第24話
ユリアの話によると、今日王宮で会ったイリスは少し痩せたものの元気そうだったらしい。
ラシルはベッドに横たわり、天蓋からベッドを覆うように垂らされた薄い幕越しに銀色に輝く鈍い月を見た。屋敷のすべての部屋は母の趣味がふんだんに反映されている。天井から吊るされたこの天蓋と天幕もその一つだった。
偶さか揺れる幕に月の光も揺れる。今晩は春にしては暖かい夜で、風を入れるため窓を少しあけておいたのだ。風は優しい愛撫のごとく、ゆっくり幕を撫ぜていく。
(イリスも昔、風になりたいといっていたな)
今ごろ彼は何をしているだろうか。もう潔斎を終え、眠りについているだろうか。
「イリス…」
ラシルは今まで我慢してきた言葉を呟いた。
イリスを救うための計画はいろいろあったものの順調に進み、大詰めをむかえている。途中から仲間に加わったチファとコリーは張り切り、しかも空回り気味に頑張るので、こちらがハラハラする程だった。
「イリスを逃がすには囮がいた方が敵の目を欺けていいと思うの」
チファの提案に一同賛成し、アクアとメノウに白羽の矢が立った。だが、二人は露骨に嫌な顔をした。
「俺達がすんの? やだよ。ひたすら逃げるのじゃくて、もっとカッコイイ役がしたい」
「背格好が同じなのはあんた達くらいじゃない。しかも二人も。それに、みんなあんた達をイリスだと思って追いかけてくるのよ。これ以上目立つ役割はないわ」
チファも負けずに言った。その言葉に乗り気になった二人は承諾したが、コリーの言葉を聞くや、すぐさま後悔した。
「イリスと同じ衣装を作ってあげるし、ちゃんとイリスに見えるよう可愛く化粧してあげるからね。試しに今やってみようか?」
「やっぱ、やめた」
話の流れにあわてて逃げ出す二人は、別の話し合いをしていたラシルのうしろへ逃げ込んできた。
「捕まえて!」
チファの叫びにラシルはとりあえず二人の首根っこを掴んだ。
「離せよ!」
「何をした?」
もがく二人にラシルは尋ねた。
「したんじゃない。俺達がされるんだ」
「ありがとう」
にっこり笑うチファの後ろには、両手にしっかり化粧道具を抱えたコリーが立っていた。
ラシルはやっと夢が叶うとばかりに口端を上げたコリーの笑みが印象的だったのを思い出した。彼女は前々から双子に化粧を施すのが夢だったのだから無理もない。結局双子は彼女達に部屋の奥へ連れて行かれ、散々顔に塗りたくられ同時に説得され、渋々その囮役を引き受けた。その二人も今は『光玉』と名付けた、彼ら曰く新兵器の仕上げに余念がない。
(それぞれに協力してくれているんだな)
ラシルも出来立ての神殿の内部を見てきた。これは父の力を借りざるを得なかったが、これでぐっと計画も具体性を帯びてきたと言っても良かった。
一人ではさすがに神おろし前の神殿には入れてもらえないので、父と共に神殿を訪れた。父と二人での久しぶりの外出にくすぐったさを覚えたが、今ではもう前程のわだかまりは感じなかった。
神殿内の見学を装って辺りの様子、通路の配置などを頭に入れていた時、頭上から懐かしい声が響いた。
「ラシルではないか?」
見上げると二階のバルコニーから小人数の部下を引き連れたカルートが立っていた。
「カルート…王」
まさかここで王に会うと思っていなかったラシルは慌てて跪き、頭を下げた。隣でも同様にサンデラが腰を折る。
(先日コヨルテの代表と逢わせた意趣返しといったところか)
ちらりと横目で見たサンデラのその口端には少しだが、隠し切れない笑みが浮かんでいた。
二階から降りてきたカルートはラシルの前に立つと親しげに肩を叩く。
「十年以上の歳月はラシルをすっかり少年から大人に変えてしまったな。そしてますます将軍に似てきたよ」
皇太子時代の気安さで声をかけてくれたカルートがラシルには嬉しかった。
「カルート様も立派な王になられました。地方でも噂はよく耳にしました」
カルートは軽やかに笑う。
「地方を廻ったのであれば、いい噂ばかりではなかろうな。将軍の元を飛び出してからは傭兵として身を立てていたとか」
王はどこまで知っているのだろうか? ラシルは警戒しながらも顔に出さす頷いた。
「はい。しかし新しい神殿の噂を耳にして、是非とも一目みたいと思い、帰ってきました」
「いい父親を演じたいばかりにシプレが張り切りおって」
カルートは神話の一説が彫刻された石の壁を二、三度叩いた。
神殿は街の中心から少し外れた場所に建てられている。大きさも小ぶりだが、その分細部にまで至る所に装飾が施されており、神殿に相応しい重厚さがあった。
「でもこの神殿に見合う良い舞手が見つかったよ。将軍のおかげでね」
ラシルは鼓動が速くなるのを感じた。イリスのことだ。
「聞けば一日で決まってしまったとか」
「ああ、他の者に舞わせるのが可哀想になるくらい圧巻だったからな、やめさせた。あれは奇跡の舞手だ。今までインセンで知られていなかったのが不思議なくらいだ」
カルートのもっともな指摘はラシルをどきっとさせたが、イリスが誉められるのを聞くのは悪くない。ラシルは笑顔にならないよう努めなくてはならなかった。
「ラシルはこれからずっとインセンにいるのか?」
話題は変わり、ラシルの今後の身の上に移る。
「今は母の所に身を寄せています。その後の事はまだ、分りません」
神おろしの後は十中八九いないとは思うが、答えを曖昧にした。はっきりとは答えられないが、ラシルはカルートに嘘をつきたくなかったのだ。
「それでは、神おろしの儀式で今はいそがしいが、終わり落ち着き次第私の元で仕えないか? 周りは年寄りばかりでな、病気の話にはついていけぬ」
笑うカルートの思わぬ申し出にラシルは驚き、再び膝を折った。
「大変ありがたい申し出ではありますが、私は今や一介の傭兵で、大切な仲間も出来ました。それに、傭兵家業の方が宮廷仕えよりも性にあっているのです。若者をお望みでしたら私ではなく、私の弟をお役立てください」
ラシルにはサンデラが本妻に生ませた腹違いの弟がいる。兄弟でも母方の権力の強い方が家を継ぐ事が世の習いであり、それに則るならば弟がカルート王の元で働くのが良い。昔は反発したが、現在では気楽な今の立場が気にいっている。
「メントルか。悪くないが、彼は若すぎるしあまり外に出たがらないのだ。私としては一緒に遠駆けをしてくれる相手が欲しいのだが」
ラシルは答えようがなく、ただ頭を下げた。
「考えておいてくれ。神おろしの儀式が済んだらまた会おう。今日はゆっくり神殿内を楽しんでいけ」
そう言ってカルートは部下を引き連れ、颯爽とその場を立ち去っていったのである。
(神おろしの儀式が終ったら…)
思い出から戻ってきたラシルは頭の後ろに両腕をまわした。思い描くように上手く事が運ぶであろうか? 人前では不安な顔を見せられない分、寝る前、一人になると嫌な想像ばかりしてしまう。
悪い考えを振り切ろうと目をぎゅっと瞑った時、天幕が大きくゆれ、ラシルの肌を撫でた。続いて窓枠のきしむ音がする。
(誰だ?)
枕元においてある剣に手を伸ばしたが、風と共に漂う香りにラシルの動きは止まった。
庭に咲く白い花の香りと似ているが、春先とはいえまだ咲いていない。ラシルの記憶の中でその香りを漂わせるものはあと一つしかなかった。
「イリス…か?」
月の光を浴びてそっと立つイリスの姿はおぼろげで儚く、そして夢のようだった。
(夢かもしれない)
確認したくてラシルは幕の外に出ようとした。
「駄目、出ないで」
イリスは歩みを止めたが、ラシルがイリスの言葉に従うと分ると再び近づいてきた。
「今日から潔斎が始まったんだ。本当は宮殿から出る事も許されてないんだけれどね」
「では、どうしてここに?」
「聞きたいのはこっちだよ。ユリアに渡した手紙を読んだのなら、どうしてまだインセンにいるんだよ!」
気持ちに任せ、イリスは幕を掴んで叫んだ。
ラシルの答えは考えるまでもなく決まっている。
「俺はずっとイリスと共にいたいんだ」
言葉を切り、ふわり、とラシルは笑った。
「会いにきてくれて、そんなに嫌われていない事も分って安心した」
思い切ってラシルはイリスの手を幕越しに握った。体を硬くする振動は伝わったが、それ以上拒否されることはなかった。
「お願いだから、何も聞かずにインセンを出るって言ってよ」
震えた口調で哀願するイリスだが、承諾するまで引かない意思も伝わった。
「わかった、出るよ」
ラシルが答えると、やっと安心したようにイリスは微笑んだ。羽のように柔らかく、軽やかに。
「よかった。本当はあんな別れ方して後悔してたんだ。ラシルは何も悪くないのにね。ごめんね。今回舞手に選ばれたのもラシルのおかげだし、いろいろ迷惑かけちゃった」
ラシルはイリスが最後の別れの挨拶をしていることに心が痛くなる。
「迷惑とは一度も思った事がない。これきり会えなくなるわけじゃないし、どうした?」
ラシルは再び力が漲るのを感じた。絶対成功させてイリスを救う。一方のイリスは暫く沈黙をした。
「…そうだね、変だよね、僕。でも、本当にラシルと旅して楽しかったし、それに」
イリスは涙をやり過ごし、俯いてぼつりと呟く。
「逢えてよかった」
儚げで頼りないイリスの風情に思わずラシルは掴んでいるイリスの手の甲に、幕越しだが、口付けた。
「ラシル!」
驚いたようにイリスは顔を上げたが、直ぐに仕方がないように微笑んだ。
「僕、今、潔斎中なんだけど」
「これくらいなら神も許してくれるさ」
「そうだといいけど」
本当にしたい事に比べれば全く可愛らしいものだ。
「じゃあ、もう僕戻るね」
名残惜しそうにイリスは立ち上がる。
「イリス」
「…さよなら、ラシル」
顔に笑みを浮かべ、ラシルを暫く見つめた後、イリスは振り返ることなく元来た窓から軽やかに出て行った。
再び一人になったラシルは、急に今までの出来事が夢だったのではないかと思いはじめた。自分がイリスを想いすぎての幻覚だったのではないか、と。
天幕の隙間をすり抜け、ラシルはイリスがいた場所に触れてみた。少し温かかったが、それは直ぐに消えていく。だが、イリスの残り香は消えずにラシルを包む。
「イリス…」
ラシルは呟くと彼が出て行った窓へ向かった。その窓枠には百合の花が精巧に模られた轡が置かれており、月明かりを浴びて鈍い光を放っていた。