第21話
初めて足を踏み入れる王宮はさすがにイリスを圧倒させた。
マグリア・ナリシの屋敷のように金に物を言わせた建て方ではなく、天井から床、調度品までスカトル国のカラーである青を上手に取り込みながら上品にまとめられている。その上、歴史が培った厳かな空気が加わり、ここに来る全ての者は自然と畏敬の念を抱かざるをえない。
イリスの前にはサンデラ・クロブが武人特有の颯爽とした歩調で歩いている。
初めてシリアからサンデラ将軍に推薦を頼むと聞いた時、イリスは彼女の正気を疑った。
「本気?」
「ええ、今のままでは他の貴族は当てにならないから」
イリスは憎しみの表情を露にするとシリアに詰め寄った。
「でも、あいつは皆を死に追いやった張本人じゃないか。奴に頭を下げるくらいなら、もう一度マグリア・ナリシに頭を下げた方がまだマシだ」
「その気持ちは私も同じよ。でも現実的にはもう八方ふさがりなのよ」
宥めるように言うシリアに、イリスは唇をかんだ。
「だってサンデラは…」
ラシルの父親だ。イリスは弾けるようにシリアを見た。
「もしかして、ラシルが言ったの?」
「そうよ、彼はサンデラ将軍が私達を舞手として推薦するよう働きかけてくれたの」
ラシルが全てを知っているとは露ほどにも知らないイリスは、先日のマグリア・ナリシに対する失態を悔やんだ。
(サンデラは許せないけれど、彼を巻き込むとラシルが悲しむだろうな。どうせ巻き込むならひとでなしのマグリア・ナリシのほうが良かった)
そう思いつつも、一方ではコヨルテの生き残りの人々の前で誓った自分の言葉も思い出していた。
(僕は絶対選ばれないといけない)
そのためには、やはりサンデラ・クロブに頼る他はないようだ。シリアの言うとおり、今のままでは舞手に選ばれるどころか、試演にも出られそうにない。
(ごめんね、ラシル)
そう心で呟き、シリアに頷いた。
「よく決心してくれたわ」
シリアはイリスを抱きしめると早速部屋から出て行った。今ではもう双子は出て行ってしまい、イリス一人の部屋になっている。急に広く感じられた部屋の隅にあるチェストの引き出しからイリスは紙とインクを取り出し文をしたためた。散々迷い何度も書き直したが、漸く出来上がった手紙を蝋できっちり封をすると、迷わずユリアの所へ向かった。
「お願いがあるんだけれど」
二人きりになったことを確かめてからイリスは切り出した。先程書いた手紙をユリアに渡す。彼女とはネリの村でお互いの胸のうちを明かした相手であり、頼むなら彼女以外考えられない。
「これを僕が試演で選ばれたらラシルに渡して欲しい。選ばれれば僕は自由に動けるかどうか分らないから」
「ええ、分ったわ」
ユリアも快く承諾してくれた。そしてイリスは双子が言い置いていった彼らの移転先をユリアに伝えた。
(ここまで来たら選ばれるしかない)
再びサンデラの広い背中を見つめつつ、イリスはゆっくり息をはいた。
「緊張しているのか?」
サンデラは歩みこそ止めなかったが、イリスを振り向き尋ねた。
「大丈夫です」
彼の優しい声色にはいつも戸惑いを感じる。イリスは頭の中でサンデラを鬼か化け物ように恐ろしい人物として思い描いていた。だが実際会ってみると、親しみやすいとまではいかないまでも誠実で暖かい心の持ち主だった。そして一番厄介な事に雰囲気がラシルに似ているのだ。彼を見るたびにラシルを思い出してしまう。
連れられて広間に入った途端、聞き覚えのある声がした。
「何故お前がここに」
マグリア・ナリシは敵意を隠さずに言い放ち、大またで猛然と近づいてきた。
(殴られる)
そう直感して、イリスは瞳を閉じた。が、彼の手がイリスに降りてくる事はなかった。
「私の推薦した舞手です。彼に何か?」
マグリア・ナリシとイリスの間にサンデラは立ちはだかり、毅然とした口調で尋ねた。サンデラの態度とは対照的にマグリア・ナリシは怯えた顔をみせたが、声色だけはなんとか普通どおりに答えることを成功させた。
「ほう、珍しい。神殿建設に興味どころか反対さえなさっていた将軍とこの場でお会いできるとは」
ようやく自分を取り戻したマグリア・ナリシは薄ら笑いを口元に浮かべた。目礼してサンデラの横を通り過ぎ、イリスの耳元でこっそり言い捨てた。
「たぶらかす技術は舞以上だな」
イリスは顔を上げたが、すでに自分の舞手の肩を抱き連れ歩くマグリア・ナリシの背中しか睨むことが出来なかった。
「気にするな。いくぞ」
サンデラは軽く片眉をあげ、再び歩き出す。
(僕を庇ってくれたんだ)
イリスは後に従いつつも、俯いてしまう。
(もっと酷い人だったらよかったのに)
イリスはサンデラに対して気持ちの整理が出来なくなり、人知れず途方にくれていた。
各諸侯が推薦した舞手は男女合わせて十人。今日この中から一人、神殿の神おろしの舞手として選び出されるはずだ。
(今日で全てが決まるんだ)
他の舞手も同じ事を考えているのだろう。彼らもそれぞれに各一座の期待を担ってこの場に立っているのだ。十人の周りには重苦しい緊張感が張り詰めている。この試演を娯楽の一つとしか見ていない諸侯や、同じくただ楽しもうと集まった諸侯の着飾った妻たちの緊張感のない笑い声とは全く対照的な風景だ。
温度差の違う空気が一変し、静寂が生まれた。スカトル王カルート・キヤラが二人の部下を引き連れて入って来たからだ。
皆、一斉に頭をさげ、イリスも同じく頭をさげた。
「ご苦労、直れ」
初めて聞くカルート王の声は命令口調でも低く響く心地よいものだった。顔を上げることを許され、見た彼は三十代半ばのまだ溌剌とした青年で、日焼けした小麦色の肌が整った顔立ちをいっそう引き立てていた。だが、イリスは奥歯を密かにかみ締めた。
(元はと言えば、この人が将軍に命じてコヨルテを襲わせたんだ)
サンデラを憎みきれなくなっていたイリスは矛先を王に転嫁しはじめていた。
カルートが連れてきた部下の一人の手には黒塗りの箱があり、各諸侯は一人一人手を突っ込んで紙を一枚とりだした。中に数字が書いてあり、それが今回の舞う順番となる。
(三番目か)
一番以外は部屋の隅へ移動する。イリスは肩を叩かれ、驚いて後ろを振り返った。
「よ、また俺に負けにきたね」
見覚えのある顔はカラムスだった。華やかで自信家なところは変わらない。
「お前は三番目? 俺は四番目だ。前座としてがんばってくれよな」
だが、今のイリスには落ち着いて聞き流せる余裕があった。あの頃の自分とはもう違う。それに、ここに立っていられるのはラシルをはじめ色々な人のおかげであり、今は誰かと比べるのではなく自分自身の舞をやるだけだ。
「お互いがんばろうね」
穏やかな笑顔まで浮かべるイリスの態度に、カラムスは怪訝そうな顔を見せた。
この場にいる者は流石に才能のあるものばかりが集められているだけあり、一番目の舞手から諸侯やその妻たちの感嘆の声を引き出していた。二番目の舞手は緊張感からか、ステップをほんの少し間違えてしまった。普段なら許される範囲でも、ここでは命取りになる。彼女もそれを分かっていて、終わった途端悔し涙を流した。
「では、三番目。サンデラ・クロブ将軍推挙者」
イリスは前に進み出る。見物の諸侯達はサンデラ将軍の名を聞き、ざわめきあう。マグリア・ナリシも言っていたが、よほど彼がこの場にいるのが不釣合いな事だと身にしみて分った。
(きっとラシルが説得してくれたんだ)
そう思い、イリスはサンデラの顔を見た。イリスの考えは彼に届いていないと思うが、彼は軽く頷いた。それはイリスに、傍にラシルがいるような感覚に陥らせた。いつも舞いを舞う前に客席の一番後ろでイリスを見守ってくれていたあの眼差しを心に浮かべる。そうすると不思議と自分の背中に金の羽が生えてくるのだ。
(そう、この感覚…!)
曲が始まると同時にイリスは全てを込めると同時に自分を解き放つ。周りのざわめきは消えうせ、一体となるべく溶け合った。
イリスは静かに終わりを迎える。舞い終わっても誰も声をあげるものはいない。
「これは…素晴らしい」
肘掛を掴みつつ食い入るように見ていたカルート王の呟きに隣に控えていた部下が我に返り、拍手をし始めた。それを皮切りに盛大な拍手と歓声が広いホールを埋めた。鳴り止まない拍手に困り果てた進行役は、暫くあきらめて諸侯の昂奮が収まるまで待つしかなかった。
イリスはまだ意識が自分に戻ってこられず、礼をするとふらふらと元いた場所に戻っていった。イリスが近づくと、他の舞手が唖然としつつも後ずさる。その様子をイリスはまだぼうっとした心持で眺めた。
「では、続いて四番目。シプレ・シガー大臣の推薦者、前へ」
やっと自分の職務がまっとう出来ると進行役が安心したのも束の間、誰も前に進み出てこない。
「早く前へ」
呼び出しに応じてカラムスは前に出たが、途中で歩くのを止めてしまった。
「あんな舞を見せられて、それでも舞う気になる人がいるなら見てみたいね」
カラムスは投げやりな笑みを浮かべて言った。その意見に逆らう舞手は一人もいない。観客の諸侯達からも反論は起きなかったが、マグリア・ナリシだけは納得できなかったらしい。
「こら、やる前から諦めるヤツがあるか!」
このままイリスに決まってしまう事を恐れた彼は、自分の連れてきた舞手に無理やり舞う事を強制した。権力者に言われ、断りきれない舞手は仕方なく舞い始めた。
「可哀想に」
誰からともなく声が漏れる。まだイリスの舞の余波が残っている心に彼の入る隙間はない。むしろ色あせて見えた。
「満場一致でサンデラ将軍の推薦する舞手で決まりとしよう」
カルートの鶴の一声で、予定した時間を大幅に短縮して試演は幕を閉じることとなった。
(僕で決まったんだ)
自信がなかったわけではないが、安心感と一つ荷物を下ろした脱力感がイリスを襲った。
「もう一度見せていただきたいわ」
肩を出し、豊満な胸を強調した女性が声を上げた。続けて同じような声が幾つも聞かれたが、カルート王は立ち上がると一瞥でそれらの声を一蹴した。
「大儀。後の事はシプレの指示に従うように」
皆頭を下げる中、カルート王は青いマントを翻し、連れてきた部下を引き連れて部屋から去っていった。
イリスは王がいなくなった途端、立っていられなくなり倒れそうになる。だが、その前に力強い腕に捕まれふらつくだけで済んだ。
「大丈夫か?」
見上げると、ラシル、ではなくサンデラ将軍だった。
(コヨルテの仲間の為にも、もう後には引けないんだ…)
イリスは自分に言い聞かせるように、心の中で何度も同じ事を呟いた。
「すみません。大丈夫です」
そう答えたものの、サンデラの心配そうな瞳を直視することはどうしても出来なかった。