第23話
イリスはベッドの中で朝の爽やかな光に包まれつつ思いきり伸びをして、幸せな気分に浸っていた。
「いい夢だったな…」
部屋にはイリス一人しかいないので、その呟きに答えるものはない。
偶さか見る夢は、神おろしに失敗する場面をみせてイリスを苦しめる日もあるが、母やシリア、アクアやメノウなど今では自由に会えない仲間たちとの再会も与えてくれる。昨晩は夢を司る神がご機嫌だったようで、イリスが会いたくてやまない人をイリスに会わせてくれた。現実ではもう叶わないが、夢の中では好きなだけ触れられ甘えられる。
(ラシル)
もう一度夢を思い返し、ケットをぎゅっと抱きしめたが、もう直ぐ朝食の時間を告げるイリスの世話係を兼ねた監視がやってくるので仕方なく起きる事にした。
裸足で降りた石の床はもう前ほど冷たくはない。試演の日以来、イリスは王宮の一角にあるここの部屋に通され、一冬を過ごしたのだ。
ノックの音が響き、イリスは顔を上げた。
「おはようございます、ミオシスさん」
「おはよう、イリス。あら、まだ起きたばかりかしら?」
ミオシスは笑いながらまだ寝癖の付いたイリスの髪を手串でといた。彼女はイリスの監視役兼世話係のうちの一人で、本来は王宮内にある神殿で雑用をこなしていると言う。身長が高く肩幅がしっかりしており力強そうな反面、繊細な心遣いを多分に見せる器用な部分も持ち合わせていた。
イリスにとってミオシスが世話役の中で一番気の合う話し相手であり、彼女と仲がよくなるにつれて色々な事を教えて貰った。神おろしの儀式ではスカトル国の最高神であるイソアミルの舞を舞わなくてはならず、イリスに教えるため王宮の神官がやって来た。だが、イリスはその日一日で覚えてしまい、何回やっても完璧に舞って見せるので、毎日続くはずだった練習は週一回に変更された。それもただ覚えているかの確認だけなので短時間で済んでしまう。
「神官はあなたのことを神童って言っていたわ。恐るべき才能だって」
ミオシスは感嘆の面持ちでいい、さらにイリスの知らなかった事を教えてくれた。
「試演だって、本当は初めの日に半分の五人に絞って、また半月後に三人、また半月後に最終的に一人にしようとしていたのを初日で決めちゃうくらいだから当然よね」
春の祭りに合わせた神殿の神おろしにしては試演の時期が早いと思っていた謎が解けた。おかげでイリスはほぼ三月という長い間、神殿に半ば閉じ込められるように過ごさねばならなかった。だが、初めは制限されていたイリスの行動も大人しく言うことを聞いていた事もあり、徐々に緩められ、今では庭や図書室などある程度の範囲を動けるようになっていた。
(まるで羽を切られた鳥のようだ)
本当の意味での自由はない。仕方なく練習のない日などは庭で日向ぼっこをしたり本を読んだりと暇な時間を過ごしていた。
(でも今日は暇つぶしする必要がないんだ)
イリスは自然と笑みを浮かべた。月に二度だけ面会を許されており、今まではシリア一人しか許されなかったが、本番を十日後に控えた今日はイリスの願いが聞き届けられ、仲間全員と会うことが許されたのだ。
長く感じられた再会の時間までを何とかやり過ごし、ようやく待ちに待った時間を迎えた。
「イリス!」
一番に走り寄ってきたのはナナだった。だが、いつものように飛びつかず、手前で止まると照れたように微笑んで見せた。
「ちょっと背が伸びたみたいだね」
毎日見ていると気づかないが、三月も会わないと変化が著しく見て取れる。飛びつかなかったのはナナが見ない内に少し大人になったのだろうとイリスは一抹の寂しさを感じた。
「元気そうでよかったわ」
シリアはイリスをぎゅっと抱きしめた。
「うん。そうそう、今日の夜から潔斎が始まるよ。それから…」
イリスはシリアに近況報告を始めた。行動が限られているイリスは大して話す事もなく、前回会った時と代わり映えのない内容だったが、シリアはイリスの発せられる言葉をすべて大事な事柄のように一言一句かみ締めて聞いてくれた。
「ユリアもチファもコリーもお久しぶり。元気だった?」
三人は揃って頷いた。確かに三人とも活き活きとして、自信に溢れているように見える。
「三人とナナは私と別れてジュネルさんに預けたの」
シリアはまだイリスを離さないまま言った。イリスにはこの中で誰よりも気丈なはずのシリアが一番弱々しく見えた。イリスが手放すとシリアは倒れてしまいそうだ。
「そうだ、ナナに渡すものがあるんだ」
イリスはシリアからそっと離れ、引き出しにしまっておいた小ぶりの箱をナナの目の前に差し出した。
「あけていい?」
思いがけない贈り物に目を輝かせながらナナは蓋を開けた。中にはピンクの石で模られた美しい花柄の櫛が入っている。イリスがナナのためにインセンの店で探したものだ。
「すごく綺麗。ありがとう!」
ナナは昔のようにイリスに飛びつき、感謝の意を述べた。
(こんなに喜んでくれてよかったな)
イリスもナナの体をしっかり抱き返した。こうするのもきっと最後なのだろう。
「今度の神殿での舞が終ったお祝いにつけるから見てね」
無邪気に答えるナナにイリスの心は痛み、シリアを見上げた。シリアも眉を寄せながら首を横に振る。ナナは神おろしの舞が終った後、またイリスと会えると思っているのだ。
「うん。楽しみにしているよ。大切にしてね。でも今のナナには少し大人っぽいかな」
冗談めかしてイリスは笑った。監視の女官の手前、ということもあるが、一番は喜んでいるナナに事実を告げて悲しませたくなかった。
「そんなことないよ」
「そうだね、ごめん」
膨れるナナの頬をつついてイリスは再び笑った。
「イリスは何も心配しないでしっかり役目をはたして頂戴!」
「そう、大丈夫だから!」
コリーとチファは今までになく力強い応援をくれた。あまりの意気込みにイリスは違和感を覚えつつも微笑んだ。
「う、うん。ありがとう。がんばるよ…」
本当はユリアに聞きたいことがあったのだが、シリア達の手前なかなかその機会は訪れなかった。
「時間です」
シリア達をこの部屋まで連れてきた女官の無常な声が響く。全ての仲間と抱き合い、シリアを先頭に皆名残惜しそうに出て行く。その時最後尾を行くユリアをやっと捕まえる事ができた。
「ねえ、手紙渡してくれた?」
小声で聞くイリスにユリアは微笑んで頷いた。
「よかった」
これでラシルを巻き込まなくてすむ。安堵のため息を付いたのも束の間、ユリアは思いがけない事を言った。
「でもラシルはまだインセンにいるわ。彼があなたを置いていけるわけないじゃない」
「うそ…」
イリスは驚きのあまり思考が停止してしまったように思った。
(どうして)
急に不安にさいなまれたイリスは再び口を開こうとしたが、ユリアは女官にせかされ、小走りで部屋を出て行ってしまう。
(そんな…ラシル!)
異教の舞を舞うイリスをインセンに連れてきて、そのうえサンデラ将軍に推挙までした彼は、いくらサンデラ将軍の息子とはいえ許されないだろう。
その後のイリスは上の空で、潔斎のためにこれから神おろしの日まで毎日入ることとなる沐浴場の水の冷たささえ全く感じなかった。