第11話
三日目、夏祭りの最終日。
昨夜の噂が噂を呼び、開演のかなり前から長蛇の列が出来始めた。
「これは一回では捌ききれないわ。カロンに許可を貰って回数を増やしたいと思うのだけれど、イリスは大丈夫?」
シリアの部屋に呼ばれたイリスは軽く頷き同意をみせる。
「いいよ、そんなに何回もは集中力が続かないから無理だけど、二、三回位なら」
昨夜の気だるさが細かい霧のようにしっとり纏わりついているが、もう一度あの感覚に陥るのが楽しみなのも事実だ。
イリスの機嫌のよさを見て取ったナナが跳ねるように駆け寄ってきた。
「イリス、元気になってよかったね」
満面の笑みで見上げるナナは本当に嬉しそうだ。
(今までナナにも心配かけてたんだな)
子供だからといって雰囲気が読めないわけではない。むしろナナは聡く敏感だ。
「ごめんね、心配かけて」
心からイリスは謝った。
「これでナナの神託通り上手くいくでしょう」
─東より来たりし金色の獅子に身をゆだねよ、されば願い叶わん
ナナの可愛らしい口から枯れ萎れた声で告げられた神託。さすがは神官長の直系の血筋だけあり、その時は神々しい威厳に満ち溢れていた。
(でも、今思うと、文字通りだな)
神託を思い返し、昨晩の記憶に軽く頬を赤らめたイリスだったが、同時に暗い心持にも襲われる。
(分っているけど、首都に着いたら、もうラシルと別れなくちゃならないんだよね)
繋がりあった想い。それは眼に見えないが、香りと同じく確実に存在し、イリスの世界を煌く光に変えた。
(でも、不思議と後悔はしていない)
あれだけ世の中に未練を残すようなことは嫌がっていたのに、今は返って前の状態に戻りたくない、とさえ思っている。
「…イリス、やっぱりまだ元気ないかな」
心配そうにシリアに眼をやるナナにまた気を使わせてしまったようだ。
「大丈夫だよ。ありがとう」
イリスはナナを安心させるように出来る限りの最高の笑顔で明るく微笑んだ。
そのままイリスは約束通りシリアと共にカロンを訪れた。
カロンは昨晩のイリスを手放しで誉め、上演の回数を増やすことを快諾し、さらにシリアを喜ばせる提案さえした。
「首都にいる知り合いの貴族が上手い舞手を捜しているから、紹介状を書いてあげよう」
「ありがとうございます!」
シリアはすかさず、イリスから見れば大げさなのだが、輝くような笑顔と態度で感謝の言葉を羅列した。だが、シリアの喜びも当然だろう。これでまた神おろしの試演に参加できる道が一歩近づいたのだから。
「イリス、カロン様の好意にしっかり応えてがんばりましょうね」
「私の為にまた場所を作っておいてくれ、楽しみにしているぞ」
「分りました。もちろん一番見やすい特等席をご用意いたします。そして今日の舞は私どもの守護神カロン様に捧げますわ」
カロンに見えないようにシリアはイリスに一つウインクを送った。それは彼女自身でも調子がいいと思っている印だった。
全ての上演を終え、イリスは楽屋裏の椅子に座り込んだ。さすがに三回も公演をこなすと思い切り走りこんだ後のように体が重い。
(でもこんなに充実した気分で踊れるのはとても幸せかもしれない)
自分でもこんなに舞う事が好きだったとは知らなかった。
イリスは気だるげに頭に被っていた花冠を外す。百合の中に一輪だけ混ぜたカンフの花。もちろん昨晩ラシルから貰ったそれだ。
「誰からもらった?」
「!」
メノウとアクアが後ろに立っていたのに全く気づいていなかったイリスは、飛び上がらんばかりに驚いて振り向いた。
「…別に」
言葉とは裏腹に、イリスは持っていたカンフの花を背の後ろに隠してしまった。
「なんだ、やっぱりミルテが言っていた通りだって訳ね」
分り顔でメノウはイリスの肩を叩く。
「良かったね」
アクアはにっこり微笑んだ。その二人の様子にぐっとイリスは身構える。
「何が?」
「急に舞が上手くなった理由だよ。それにラシルの機嫌がすごくいいことね」
イリスは体温が上がるのを感じずにはいられなかった。とりあえず何か言わなくてはと口を開いたが言葉にならず、ただ出来たのは頬を染めるだけだった。メノウはイリスをからかえたことに満足顔で、イリスは彼の思い通りの反応をしてしまったことを後悔した。
「もう、何でもいいよ」
事実なのだから隠しても仕方がないと、イリスは投げやりに言った。
「友達として喜んでいるんだから素直に受け取れよ。でもさあ、前でもすごいと思っていたのに、今のイリスの舞は怖いもの無しになったよね。これなら絶対カラムスにも勝てるぜ」
メノウは確信したように握りこぶしを作った。彼はまだ、神おろしの最有力候補とされているカラムスとの勝負にこだわっているようだが、イリスにとって、今では勝ち負けなどどうでもいい気さえしていた。だが、神殿で舞うための首都までの警護として彼らと知り合った手前、そう思われても仕方はないだろう。純粋に舞を楽しむことを分って貰えるのはやはり一人しかいない。それが一番好きな人であるのは幸せなことだ。
(って、かなりやられちゃってるね、僕)
イリスは自分ののろけに自分で照れた。
イリスとラシルの付き合いは暗黙の了解で認められた。シリアもスランプから抜け出せたのはラシルのおかげだと思い、何も言わない。チファとコリーは勝手に妄想に走っては楽しみ、ユリアはそんな二人をやんわりと嗜める。メノウは次の標的を弟のアクアに変え、アクアにとっては迷惑な日々が始まったようだ。ジンは相変わらずシリア一筋で、ミルテは得意の『意味ありげ』な微笑をラシルに向け、モスは寡黙ながら優しく皆を見守っている。
ただ一人納得していないのが、ナナだった。
カシスの街を出てからというもの、ナナはぴったりとイリスの側を離れない。食べる時も寝る時も一緒で、双子にからかわれても前であれば逃げ帰ったのに、今ではじっと耐えている。
「小さいながらちゃんと判っていますね」
ミルテはラシルに馬を寄せた。ナナのおかげでカシスの町を出てからというもの、イリスと二人きりになる機会は全くない。だが、ラシルとしてもナナの気持ちが判らないではないので、無理に引き裂くことも憚られるのが現状だ。イリスも苦笑をラシルに送るものの、ナナを決して無碍には扱わない。後ろを振り向けばナナとイリス、シリア、ジンが馬車上で楽しげに笑い声をたてている。やはり今もナナはイリスの隣にぴったりと身を寄せていた。
「五十ダラスでナナをイリスから引き離してあげてもいいよ」
ラシルは昨晩、双子にこう持ちかけられた。もちろん断ったが、五十ダラスという高くもなければ安くもない値段をふっかける双子の金銭感覚に感心した。
「シリアはネリの村へ行きたいといった。あそこは首都とは方向的に反対だし、どちらかと言えば鄙びた何もない村だ。直接首都を目指すと思っていたのだが、どう思う?」
話題転換もかねてラシルはミルテに尋ねてみた。ミルテは親指を顎下にあてる。彼の考える時の癖だ。
「カロンから紹介状を貰ったので、普通は直ぐに首都に向かうのが筋ですよね。しかし、いつ会うと言う具体的な約束はないわけですから、もう少し周りの町を渡り、しっかり脇を固めようと思った、あたりですかね」
「それなら、ネリの村は最悪な選択だな。あそこは人より家畜の数の方が多い」
ラシルの答えにミルテは軽く肩を竦めた。
「それでは、イリスの舞が人だけでなく動物にも通じるかやってみたくなったのではないですか? どちらにしても我々は彼らの行きたい所へ安全に連れて行くだけです。それに…」
ミルテは言葉を切り、にやりと笑ってみせる。
「早く首都に着かない方が、あなたにとってもイリスにとってもいいじゃないですか」
ミルテの言葉はラシルの本音でもある。契約上首都までの警護なので、着いてしまえば別々の道を進まざるを得ない。
(イリスはどう思っているのだろうか)
いずれは話し合わなければならない重要な事柄だ。彼の性格上、遊びで付き合う事は出来ないだろう。そして自分はイリスを他の誰にも手渡すつもりはない。
ラシルは軽くため息を付くと馬先を後ろへ向けた。建前はシリアに今日の野宿場所を告げるためだが、一緒にいるイリスの顔を見たいというのが真の目的だ。
ラシルが近づいてくるのを見たナナはしっかりイリスの腕を掴み、それでイリスもラシルが来たことに気づいたようだ。イリスはナナの機嫌を損ねない程度にラシルへと微笑みかけた。
手を伸ばして触れたい気持ちを押し殺し、ラシルは用件をシリアに告げる。
「分ったわ。場所はそちらで決めてくださって結構よ」
続いてナナがシリアの口調の真似をした。
「分ったわ。こちらはジンがちゃーんと守ってくれるから、元の位置に戻って結構よ。ジンはラシルより大きいから私とイリスぐらい一人で守れるわよ。そうよね、ジン?」
急に振られたジンは曖昧に笑っただけだった。小さな恋敵は一瞬たりともラシルをイリスに近づけたくないらしい。
「可愛そうに、ねえ」
様子を少し遠巻き加減に見ていたミルテは、彼には珍しく同情をこめて呟いた。
(双子に五十ダラス払うか…)
ナナの頑なな様子に、ラシルは本気で考え始めた。