓を通し、空からはうららかな春の日差しが柔らかく降り注いでいる。
すでに式典ははじめられており、一目見ようと駆けつけ、入る事を許された幸運な市民が眼下にくり広げられる洗練された儀式を見守っている。外からは入りきれなかった市民が新たな名所でせめて思い思いの春の祭りを楽しもうとする活気に満ちた声や音が聞かれた。
儀式は劇場形式に円状に作られた神殿の広場で行われている。石の階段に観客は座り、その上には日よけの為に大きな布が天井代わりに張られている。客席の二階中央部にはカルート王とその妻メリッサ。脇侍を神官長と宮内大臣シプレが陣取り、各諸侯とその妻もその後ろで式の進行を見守っている。
一方、舞台上は上を覆う布はなく、明るい日差しが白い石に反射して輝き、荘厳でそこだけ異空間であるかのような効果をもたらしていた。
戦勝記念と神おろしを兼ねた儀式は威厳を見せ付けるためか長丁場だった。
「では、いきなさい」
神官の合図でイリスはゆっくり歩み出る。
すでに陽は傾き、辺りには松明もともされた。それでも観衆が帰らなかったのは偏に『奇跡の舞手』と称された前評判の高いイリスの舞を見るためだ。
イリスはキッと前を見た。
最後まで舞いきれるとは思っていない。ただ、気づかれて捕まる前にせめてベチベル神の祝福の祝詞を叫ぶつもりだ。そうしなければなぜ自分が捕まるのか、ここの神殿にどの神が下ろされたのか観客にはわからないだろう。
イリスが舞台の中央に現れると、ざわめきが一転、静寂に包まれた。誰もがイリスの一挙手一投足に注目する。松明の明かりは揺らめき、時折はぜる。幻想的な雰囲気だ。
どこかにいるだろうシリアの姿を探したが、客席は暗く分らなかった。舞をする時いつも正面で見ていてくれたラシルがいない事は分っていたが、代わりに先日唇付けられた右手の甲が熱く感じられた。
イリスは正面のカルート王に決められた通り礼をして、始まりの型を取る。
(さあ、最後の舞だ)
イリスはゆっくり動き出した。楽器も拍子もない、ただイリスの動きのみの舞。
人々の意識を絡めとリ奪うように優雅に指先を動かす。次第にため息さえも聞かれなくなり、イリスは静寂の支配者になった。
自分の意識が舞に入り込んでしまう前に、イリスは気づかれないようにゆっくりと舞を変えていく。
(スカトル国の崇めるイソアミルの舞から、コヨルテの民が信仰するベチベル神の舞へ)
イリスは舞を変え終わると心に従い、自分の意識を開放した。そうすると舞い終わるまで意識は自分の元には帰ってこない事は経験上知っているが、逃げるつもりは全くない。後はなるようになれ、だ。全てを受け入れる覚悟はもう出来ている。
あまりの滑らかな舞の移行に観客は言うまでもなく、インセンの神官でさえ、舞の途中まで気づかなかった。
「舞が違う!」
カルート王の隣にいた神官長が顔色を無くしつつ立ち上がり叫んだ。その声でイリスの舞に見とれていた神官たちは驚き、それを聞きつけた近くの観客が騒ぎ出した。
「何をしているの? 早く止めて頂戴!」
もともとこの神殿の建設を思い立った王妃のメリッサは倒れんばかりだ。
「今すぐやめさせるのだ」
神官長の怒りに震えた指示に、慌てて舞台に飛び出した神官達は再び驚き、天を仰いだ。
「…雨だ」
夕闇せまる緋色の空から雨がさらさらと降り注ぐ。松明の暖かい光に照らされた雨は、金糸が舞い降りてきたようだった。
「神が望んでいるのか…?」
雨は神が喜ぶ御験。屋根の下にいる観客にも雨が降っていることは一目瞭然で分かり、騒いでいた人々は一気に静まり返った。そして優しい雨に濡れながらイリスが続ける異教の舞を、ただ息を呑んで見つめていた。
雨が降っていることは意識の遠くで分ったが、イリスは気にすることなく舞い続けた。ただ、続けられる事が嬉しかった。そして終るのが悲しかった。
最後の舞を終え、イリスは息を弾ませながらも今までにない充実した気持ちに浸っていた。
(いつまでもここにいたい。そして舞続けたい)
そう心は強く望んだが、イリスには最大の役目がまだ残っている。コヨルテの民の首謀者としてここで捕まるのだ。
イリスは自分を呼び戻すと、カルート王を見上げた。周りが舞を終えたイリスの扱いにあたふたしている中、王一人が悠然と、しかも笑っているようにさえ感じた。どんな時でも冷静を保つのが王たる者かもしれないが、イリスは王の態度に違和感を覚えた。
誰もイリスに近づこうとしないので、さらにベチベルの祝福の祝詞も叫んだ。人々には完全にこの神殿に彼らにとっての異端の神、ベチベルが下ろされたと見えただろう。
「とりあえず、拘束しろ」
そこまでしてやっと結論が出たようだ。
(そうこなくっちゃ)
イリスは微笑み、捕縛者を待つ。彼らが舞台端から現れたのを見た時、神殿内が閃光に包まれた。
イリスはあまりの眩しさに目を瞑ったが、次にあけた時は何故か真っ暗だった。どうやら全ての松明が消されたようだ。
ばさっと大きなものが落ちる音がして、客席の方から悲鳴が上がる。同時に風圧も感じた。あちら側では混乱が起きているらしい。
(何?)
全く事態が分らないイリスは立ち尽くした。
「あっ」
不意に後ろから胴をつかまれ、鳩尾に痛みが走る。
「すまない、後で幾らでも怒られてやるから」
遠のく意識の彼方でイリスはそんな声を聞いた。