第17話
シリアとの約束どおりイリスは早めに宿に帰ったが、まだ他の誰も戻ってきてはいないようだった。
自分の割り当てられた部屋に入ろうとイリスが階段を登りかけた時、宿の亭主に呼び止められた。
「あんた、『ラシル様』っての仲間だろ?」
イリスは思わず笑ってしまう。確かにラシルは『様』付けされてもおかしくない優雅な容姿を持っているが、そう言われて一番嫌がるのは彼自身に違いない。
「違うのか?」
笑うイリスに宿屋の亭主は困惑した表情を浮かべた。
「いや、仲間だよ」
それはウソではない。その言葉に亭主は安堵のため息をつく。
「それは良かった。先程から『ラシル様』に『マリーナ様』からの伝言を携えた女性が来ているのだが、代わりに聞いてくれないか?」
マリーナと言う名前に聞き覚えは全く無い。勝手に伝言を聞いていいものか迷っているうちに、亭主はイリスの腕を掴むと一階にある食堂の奥へ連れて行った。
逆光でよく見えなかったが、随分と恰幅のいい中年の女性が猫背で座っている。
「本人でないが、お仲間だそうだよ」
亭主の言に中年の女性は大きな体を大層に動かし立ち上がった。宿屋の亭主は自分のお役目が終ったとばかりにさっさとその場を立ち去る。
「いつラシル様が戻られるか、わかる?」
思いの他かわいらしい高い声で尋ねられたが、分らなかったので素直に首を横に振った。
「でも、言伝くらいなら伝えるけど」
「そうねえ…」
暫く逡巡していたが、話す事に決めたらしい。彼女はマリーナという女性の侍女で、カリンと名乗った。
「マリーナ様からの伝言よ」
そう前置きして、三日後に父様と会う手はずを整えたので夕刻家に来るように、と伝えて欲しいと言った。イリスは彼女の前で二回復唱させられた。
「分った。ちゃんと伝えるから。でもマリーナって誰?」
イリスとしては一番気になる事柄だ。ラシルに関する知らない女性の名前は放っておけない。彼の人目を惹く姿に、どこへいっても女性が寄ってくる。イリスは特に何も言わないが、口に出さないからといって、イリスの心が穏やかというわけではないのだ。
「ラシル様のお母様よ」
「…あ、インセンに住んでいるんだ」
安心すると同時に、今までラシルの家族について何も知らなかった事に気づいた。聞くと自分も話さなければならないと思い、あえて聞かなかった部分もある。
(ということは、ラシルはスカトル出身か)
いつかセダの街でラシルが街の人たちの前で踊った時、ラシルの踊り方を『都風』と言っていた人がいたのを思い出した。
イリスはラシルの過去を自分から聞けない分カリンから聞く事にした。近くの椅子を見つけるとイリスはカリンの前に引き寄せ座る。幸いにしてカリンは話をするのが苦にならない人種のようだった。
「ラシルのお母さんってどんな人?」
「マリーナ様? それはお優しく美しい方よ。私たちの面倒も良く見てくださるし、とても料理がお得意なの。でも一番印象的なのは澄んだ秋の空のような青い目だわ」
「ラシルの目はお母さん似だね」
「そうね」
「じゃあ、お父さんは?」
イリスは自分の父親をあまり覚えていない。シリアに聞くと、誠実でコヨルテ馬を操るのがとても上手かったそうだ。自ずとラシルの父親がどんな人物かも興味が湧く。
「あなた、本当に知らないの?」
カリンは驚いたように声を上げた。
「だって…聞いた事ないから」
口ごもるイリスに、カリンは軽くため息をつきながらも納得したように頷いた。
「まあ、あまり仲が良いとはお世辞にもいえないから、話したがらなかったのかも知れないわね」
ラシルが誰かを嫌うなんて考えられなかったので、イリスは意外に思った。
「でも、三日後に会う約束をしたから、仲はそんなに悪くないんじゃないかな」
カリンはイリスがちゃんと伝言を覚えている事に満足しつつも首をかしげた。
「そうだといいけれど。少なくともマリーナ様は今回の父子の再会に大喜びよ。今からもうその日の献立を考えられているわ」
「それならもっと早く二人を会わせた方がいいんじゃないかな」
「そう言う訳にもいかないわよ。旦那様はお忙しい方だから」
イリスはラシルの父親について聞くのが少し怖くなった。傭兵のラシルに『様』をつけるのは父親の身分が高いからかもしれない。だが、あえて聞く事にした。しっかり聞いておいた方が後々いらぬ空想に悩まなくてすむ。
しかしそれは聞かなかったほうが良かったかもしれない。
「有名人よ。サンデラ・クロブ将軍。冷徹だって言われているけれど、少なくとも奥様の家へ見えている時はそんなことはないわ」
イリスは途中からカリンの声を聞いていなかった。
サンデラ・クロブ将軍。他でもない、イリスの祖国、コヨルテ=ラグドを壊滅状態にした張本人だ。
急に何が何だか分らない、雲の上を歩いているような心もとない気持ちに襲われた。イリスは立ち上がったが、まともに歩けなかった。
「ちょっと、大丈夫?」
カリンに支えられ、イリスは少しだけ自分を取り戻した。
「ちゃんと伝えるから、色々…」
ありがとう、とはさすがに言えず、そのままおぼつかない足取りでイリスは部屋に向かった。
自分の部屋には戻らず、イリスはラシルの部屋へ向かったが鍵がかかっていた。まだ戻って来ていないらしい。どうしていいか分からないイリスは戸口に背を持たれかけ、そのまま座り込んでしまった。
西日が窓から石の廊下に赤い光を投げかけるが、イリスのところまでは届かない。暗い影の中にいると、心も一緒に暗い奈落に落ちてしまいそうだ。イリスは顔を自らの両腕に沈めた。
「どうしたのですか?」
声をかけたのはミルテだった。顔を上げると、アクアが目の前にしゃがみこみ、その隣にミルテが立っていた。
「具合悪いの? 大丈夫?」
心配そうに尋ねるアクアの腕をイリスは掴んだ。
「ラシルは?」
「今日は一緒に行動しなかったから…」
アクアは助けを求めるようにミルテを見た。
ラシルと同じ部屋のミルテは鍵で部屋を開け、イリスを立ち上がらせる。
「部屋の中で待っているといいですよ。一人で大丈夫ですか?」
頷くイリスをミルテは椅子に座らせる。
「さあ、いきますよ」
ミルテはイリスを心配し一緒に居たがるアクアの首根っこを掴んで部屋から出て行った。
「もしかして舞手に選ばれなかったのかな」
ドアが閉まりかける時にアクアの声が聞こえた。
(朝はマグリア・ナリシの屋敷にいたんだ。なんか信じられないくらい遠い昔に感じる)
そんなことより早くラシルに会いたい。そしてただ一言『違う』と言って欲しかった。
「明かりもつけずにどうした」
夕飯の時間を少し越えた頃、やっとラシルは戻ってきた。すでにミルテに聞いていたのか、イリスが彼の部屋に居たことには驚かなかった。ラシルは窓近くのチェストの上に置かれた燭台に火を燈し始める。
「ラシルのお父さんってサンデラ・クロブなんだって?」
本当はもう少しやんわりと話を持っていこうと思っていたのに、気づけば開口一番に聞いていた。
「そうだ」
全ての蝋燭に火をつけ終わり、振り返った彼の顔は普段と変わらない。隠す必要があるわけではない彼には当然かもしれないが、イリスにはその悠然とした態度が癪に障った。
「どうして言ってくれなかったんだよ」
「言う必要がないと思ったからだ」
その通りかもしれないが、イリスには重要な事柄だったのだ。
「初めから知っていれば…」
知らない間に流していた涙を拭うために口を噤んだ。だが、今度は口を噤んでいないと嗚咽を上げてしまいそうなのが怖くて話せなくなった。
なかなか続きを言えないイリスの後を継いでラシルが言った。
「…好きにならなかったのに…?」
弾けるように顔を上げたイリスはラシルの顔を見つめた。他にも沢山言わなければいけない事があったのだが、全て消えた。
炎の揺らめきに合わせ、ラシルにかかる陰影も揺らぎ、イリスは彼の表情をはっきり伺う事ができなかった。
「やっぱり、人なんか好きになるんじゃなかった」
イリスは立ち上がると俯いたまま出口に向かい、ラシルの隣で立ち止まった。
「もう、一緒にいることは無理だ」
見上げたラシルは何も言わなかったが、青い瞳は暗く悲しげで、それだけで心が痛んだ。
(こういう時こそ普段どおり悠然としてよ)
一方的な物言いを棚に上げてイリスは腹が立ってきた。もうこれ以上この場にいる事が辛くなり、イリスは堪らず部屋から駆け出した。
中庭の木陰まで走ると、イリスはそこでしゃがみこんでしまった。動く事さえ嫌になったと言った方が正しいかもしれない。まだイリス自身が上手にラシルに対しての気持ちの整理をつけかねているのだ。
(コヨルテを破壊した、そして母の命を奪った敵将の息子…)
彼に直接的な恨みを押し付けるのは酷かもしれないが、知らなかったとはいえ、半分でもサンデラ・クロブの血が流れている彼を信頼し何もかも許してしまった自分が、亡くなっていった仲間に対して酷い裏切行為を犯したように思えて仕方がなかった。しかし、だからと言ってイリスはラシルを簡単に忘れられそうにない。
(僕は、どうすればいいんだよ)
イリスは頭を掻き毟り、手を髪に突っ込んだまま膝に顔を伏せる。
不意にがざり、と葉擦れの音がした。
「そこにいるの、イリスでしょう?」
すぐにナナの声だと分ったが、顔を上げる気にならなかった。ナナは隣に座るとイリスの膝に手をかけた。だが、イリスは俯いたまま動かなかった。
「もう夜だから、お部屋に入ろ?」
心配して言ってくれているのは分ったが、今のイリスにはただ煩わしかった。
「ごめん、ナナ。しばらく一人にして」
思った以上に冷たい言い方になってしまい、今までイリスからそのような扱いを受けた事がなかったナナはとても驚き、少しの逡巡の後、何も言わずその場を立ち去った。
その後、夜更けまでイリスは一人、静寂の中に座り込んでいた。