第20話
ラシルが母の家を出て宿屋へ戻ると、入り口でナナが一人ぽつんと座っているのが見えた。もうシリアたちは宿屋に戻っているらしい。
「部屋に戻らないとシリアが心配するぞ」
ナナとは犬猿の仲だが、放っておくわけにもいかず声をかけた。いつものように睨まれると思ったが、意外にも彼女はラシルの傍らに寄ってきた。
「お話があるの」
ナナは俯いたままラシルの手を引き、エントランスの隅に置かれた椅子にラシルを座らせる。顔を上げたナナの瞳には、今にもこぼれんばかりの涙が浮かんでいた。
「どうした?」
驚いてラシルはナナの涙を拭った。
「イリスを元気にしたいの」
「ナナならできるよ」
だが、ナナは真っ直ぐに伸びた綺麗な髪を横に揺らした。
「私じゃ駄目なの。イリスはラシルが誰よりも好きなんだもの。ラシルならイリスを元気にできるよね?」
ラシルはナナの真摯な瞳を受け止めた。イリスの元気のなさは自分のせいであるが、それを治すのも自分の義務だと心新たに誓った。なにせ会えば苦虫を潰したような顔を見せていたこの小さな恋敵が頼ってくれたのだ。
「すぐには無理かもしれないが、必ず元の明るいイリスにするよ」
「約束よ」
ナナは小さな小指を差し出し、ラシルは自分のそれを絡めた。
「少し話がしたいのだが、いいか?」
ラシルはシリアの部屋を叩き、中から承諾の声を得る。すんなり入れてもらえたので、ラシルは軽く拍子抜けした。部屋の中にはシリア一人しかおらず、安心した反面、がっかりしている自分もいる。
少し乱れた髪を撫で付けながら椅子を勧めるシリアは、見たところ落ち着いている。
「一度でも舞いを見せる事が出来ればいいだけなのに、こうも連続して門前払いでは困ってしまうわ」
ラシルが聞く前にシリアは辛そうに現状を話したが、すぐさま笑顔に変えた。
「けれど、明日もう一度試してみるつもりよ。ここまで来て諦めるわけにはいかないから」
シリアの疲れた笑顔を見返し、ラシルは静かに切り出した。
「あなたやイリスさえ嫌でなければ、俺に一つ貴族の伝手がある」
シリアは一瞬きょとんとし、再び期待に満ちた表情で立ち上がった。
「本当に?」
シリアはラシルの想像を裏切る表情をし続ける。実は部屋にも入れてもらえないのではないかと思っていたくらいだ。彼女はぎゅっと胸の小袋を握ると何かしら呟いた。
「嫌なわけないじゃない。やはりあなたは神託通り、私達を導いてくれるのね」
滲んだ涙を袖で拭き、安心した表情を見せるシリアに、ラシルは一つの結論に達した。
「いつお会いすればいいのかしら。できれば早いほうがいいのだけれど。あら、まだお名前も伺っていなかったわね」
彼女の笑顔を消し去る言葉をこれから言わなくてはならないと思うとラシルの気は重くなる。だが、言わねばならない。受け入れるのも拒否するのも最後の決定権は彼女が持っており、ラシルは一つの選択肢を与えるにすぎない。だが、願わくは受け入れて欲しい。
「サンデラ・クロブだ」
予想通り、シリアの顔から血の気が引いていくのが見て取れた。そしてラシルが思ったとおり、イリスはシリアに自分とサンデラの関係を話していないことも証明された。
しかしイリスと違い、ぎこちなさは否めないが、シリアは気丈にも微笑んだ。
「どうして、その方とお知り合いなの?」
嘘をつこうかとも思ったが、すぐ明るみに出る事なので素直に答える以外なかった。
「将軍は俺の父親だ」
今度こそ隠す事なくシリアは顔色を無くした。
「ナナの神託の『獅子』はサンデラの紋章だったのね」
誰に言うでもなく、シリアは呟く。
「イリスは知らないわよね?」
搾り出すようなシリアの声にラシルは眉を寄せた。
「もう知っている」
シリアは雷に打たれたかのような驚きの表情を見せたかと思うと、すぐさま椅子に力なく座った。テーブルになだれ込む様に倒れたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「あなたはどこまで知っているの? それともいつから、と聞いた方がいいのかしら?」
「貴方達がどこの誰だかはっきり知ったのは最近だ。その目的も」
「だから私達を将軍に売ろうというわけ」
ラシルの言葉尻に被せるようにシリアは言い捨て、握り拳をおもいきりテーブルに叩きつけた。その拍子にグラスが倒れ、テーブルから床へ赤い葡萄酒が一筋流れ出る。
「そのつもりなら、こんなに正直に話はしないさ」
ラシルは腰の剣をテーブルの上に置き、一歩下がった。
「信じられないのであればそれで俺を好きなようにすればいい。信じようと信じまいとは自由だが、俺はこの半年以上一緒に過ごしてきて、貴女たちが一生懸命生きてきた事を見てきた。それだけに願いを叶えたいと心から思っている」
そういい、ラシルは瞳を閉じた。
暫く沈黙が続く。遠くで食器の触れる甲高い音が鈍く聞こえてきたが、シリアが剣を握る音はまだ聞かれない。
「一つ聞きたいのだけれど」
シリアの静かな声にラシルは瞳を閉じたまま頷いた。
「このことを知っているのは誰?」
「俺の仲間は皆知っている。一座の中でここまで話したのはシリアだけだ。イリスは俺の父がサンデラだと言う事は知ったが、俺がイリス達をコヨルテだと気づいている事は知らないだろう。後はイリスさえ話していなければ誰も何も知らないはずだ」
「全てを知っているのはあなたの仲間と私と言うことね」
「そうだ」
そこで初めてシリアが剣を手に取る金属音が聞かれた。床に響く靴音が徐々に近づき、腕にひんやりとした感覚がした。
「ここであなた一人を殺ったってどうしようもないわ」
ラシルは瞳を開け、傍らに立つシリアを見下ろす。剣は鞘に入ったまま、ラシルの腕に押し付けられていた。
「あなたを信じてこれはお返します」
「では、この話は進めていいんだな」
「それはこちらが聞きたいわ。あなたのお父様の立場は悪くなるわよ。推薦されればイリスは絶対誰にも負けないもの」
「俺はただ目的への第一歩を提供しただけだ。そこから先は俺の意思ではどうにもならないし、手出しできる次元ではないからな」
「神のみぞ知る、というわけね」
「でも、イリスならきっと引き寄せられるだろう。舞の天賦を持っているからな」
イリスを想い、ラシルは心が痛くなる。だが、イリスのためを思えば自分の気持ちを押し付けるわけにもいかない。薄く笑うラシルの手をシリアは優しく取った。シリアの微笑みはやはり血の繋がりがあるだけにイリスに似ている。
「あなた達と旅ができて心強かったわ。そしてイリスを愛してくれてありがとう。あんなに楽しそうに笑うイリスは久しぶりだったから叔母として嬉しかった。あなたとイリス、いいえ私達との関係はお互いに予期せぬ事だったわ。此処の所イリスが落ち込んでいた理由も納得できた。でもきっとこれでよかったのよ、下手に未練があると可愛そうだもの」
シリアはさらにきつくラシルの手を握った。
「勝手な事を言うようだけれど、あなたもイリスの事は忘れてね。そして私たちが舞手に決まったらどこか遠くへ行って頂戴。あなたたちだけは巻き込みたくないのよ。だから…」
「契約終了か」
「ええ。…ごめんなさいね」
ラシルとシリアは契約が成立した時に交わした契約書を出すと相手に返した。これで彼女達との関わりは正式に無くなった事となる。
ラシルは父の屋敷に入れるようにしたためた紹介状を渡し、その日のうちに全ての仲間を連れてこの宿屋を引き払った。