第10話
「今日は舞いたくないってどういうことなの?」
激しくドアを叩き続けるシリアを無視し、イリスは振動を背に感じながら部屋に立てこもっていた。
朝、気づけば一人だった。全てが元通りで、まるで夕べのことは夢のようだ。
(でも、体は違うってはっきり言ってる)
誰とも会いたくない。いや、会いたくないのはラシルだ。どの顔をして会えばいいのか分らない。ただ怒りをぶつけられるのであればどんなに楽だろう。
(嫌じゃなかったから余計にタチが悪い)
優しくされた記憶が辛いのは初めての体験だった。
イリスは肯定することも出来ず、かといって否定もできない自分の気持ちを持て余していた。
「えー、安宿と違って厚いし、いい素材使っているし、弁償するの高そう」
ドア越しにチファの声が聞こえてきた。
「でも、シリアが言う通り、一人で思いつめてしまったらそれこそ事よ」
ユリアが心配そうに答えた。
(どういう事だろう)
暫くイリスはドアに耳を付け、廊下の様子に聞き入った。
(僕が心配で、ドアを壊すって事?)
シリアが言い出したらしい。どっしり落ち着いたように見えるが、実は感情の激しい彼女ならやりかねない。
「後で私がカロン夫人に謝るから、このドアを打ち破ることの出来る道具を持ってきて」
イリスの思ったとおり実行に向けてシリアが指示を出し始めた。これ以上大事にされるのは嫌だったので、イリスは仕方なくドアを開けた。
「大丈夫?」
一番に飛び込んできたのはアクアとメノウだった。心配してくれる友達がいるのはやはり嬉しい。
「ごめんね、心配かけて」
自然と沸いたイリスの笑顔に、二人の顔にも笑みが浮かぶ。次に二人を掻き分けるようにシリアが入ってきた。
「他の皆にも謝りなさい。とても心配したんだから」
「…ごめんなさい」
頭を下げ、再び上げた目の前には安堵の表情を浮かべるユリア、チファ、コリー。その後ろにジンとモス。壁際にミルテ、その隣に壁に背中を預け、腕を組んでいるラシルの姿があった。
ラシルの姿を眼にすると体の体温が勝手に上がり出す。直ぐにイリスは視線を外した。
「はい、解散。今日の準備に取り掛かって頂戴」
シリアは手を叩くと、体良く皆を帰らせた。シリアはイリスの肩を抱くとイリスの部屋に入りドアを閉める。そして彼女がめったに見せない狼狽した顔でイリスを見下ろした。
「あなたにしては珍しいわね、舞いたくないなんて。あなたにだけ重荷を背負わせていることはわかっているのだけれど、急だったから驚いてしまって。理由を聞かせてくれないかしら? 話せば解決することもあるし、気持ちも楽になる。思えばあなたの話をここ最近忙しくて聞いてあげられなかったわね」
真剣に見つめるシリアの瞳に、イリスはここまで心配させてしまったことを申し訳なく思った。彼女の苦労を知っているだけに余計そう思う。
(それに今は理由を上手く説明できないよ)
もし、そう、もし好きな人がいる、と告げたらシリアはどういう顔をするだろう。
(って、何考えてるんだ、僕は)
敵の神殿で彼らの信仰しない神をおろす舞を舞えば捕らえられ処罰されるに決まっている。どうせ長くは生きられないのだから、あまりこの世に未練はつくりたくない。そう思ってずっと生きてきたのだ。
(そう、好きな人なんて必要ないんだ、僕には)
今まではこの言葉で心に蓋が出来たのに、今日は上手く行かなかった。理由も分っているのだが、認める事はやはりまだ、怖い。
黙ったままのイリスにシリアは更に不安を募らせたらしい。物思いから帰ってきたイリスは愁眉を寄せるシリアに慌てて笑顔を作ってみせた。
「ちょっと甘えてみたかっただけかも。こちらこそごめんなさい、心配かけて」
本当ではないが、まるっきり嘘でもない。
深々と頭を下げるイリスを直らせると、シリアはぎゅっとイリスを抱きしめてくれた。その瞳は涙で湿っていた。
昨日と同じくらいの客の入りにイリスは舞台の端で安堵していた。
先に舞うユリア、チファ、コリーは落ち込んでいたイリスを少しでも盛り立てようと気合が漲っており、それが観客に伝わって昨日より雰囲気がいい。
(僕もがんばらなきゃ)
シリアを振り返るとやはり心配そうにイリスを見ていた。イリスはにっこり笑ってシリアを安心させると、大きく息を吸って舞い終えた三人の替わりに舞台に出た。
観客の感嘆の声の中、いつもの癖で観客の一番後ろを見てしまい、イリスは心臓が跳ね上がった。
今日はいつもの場所にいつものようにラシルがいる。こちらをじっと見る眼線が痛いくらいで、思わず瞳を伏せてしまいそうだった。
(前の三人のためにもちゃんとやらなきゃ)
思いなおし、始まりのポーズを形作る。舞の始まりと共に手を伸ばし、足を上げる。イリスはその動作に違和感を覚えた。
(今まで何の躊躇いもなくこんなに足をあげていたのだろうか?)
昨夜の開かれた自分の姿が脳裏を過ぎり、結局、恥じらいながら足を上げる羽目になった。一度目覚めた記憶はイリスに追体験をさせていく。すらりと伸びた腕と脚、華奢な首筋、平らな腹、そして彼の知らない部分にまで施された口付けの感覚が蘇り、肌が上気してくる。
(急に見られるのが恥ずかしい気がする)
そう思えば思うほど、観客から今まで見られなかった恍惚とした表情が浮かびだした。そして昨日以上に熱い波動のような視線に晒された。
(昨日はそれを拒んだけれど…)
今日は何故か素直に受け入れてもいい気持ちになった。季節がら本物の百合を頭に頂いている。アクアが百合には催眠作用と催淫作用の両方があるといっていたが、そのむせ返るほどの甘く重い香りがそうさせるのだろうか。
イリスは観客の熱を自分の中に取り込み始めた。
(なんだろう、すごく軽い)
途端に体も気持ちも自由に動けるようになるのが不思議だった。
ただ、観客の望むままに舞いたいわけでもない。自分の舞を押し付けたいわけでもない。理由づけすることさえ無意味と化していく。
(ただ空間と一つになりたい)
その願いだけに意識が集約されていく。
気づいた時には今までにない喝采と歓声がテント内に響いていた。
暫くぼうっとしていたイリスは、その割れんばかりの地響きのような音で我に返り、思わずその場から走り去っていた。
「すごいわ、イリス」
舞台裏に下がった途端、イリスはシリアに捕まり激しく抱きしめられた。ユリアもチファもコリーもそれぞれに誉めてくれる。
「今までで一番いいよ」
「驚いたわ」
だが、一番驚いているのは自分だとイリスは思う。シリアはもう一度ぎゅっと抱きしめてからイリスを開放した。
「実は、今の舞台を街長のカロンが見ていたのよ。ちょうど良かったわ」
イリスを緊張させないようにシリアは黙っていたのだろう。彼女の気遣いにイリスはそっと微笑んだ。そして甘えついでにお願いをする。
「これから何もないのなら、一人になってもいい?」
その発言に一同軽く動きが止まる。今朝の騒ぎがまだ記憶に新しいのだ。イリスの微笑みは苦笑に変わる。
「もう、大丈夫だよ。ただ、ちょっと疲れちゃって。それに今の感覚をしっかり自分のものにしたいから」
イリスの言葉に顔を和らげたシリアは頷いた。
「本当はカロンに呼ばれていたのだけれど、それはこちらでなんとかしましょう。でも、明日は場所を借りたお礼を兼ねてカロンに会って貰うわよ」
「解った」
シリアの了解を得たイリスは、皆におやすみを告げるとまだ舞の化粧も衣装もつけたままな事も忘れ、一気に自分の部屋へ駆け込んだ。
鍵を掛け、息を弾ませながらベッドに腰掛ける。幾度か深呼吸すると昂奮は治まってきたが、もう一度あの感覚を思い出すと、今度は体が震えてきた。
(全てが自分と同じであり、自分が全てと同じだった、とでも言えばいいのかな)
押しつぶされそうな恐怖感に限りない感動が入り混じった、そんな心持だ。空恐ろしささえ感じる人力の及ばない宙へ、二つも三つも上の階層へ舞い上がれた奇跡を先程体験したのだ。
(そして、掴んだ)
一度見た光景は忘れない。イリスは黄金の羽を手に入れた気がした。
(自分と同じ名前の女神も黄金の羽で虹を駆け、人々の願いを天界に届けるんだよな)
男の自分に女神の名前はおかしい、と子供の頃からかわれ嫌な思いもしたが、はじめて自分の名前も悪くないと思った。
(多分、今日の舞ならきっと認めてくれるだろうな)
彼は自分の欠点を早くから指摘してくれていた。だが結果的に理解するのに、こんなに時間がかかってしまった。
(シリアに誉められるのはもちろん嬉しいけれど、やっぱりラシルに言われたい)
イリスはそのまま後ろに倒れ、ベッドに仰向けに横たわる。さすが街長カロンの屋敷だけあり、天井の漆喰に綺麗な曲線で描かれた蔦がバランスよく配置されていたが、イリスの眼には全く映っていなかった。
「会いたいな…」
心の声を口にした。ラシルはイリスの心を読んでいるかのように気持ちを察してくれる。だから今も絶対会いに来てくれると確信があった。
(ほらね)
軽くドアを叩き、名を呼ぶ声に、イリスは自然と笑みが浮かぶ。心の繋がりというのは確かに存在するのだ。
イリスは逸る心を押し留め、ドアへ向かう。夕べは鍵を掛けなかったことを後悔したが、今日は鍵を外す行為さえもどかしい。
部屋に招き入れたものの、さすがに待っていたとは恥ずかしくて言えない。替わりに愛しさを込めて微笑んだ。ラシルも艶やかな金髪を揺らし微笑み返す。
「今日はとても感動した。上手くは言えないが、心の内側から揺さぶられた気がした。すごいな、イリスは」
「初めて誉めてくれたよね」
「そうかな」
「そうだよ、でも…」
「でも?」
短い間を経て、イリスは長い睫を伏せる。
「嬉しい、かもしれない」
言い切れない辺り、自分らしいとイリスは思う。しかし、前に比べたら自分の気持ちを素直に表現できるようになっていた。
「イリスに、これを」
差し出された一厘の花。それは純白で微かに甘い白粉のような香りを放っている。
「カンフの花?」
「良く知っているな。ここの風習で思いを伝えたい人に渡すそうだ。それで…俺はイリスに貰って欲しい」
軽く声が枯れたのがイリスには返って魅力的に感じた。自分への告白に緊張していると思うと、大柄のラシルも可愛らしく見えてくる。もちろん今のイリスに断る理由は見つからなかった。とにかくこの気持ちを大切にしたい。
「ありがとう。なんか少し順序が逆の部分もあるみたいだけれど」
悪戯っぽく笑いながら花を受け取るイリスに、ラシルは軽く肩を竦めた。
昨晩は全く余裕がなかったが、今日は気の済むまでラシルの流れるように輝く金の髪を楽しみたいとイリスは思った。それを察したのか、ラシルはイリスを優しく抱きしめ、耳元で囁いた。
「でも、まず着替えないとな。衣装が皺になったら、またシリアに怒られるのだろう」
まだ舞姫姿だったことにイリスは初めて気づいた。だが、イリスはラシルを見上げて腕を絡めると、妖艶とも取れる笑みを浮かべ、ラシルの髪を隠してしまう布を取り去った。
「怒られてもいいから…、ね」