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二 陰謀『燎原の火』

 すぐに校長名の退学通知書が手配され、校内爆破事件の二日後に三人の家庭に送り付けられた。三人とも学校を爆破し教師一人を負傷させたという理由だった。

 「負傷やて?」駿平は母親に見せる前にその通知書を開いてみたのだった。母親にはすでにあの事件の後学校から帰って話をしてあったし、事実これ以上宝船高校に通う気はなかった。それは鍵司も桃子も同じだった。駿平は急いで電話に飛びつくと数個のボタンを押した。

 「よお、駿平か。俺も今連絡しようと思ってたところだ。」

 「鍵司、届いたか、退学通知書。」

 「今見たところだ。誰だ?負傷した教師ってのは。」

 「ようわからん。」

 「とにかく桃子んちに来いよ。俺もすぐに行く。」

 「わかった。」駿平は受話器を置いた。そしてその通知書を胸ポケットに押し込むと家を出た。

 部屋では、桃子がうつむいていた顔をようやく上げて二人を迎えた。「あ、キー坊、駿ちゃん・・。」

 「桃子っ!復讐するぞ!」鍵司が拳を握りしめて威勢よく言った。

 「そや、あんなん人間の言うことやない。許したらあかん。」

 「ありがとう、二人とも・・・。」桃子の目から、またぽろぽろと涙がこぼれた。

 「元気出しいや。俺たちがピーチ姫のかたき、取ったる。学校に殴り込みや!」

 「駿ちゃん・・・。」

 「桃子も、いつまでも落ち込んでるわけにはいかねえんだよ。ほら、いつものように元気出しな。」鍵司が桃子の背中を軽く叩くと、桃子は突然立ち上がって鍵司に抱きついてきた。「こ、こらっ!桃子!」

 「わーん!キー坊!私、くやしいよぉ!」おいおい。桃子は声を上げて泣きだした。

 「わかるわかる。わかるから離せよ。」鍵司は真っ赤になってうろたえた。

 べりべりっ。桃子をようやく引きはがすと、ハンカチで涙を拭ってやってソファに座らせた。

 「ありがと。ハンカチ洗濯して返すわね。」ぐすぐす。

 「当り前だ。」

 とか何とか言いながら、桃子はすでに鍵司のハンカチを十数枚プールしていた。

 「ところで、負傷した教師ってのは・・おい桃子、誰だか知ってるか?」

 「玄海先生らしいわ。」鼻をすすりながら、桃子は震える声で言った。

 「何やて?!鮫子先生やて?」

 「ほんとか?それ。」

 「私ね、友だちに電話で聞いてみたの。そしたらね、いろんなことがわかったわ。」

 「どんなことや?」

 「爆破されたのは校長室の金庫と生徒会室の例の隠し通路みたいなの。」

 「ほほう、確かに俺たちの今後の行動を見透かした場所だな。」

 「そうでしょ?権堂妖子が逃げた通路を使用不能にして、金庫にしまってある校舎見取図を処分した、ってことになるわよね。」

 「で、鮫子先生はどこで?」

 「金庫に彼女が近づいた時に突然爆発したらしいの。」

 「どの程度の怪我なんだ?」

 「顔に包帯、右腕も包帯でぐるぐる巻きにしてあって、見た目はそうとう重傷のようよ。」

 「悪いことしてしもたな。」

 「時限爆破装置がついていたのかね。」

 「それはよくわからないの。警察が調べ尽くしているでしょうから、私たちの手は伸ばせないわ。」

 「ふむ・・。」

 「ただ、」

 「ただ?」

 「あの時の臭いはTNT火薬の爆発臭だったと思うのよ。」

 「TNT?」

 「そう、トリニトロトルエンで作られた爆薬。威力は黒色火薬の比ではないわ。」

 「そんなにすごいんか?」

 「そりゃあもう。テロや戦争に使うのよ。物を徹底的にぶっこわすために作られた爆薬だもの。」

 「・・・玄海先生、入院してるのか?」

 「見舞いにいこ。」優しい駿平の言いそうなことだった。

 「そうだな。事情も聞きたいしな。」

 三人はすぐにそこを出ると玄海鮫子の入院している「黒井整形外科医院」に向かった。


 「あっ!木村のおばちゃん!」

 「桃子ちゃんじゃないの。どうしたの?誰かのお見舞い?」

 「ええ。学校の先生。」

 「そう、だから駿平ちゃんと鍵司くんもいっしょなのね。」

 『げげっ!あのおばはんや!』駿平は言葉を表情に代えて出した。

 『まいったぜ、こんなところに現れるとは・・・』鍵司も右にならった。

 桃子の家の近所の、背丈が桃子とほとんど変わらない小柄な中年のおばさんだった。桃子とは小さいときからの顔見知りである。駿平も鍵司も何度となく彼女と桃子の果てしなく続く会話に巻き込まれた経験がある。そのおばさんはゴム入りの白い給食当番帽子をかぶり、マスクをして、白い色がすす汚れて灰色になった作業服を着ていた。

 「おばちゃん、この病院で働いてたのね。」

 「ちょっと暇を持て余してねえ。先月からよ。」

 「そうだったの。」

 「何ていう先生なの?」

 「玄海鮫子。」

 「げんかい?聞いたことないわねえ。」

 「最近入院したのよ。」

 「そうなの・・怪我?病気?」

 「怪我なの。でも命には別状ないっていうから。」

 「そりゃよかった。早く見舞っておあげ。」

 「うん。」

 今日は意外に早めに会話が切り上げられて鍵司も駿平もほっと胸をなでおろした。いつも彼女らの話が始まると、彼らは近くの駄菓子屋でポテトチップスを買い、自動販売機で缶ジュースを買い、その店の前に座り込んでひとしきりぱりぽりとポテトチップスを食べながら取り留めもないことをぽつぽつと話さねばならなくなるのが常だった。だがそんな時、大した話題もないので、二人はひたすら飲食に興じることになる。そして飲食物がなくなって、やれやれ、と腰を伸ばした頃にやっと桃子たちの会話が終わる。今回、この病院にはポテトチップスが売られていない。どうしよう、と思っていた矢先に木村のおばさんは桃子から、モップを持って鼻歌混じりに離れて行ったのだった。

 「さ、行きましょ。」

 「へいへい。」

 「助かったわ。」駿平が額の汗をぬぐった。


 玄海鮫子はベッドに横になったまま、読んでいた本にしおりをはさんで顔を上げた。

 「あら、桃子さん、小川くんに速水くんも。いつも仲がいいわね。」

 「先生、すみませんでした。私たちのせいで・・・」

 「気にしないで。あなたたちのせいではないわ。それに、私信じてる。犯人はあなたたちじゃないってね。」

 「え?」

 「TNT火薬は楊さん、まだ扱ったことないでしょ?」

 「やっぱりTNT火薬だったのか。さすがだな桃子。」

 「見直した?」

 「へえへえ。」

 「こないな時にこないなこと聞くのん、失礼やとは思うんですけど、」

 「どうしたの?速水くん。」

 「ふっとばされた金庫の中に校舎の見取図はあったんでしょ?」

 「そうね。」

 「燃えちまったんですか?」

 「火はすぐに消し止められたから、爆弾の近くでなければ燃え残ったかもしれないわね。でも、どうかしらね、見取図の近くで爆発が起こったらしいから・・。」

 「じゃあ、もう残ってないかもしれへんな。」

 「たぶんね。」

 「学校の企み暴くの、難しくなってきたな。」諦観の境地に鍵司は入りかけていた。

 「そやな、フェノなんとかの件も中途半端やし。」駿平もため息をついた。

 不意に訪れた沈黙を解消したのは鮫子だった。「りんご食べる?」

 「あ、すんまへん。じゃ、遠慮なく。」駿平はその言葉にすぐに反応した。彼はベッドの横のテーブルからりんごとペティナイフを手にとった。

 「駿平もなかなかずうずうしいやつだな。」

 「いいのよ。食べて。」鮫子が促した。

 「ええ、遠慮なく。」

 駿平は慣れた手つきでりんごをむき始めた。

 「駿平くん上手ね。」

 「好きなんですわ、こんなん。おっと!」駿平は手をすべらせて左手のりんごをベッドの上に落としてしまった。

 「あら、褒めたとたんに。」鮫子が包帯で巻かれた左手を伸ばしかけて、自由が利かないことに気づいたのか右手でそのりんごを取り上げた。そして駿平に手渡した。

 「すんまへん、先生。」

 「そのりんご、持って帰れば?」

 「そうですね。じゃ、お言葉に甘えさしてもらいます。」

 「やっぱずうずうしいぜ。」

 「そうゆう性格なんや。ほっといてんか。」

 「ま、いっか。そろそろ帰るぜ、桃子。」

 「そうね。」

 三人がその病室のドアを開けた時、背後から鮫子が後ろ髪を引くようなことを言った。

 「あなたたち、宝船高校、辞めるの?」

 少し躊躇して桃子が答えた。

 「はい。もうこれ以上通えません。」

 「・・・無理もないわね。先生も寂しいわ。」鮫子はうつむいた。

 桃子は精一杯の笑顔を作って言った。

 「しばらくしてほとぼりがさめたら時々遊びに来ていいですか?」

 鮫子は寂しく微笑んだ。

 「ええ。いいわ。私と対等に化学の話ができるのは桃子さんしかいないから。」

 「そんな・・。」桃子は照れた。

 「さ、行こ、ピーチ姫。」


 「どうしたんだ?駿平、さっきから黙り込んだままだぜ。」

 「・・・・・」

 「何か考え事してるの?駿ちゃん。」桃子は駿平の顔をのぞき込んだ。

 「俺の考えすぎかもしれへんけど・・・」

 「どうしたの?」

 三人は立ち止まった。丁度『黒井病院』の門を出たところだった。「ん?」

 「どうしたの?キー坊。」

 「二人ともこっちへ来い。」

 鍵司は駿平と桃子を強引に再び病院の敷地の中、広い駐車場に引っ張り込むと、すぐそばにとめてあった黒いワゴン車の陰に無理やり引きずり込んだ。

 「どうしたんや?鍵司。そないにあわて・・ふががっ」

 「しーっ!」鍵司は駿平の口をふさいだ。そしてあたりを見回すと声をひそめて二人にささやいた。「校長が来た。」

 「何やて?!権堂こうちょ」

 「しーっ!」

 「ふがが・・・。」

 「本当?」桃子が無声音で言った。

 「間違いねえ。あの趣味の悪いサングラスと真っ黒の33ナンバーの車。」

 「鮫子先生の見舞いかしら・・。」

 「たぶんな。」

 「あっ!入ってきたで。」

 権堂校長の大きな車が病院の駐車場に入ってきた。三人は校長の車に見えない位置にワゴン車のまわりをずりずりと移動した。

 校長が病院の中に入って行ったのを確認すると、駿平が突然立ち上がった。

 「二人とも、聞いてんか。」

 「どうした?駿平。」

 「おかしいで、玄海鮫子。」

 「何が。」

 駿平は二人にまくしたてた。「血色のいい顔にあれだけの包帯をしていて言葉もいつもと変わらん調子や。それにわい、わざとりんご落としてんけど、先生の利き腕は左手やったな?その腕もあないな包帯の巻き方から察すると、かなりの怪我や。やけど、りんご取ろうとした時、痛そうな顔せえへんかってんで、おかしいと思えへんか?」

 「そういえば・・・・。」

 「麻酔してたんじゃねえか?」

 「麻酔した腕をとっさに動かすなんてできないわよ。確かに変ねえ。」

 「おまけに、設計図の近くで爆発が起こったなんて言うとったやろ?設計図を俺たちが欲しがっとることは、俺たち三人と玄海鮫子しか知らんことや。それに、爆薬がその設計図の近くにあったなんて、なんで玄海鮫子にわかるねん。絶対怪しいで、あいつ。」

 「確かに・・・。」

 「それに今の権堂校長や。何かあるで。」

 「よしっ!盗み聞きしてやろう。」

 「ど、どうやって?」

 「おまえが変装するんだよ。桃子。」

 「あ、あたしが?」

 「そっか、あのおばはんに化けさせるんやな。鍵司も頭ええで。」

 「よし、行け!桃子。」鍵司は桃子の背中をひっぱたいた。

 「ちょっとお・・。」

 「時間がない。早くしろっ!」


 怪しげな掃除のおばさんは、玄海鮫子の病室の前をやたらと念入りに掃除していた。時々動作を止めてドアに耳を張り付けている。

 「な、なんて不器用なんだ、あいつは!」鍵司はすぐ近くの喫煙所にある破れかけたソファに下にもぐりこんで桃子の様子を見ていた。「あんなことしたら、おもいっきり怪しいじゃねえか。」

 ドクターの一人がそこを通りかかった。桃子はあわててドアから身を離し、本物のおばさんそっくりの鼻歌を歌い出した。

 「ったく、わざとらしい・・」鍵司は舌打ちをした。ドクターが怪訝な顔をして通り過ぎ、向こうの角を曲がったとたん、なんと鼻歌を歌っていた掃除のおばさんは、いきなり病室のドアを開けて中に入っていくではないか。

 「ばっ!」鍵司は自分の上にソファがあるのを忘れて立ち上がった。ソファが派手にひっくり返った。「な、なんてことしやがるんだ!桃子のやつ!」

 鍵司は倒れたソファを元に戻したあと、再びその下にもぐりこんだ。

 何の変化も訪れなかった。鍵司は息をするのも忘れて、冷汗でべたべたになりながら成行きを想像した。桃子が校長に正体を見破られたらアウトである。何もかも水の泡だ。そもそも怪しい玄海鮫子と権堂校長の会話を盗み聴きするのが目的である。桃子のやつ、まさか強引にその会話に割り込もうなどと思っているのではなかろうな、いや、それどころか、自棄になり、病室を爆破して二人をふっとばそうなどと思っているのではないだろうか、と鍵司は気が気ではなかった。掃除のおばさんに変装しても、桃子が爆薬を持ち歩いていることは十分考えられる。無鉄砲で危険極まりない娘である。

 がちゃり。

 「はっ!」

 病室から出てきたのは権堂校長だった。何くわぬ顔をして、すたすたと去って行った。

 「ま、まさか、桃子のやつ、消されたんじゃ!」鍵司は胸騒ぎを覚えた。そしてさっきと同じようにソファをひっくり返して立ち上がると、桃子が消えた病室のドアを蹴り開けた。「おばさんっ!」とっさに叫んだのは桃子の名ではなかった。本当は桃子と叫ぶはずだった。が、鍵司の頭は混乱して自分でも何をしているのかわからなくなっていたのだった。「あっ!」

 おばさん、いや桃子は無事だった。それどころか、大胆にも鼻歌を歌いながら床をモップがけしている。

 「え?・・・あ・・・」

 「どうしたの?鍵司くん、帰ったんじゃなかったの?」鮫子は涼しい顔でさっき読みかけていた本を伏せた。

 「あ、いや、その・・・」

 ちらりと鍵司の顔を見た桃子の視線は怒っていた。

 「こ、このおばさん、桃子の知り合いなんです。」

 「それで?」

 「ちょ、ちょっと桃子に急用を頼まれて、迎えに来たんです。お、おばさんを。」

 「そう。」

 「あのさ、おばさん、桃子がね、おばさんに預けた財布を返して欲しいって・・」

 おばさんに化けた桃子は無言で手をぽん、とたたくと鍵司といっしょに病室を出て行った。


 「ばっかじゃない、あんた。」桃子は自分の頭の給食当番帽子をむしり取ると恐ろしい顔つきをしてかみつかんばかりの剣幕で鍵司に迫った。「いったい、何のつもりよ!」

 「そ、そんなこと言っても、し、心配したんだぞ!」

 「ふん!今まで私を心配してくれたこと、なかったくせに。」

 「ば、ばか言え、おまえがな、病室に入って行って中で消されたんじゃねえか、って思ったんじゃねえかっ!」鍵司も唾を飛ばしながら反論した。

 「危うくばれるところだったじゃないの。」

 不幸中の幸いだった。あの時鍵司が桃子と叫んでいたら、鮫子は桃子たちの怪しい動きに気づいてすぐさま何か手を打って来るに違いなかった。

 「ところで、何か成果があったのか?」

 「間違いないわ。鮫子もグルよ。」

 「ほ、ほんとか?」

 「ええ、危ないところで騙されてたところ。私たちの味方を装って接近して抹消の機会をうかがっていた、ってところかしらね。」

 「なんと!」

 「再現するわ。二人の会話。私の家に行きましょう。」

 「ああ。そうだな。」

 さて、桃子と鍵司が鮫子の病室あたりでごたごたしていた時、駿平はどうしていたかというと、実は彼も掃除のおばさんになりすまして鮫子の病室の会話を盗み聴きするはずだった。桃子の強い提案である。高校生にしては小柄な駿平のことだ、きっとバレないに違いない。とは桃子の無責任な言葉である。実際、彼もあの木村のおばさんに頼んで掃除婦のユニフォームをもう一着借りていた。駿平はトイレでそれに着替えたまでは良かった。彼が変装してこっそりトイレから出ようとして、ふと見てしまった鏡の中に、マスクをしているにも関わらず、見事にキュートなギャルに変身した自分自身がいたのだった。桃子がいつの間にか用意してくれたファンデーションを塗り、それにシャドーを入れた瞼とマスカラをつけたまつ毛が異様によく似合っていて、あろうことか鏡の中の自分に対して、一瞬なんて愛らしい、と思ってしまったのだった。三人の中では一番常識的とも言える駿平がそのまままたトイレにこもってしまったのは言うまでもない。

 三人は木村のおばさんに掃除の衣裳を返した後、病院の裏口から出て、こっそりタクシーを拾って桃子の家に向かった。駿平はつばの広い帽子を目深にかぶって顔を隠していた。化粧を落としていなかったからである。マスクの下にルージュをさした唇があることをタクシーの中で鍵司は初めて知った。

 「口紅までしてやってたのかよ!」

 桃子はそんな駿平の顔をのぞき込んで言った。「かわいい!駿ちゃん。」

 「やめろよ、桃子。駿平落ち込んでるじゃねえか。」

 駿平は化粧をしている自分のふがいなさより、自分自身を愛らしいと思ってしまった自分が情けなくてしょうがなかった。鍵司の言った通り、彼は思いっきり落ち込んでいた。


 『あの、三人、さっきここに来たわよ。』

 『本当かね。』

 『あたしが本当に怪我したと思ってるわ。』

 『ふん。他愛ないな・・。』

 『高校を辞めるって言ってたから、大丈夫よ。』

 『いや、安心はできん。奴らは仕返しに来るはずだ。わしにな。』

 『でも、私たちの計画はうまく実行に移せることになりそうじゃない?』

 『そうだな。秘密を知られる前にうまく返り討ちにできれば一石二鳥だ。』

 『でも、そんなことやつらは承知の上なんでしょ?そういうリスクを冒してまで、あんたに仕返しに来るかしら?』

 『来るな。奴ら、特にあの中国娘楊 桃蘭のしぶとさはおまえも知っておるだろう?』

 『そりゃあね。』

 『必ず抹殺してくれる・・・。』

 『恐ろしいこと・・・。』

 『がちゃ。』

 「何だよ、その『がちゃ』ってのは。」鍵司が桃子に尋ねた。

 「私が病室に入った時のドアの音よ。」

 「細かいやっちゃな。」

 「続けるわよ。」

 「ああ。」

 『それで、いつまで入院しなきゃならんのかね?玄海先生。』

 『あと二、三日ぐらいだと思いますわ、校長先生。』

 「しらじらしいな・・・」

 「ほんまやな。急に言葉遣いが変わりよった。」

 『では、私は失礼しますよ。お大事に。生徒たちも心配してます。』

 『はい。お見舞いどうもありがとうございました。』

 『ピー。』

 「な、何だよ、その『ピー』ってのは。」鍵司がたずねた。

 「これで会話の再現を終わりますってことよ。」

 「あほか。留守電じゃねえんだぞ。」

 「ま、これではっきりしたな。ようやったで、ピーチ姫。お手柄や。」

 「キー坊、時にはあんたもこんなふうに労いの言葉、かけてくれたらどう?」

 「けっ!」鍵司はソファにあぐらをかいた。

 「よお、鍵司に駿平、来てたのか。」ごっつい身体にでかい声の髭の濃い男がいきなり部屋に入ってきた。

 「パパ。」

 「どうだった?ん?病院で何か掴んだか?」どかっ!桃子の親父はソファの鍵司の横にその体重を乗せた。びょん!あぐらをかいたまま鍵司は20cmほど飛び上がった。桃子の部屋のソファはスプリングがよく効いている。

 「おやっさん、知ってたんですか?」

 「あったり前だ。わしは桃子の父親だ。」

 「そ、そりゃそうだけど・・・。」

 「パパ、権堂のやつ、私たちを抹殺しようと企んでいるわ。」

 「ほほう・・ついに本性を現したってわけだな。」彼は腕組みをした。「そしておまえたちはやつに復讐しようと思っているわけだ。こりゃ、おもしろいことになってきたぞ。」

 「なに他人ごとみたいなこと言ってるのよ。かわいい娘の命が狙われてるのよ。少しは心配したらどうなの?」

 「なってしまったことはしかたない。それに、おまえはちょっとやそっとの爆弾でも死なん娘だ。そう簡単には壊れんよ。丈夫に産んだ親に感謝しろ。」

 鍵司も駿平も不必要に大きくうなづいた。

 「何よ、みんなで寄ってたかって、あたしをコケにしてっ!」

 「まあまあ、桃子落ち着けや。おもしろいこと教えてやろう。」

 「え?」

 「おもしろいこと?」

 「これだ。」桃子の親父が茶封筒から取り出したのは、宝船高校の設計図だった。

 「こ、これは!」

 「設計図や!」

 「どうしたの?これ。」

 「わっはっは、わしの顔が広いのがわかったか。」

 「確かに広いわね、パパの顔。」桃子は父親の顔をじっと見つめた。

 「違うだろ?」父親は娘をにらみつけた。

 「どこから手にいれたんです?」

 「あの学校を建てたのは『黒井建設』という会社でな、」

 「黒井?玄海鮫子の入院している病院と同じ名前・・・」

 「そうだ。いいことに気が付いたな。病院の院長と『黒井建設』の社長は兄弟なんだ。」

 「兄弟?」

 「その上、二人とも宝船高校の理事を務めとる。」

 「理事?」

 「そうだ。わしもつい昨日の夕方4時まで理事をやっとったが、おまえが学校を辞めるというので辞任した。」

 「じゃ、じゃあ、黒井兄弟をパパは知ってるわけね?」

 「当然だ。だが、この設計図を手に入れるのには、ちと苦労した。」

 「い、いったいどうやって?」駿平も鍵司も身を乗り出した。

 「盗んだのだ。」

 「ぬ、盗んだ?!」

 「わしの庭師に頼んでな。」

 「庭師?庭の手入れをする人?」

 「ふっふっふ、そう思うのが素人の浅はかさよ。そのように見せかけて、実はわしのお庭番なのだ。」

 「やっぱり庭の手入れをする人じゃない。そんな人うちにいたっけ?」

 「何も知らん娘だなおまえは。」親父は眉間に深々としわを作った。「お庭番というのは、隠密行動をとるわしのボディガードみたいな者だ。」

 「ボディガード?」

 「その通り。」

 「っちゅうことは、そのお庭番が敵をスパイして、その設計図を持ち帰ったってわけやな?」

 「ぴんぽーん!」親父は左手の人差し指を立てた。

 「誰なのよ、そのお庭番。」

 「秘密だ。」

 「何が秘密よ。実の娘にも言えないっていうの?」

 「当り前だ!おまえがいつわしを裏切るかわからんではないか。敵を欺くにはまず味方から、というだろう?」

 「わかったわよ。好きにして。」ふんっ!桃子はそっぽを向いた。

 「ま、ま、ま、そうヘソを曲げるな。そのうち教えてやるよ。」

 「で、『黒井建設』にあったその設計図をそのお庭番が持ち出してきたってわけか。」

 「ちっちっち、それが違うのだ。」

 「えっ?」

 「これはな、『黒井整形外科医院』の地下金庫に隠してあったらしい。」親父の声が低くなった。

 「病院の?」

 「そうだ。」

 「掃除婦に化けて潜入しているお庭番が地下金庫を発見した。そこには黒井兄弟の秘密の書類がうじゃうじゃあったのだという。」

 「掃除婦?」鍵司と駿平と桃子は顔を見合わせた。「も、もしかして・・・」

 「ん?どうかしたか?」

 「そのお庭番って、もしかして木村のおばちゃん?」

 「な、な、なんでわかったのだっ!」親父はうろたえた。

 「意外だったな。」

 「全然そんな風には見えへんかったな。」

 「し、知らなかった・・・・」

 「会ったのか?病院で?」

 「うん。偶然ね。」

 「俺たちの変装を手助けしてくれたんだ。」

 「『俺たち』やあれへんやろ?鍵司は変装してへん。」駿平がむきになって言った。

 「そかそか。変装したのはおまえと桃子だったな。」

 「何だと?駿平も変装したのか?」

 「そうなの。駿ちゃんとってもキュートな掃除婦の女の子になったのに、トイレから出てこないんだから。パパにも見せたかったわ。むちゃくちゃかわいかったのよ。」

 「やめてや!ピーチ姫!」駿平は悪徳の記憶がよみがえってきて耳まで真っ赤になってうつ向いた。

 「ほーかほーか。そりゃ残念だったな。そのうち再現してもらおう。楽しみにしとるぞ、駿平。」


 宝船高校では爆発事件の犯人は桃子たちであること、そして彼らは自主的に退学したということ、しかし、未成年であるから刑事事件には発展させないことが全校生徒に告げられていた。そんな教師たちの話を聞くと、さも、学校は三人の悪行をかばってやって、表沙汰にしなかった、という恩着せがましい態度が見え見えだった。そして一学期も終わりに近づいた。

 「灰駄先生、本当にあなたの装置でうまくいくのですかな?」校長室で、権堂校長は向かいに座ったよぼよぼの老人に話しかけた。

 「心配ご無用じゃ。わしに任せておけばよい。」

 「夏休み直前に一週間ほど、でしたかな?」

 「そうじゃの。それくらいで効果は十分じゃろう。」

 「では7月に入ってすぐからでも。」

 「うむ。任せてもらおう。」やせ細ったその灰駄という老人は玄海鮫子に支えられてようやく立ち上がった。

 灰駄を送り出すと、権堂校長は再び入ってきた玄海鮫子に言った。

 「君も手伝ってくれるのだろう?」

 「わかってるわ。」

 「この件に関する設備は全て君に任せてあるのだ。ぬかりはなかろうな。」

 「私を信じなさい。万端よ。」

 「だが、油断はできん。いつあの爆弾娘一味がさぐりを入れるかわからん。」

 「もし、彼らが来たらどうするつもり?」

 「ふっふっふ、おびき寄せるのだ。地下操作室にな。」

 「危険じゃない?爆弾しかけられたらどうするの?」

 「なあに、そんなことをする暇を与えず消してくれる。三人ともな。」

 「あんたも悪人ねえ。」

 「ふっふっふ・・。見直したかね?鮫子くん。」


 「この設計図、ちゃんと裏の通路まで描かれているわね。」

 「木村のおばちゃんさまさまだな。」

 「実に縦横無尽に作られとるな。あちこちに抜け道があるわ。」

 「そうだな。何かあってもすぐに外に出られるってわけだ。」

 「裏の通路を知った以上、私たちの命は危ないわね。」

 「そうやな・・。」

 「いつ狙われても不思議じゃないな。」

 「慎重にね。キー坊、駿ちゃん。」

 「ピーチ姫こそ、無茶せんときや。」

 「ありがと。」

 「さてと、どうせ命を狙われるんなら早めに突入した方がよさそうだぜ。」

 「そうね。えっと、抜け道の場所は・・・・」桃子が校舎の設計図を指でなぞり始めた。「全部で4か所、違った5か所みたい。」

 「書き出すぜ、えっと・・・」鍵司が赤ペンでメモの用意をした。

 「読み上げるで、ええか、」

 「よし。駿平、頼む。」

 「プールの建物の中、体育館のステージの下、グラウンドの体育用具倉庫の中、中庭の噴水、それに校舎の裏の森の中やな。」

 「特異だな、その森の中ってのは。」

 「一番忍び込みやすいことない?そこって。」

 「そうだな。位置は確認できるか?」

 「思いっきり奥深いとこやで、道もあれへん。」

 「なるほど・・。どうする?桃子。」

 「どうするって?」

 「だから、何のために敵陣に侵入するのか、だよ。」

 「そやな、仕返しする相手は校長やろ?校長をどうしたいか、っちゅうことやな。」

 「本当は・・・殺してやりたいほどなんだけど・・・」

 鍵司はそううつ向き加減で言う桃子の気持ちがよくわかった。

 「殺人はまずいんじゃねえか?」

 桃子は無言でうなづいた。

 「校長としての権力の座から引きずり降ろすってのはどうや?」

 「そうだな、妥当な線だな。」

 「そやけど、どうやって?」

 「私、思うんだけど、あの校長、何か裏があるような気がしてならないの。」

 「裏?」

 「そう。何かとんでもないことを企んでるか、実際にやっているか・・。」

 「その秘密を暴こうっていうんだな?桃子。」

 「確かに性格悪いから仕返ししたる、っちゅうだけやと、こっちの行動に正当性が生まれんな。」

 「そう、それに他の生徒たちには罪はないわけだし・・・。」

 「問題が大きいな・・・。」

 「だから、その校長の企みを暴くことが先ね。私の性には合わないもどかしさはあるけど。」

 鍵司も駿平もうなづいた。

 「よっしゃ、どっちにしても学校にこっそり潜入するしかないな。話はそれからや。」

 「森の抜け道を利用するか。」

 「そやな、設計図見るとまっすぐ校舎の下に続いとる。」

 「この校舎の下の広い部屋はなんだろうな。」

 「行ってみらなわからへん。」

 「だが、何かありそうだな、この部屋。」

 「決まりね。森から入りましょ。」


 小高い丘に建っている宝船高校を取り巻くように深い森が広がっている。その一角、丁度校舎から見てほぼ北の方角に抜け道の×印はあった。桃子たちはやっと梅雨らしくなったじめじめとした天気の日を選んで行動することにした。特に理由はない。たまたま彼らが行動を始める前日に偶然雨が降り出したに過ぎないのだった。わざわざおそろいの灰色の雨合羽を用意してゴム長靴を履いて夜が明けるか明けないかの時刻に三人は行動を開始した。小さな雨が降っていた。道なき道を木や草をかき分けて進む三人の瞳には燃えたぎる復讐の炎が宿っていた。

 「こないな森の中じゃ、方角がようわからへんな。」

 「心配しないで、駿ちゃん。キー坊に任せて。」

 「ん?」駿平が見ると、鍵司が目を閉じて耳をすましている。桃子も駿平も足を止めて口を閉ざした。

 目を開けた鍵司は地図を見た。そして桃子たちに向かって言った。

 「かなり近いところに来ているぜ。」

 「な、なんでそないなことわかるんや?」

 「学校のプールの浄水装置のモーター音と学校の正門前の交差点の歩行者用信号の盲人用メロディの方角からして、俺達はだいたいこのあたりにいるはずなんだ。そして間もなく駅に電車が到着する時刻・・・」鍵司は腕時計を見た。

 駿平はぽかんと口を開けてそんな鍵司を見ていた。「そ、そないな音まで聞こえるんか?鍵司。」

 「しーっ!」駿平の言葉を制して鍵司はまた目を閉じた。どんなに耳を済ませても駿平には木々の葉に当たる雨粒の音しか聞こえなかった。

 「よし、わかったぞ。」鍵司は目を開けた。「おれたちは今ここだ。」鍵司は地図の一地点をびしっと指さした。「駅のフォームの発車ベル音がこの方角から聞こえた。ということは、さっきの二つの音によって考えられる位置がさらに狭くなったわけだ。」

 「いつもながら見事だわ。」桃子が拍手をした。

 「そ、そんな音、よう聞き分けられるもんやなあ。鍵司。」

 「見損なっちゃ困るぜ。同じグレン・グールドのピアノでも、トロントでの録音とニューヨークでの録音では全然違う。ま、グールドはわかりやすい方だがな。」

 「あきれるわね。」

 「ほんま、人間わざとは思えんな。」

 「急ごうぜ、あと10mほどだ。」鍵司は先頭を歩き出した。

 そして本当にそのぐらいの距離の所に丸い井戸のようなコンクリート製の穴があった。直径1mほどで金属の蓋がついている。

 「これだぜ。」

 「そのようね。開けられる?」

 「だいじょうぶや。」駿平はそう言ってその少し錆のきている重そうな蓋に手をかけた。「ん?」

 「どうした、駿平。」

 「宝船マークや。」

 「本当だわ。」

 金属製の蓋の中央に小さく目立たない宝船の絵が描かれていた。

 「これも・・・蓋や。」駿平はその絵の部分が直径5cmほどの小さな円盤になっていることを突き止めた。そしてそれを回転させてはずしてみると、中から金色のコインが姿を現した。

 「こっ!これは!」

 「七福神コインだ!」

 「寿老人や。三個目やな。」

 「いったい、何なのかしら?このコイン。」桃子が駿平から受け取ったその金色に輝くコインを眺めながら言った。「でも、」彼女は顔を上げて二人を見た。「ピアノの中に弁天さん、この森の中に寿老人ということは、何となく場所と神様との関連を匂わせるわね。」

 「なんでだ?」

 「弁天さんは音楽の神さんや。」

 「だから音楽室か。で、寿老人は?」

 「かなりこじつけだけど、」そう前置きして桃子は言った。「寿老人の絵には鹿もいっしょに描かれることが多いのよ。鹿は森に棲むでしょ?」

 「まあ、そりゃそうだが・・・。」

 「あくまで推理だけどね。」

 「何か秘密があるに違いねえ、おまえ持ってろ。」鍵司は桃子にコインを管理する役目を押しつけた。「あとのが見つかったらまた何か推理しろよ。」

 桃子は珍しく何の反論もせずにコインをポーチにしまった。

 「ほしたら開けるで。」駿平が侵入口の蓋に手をかけた。「よ、よいしょっと・・。」

 がこん。蓋が開けられた。ワイヤーロープと鎖で作られた縄梯子が下がっていた。中は真っ暗である。「どうする?ピーチ姫。」

 「どうするもこうするも、中に入るしかないじゃない、駿ちゃん。」

 「それもそうやな。」

 「よし、俺が先頭で、」鍵司が言った。

 「大丈夫?キー坊。」

 「なあに、心配するなって。」

 「暗闇に弱いでしょ?」

 「なんだと?何を根拠に・・・」

 「前にドアに頭突きしたこと、あったな。そう言えば。」

 「ほっとけ!行くぞ。」

 鍵司を先頭に、桃子を間にはさんで三人は暗い井戸の底に降りて行った。

 「雨合羽が邪魔やな。動きにくうてかなわんわ。」駿平が不満を漏らした。

 「脱ぐわけにはいかないわ。もし、誰かに見つかって逃げるときにその合羽からアシがつくわよ。」

 「その通りだ。このまま学校に入ったとなれば、俺たちゃ立派な不法家宅侵入罪だぜ。」

 「この手術用のゴム手袋も指紋を残さんためか・・・。」駿平は自分の手を見てぶつくさ言った。

 鍵司は持ってきた懐中電灯で先を照らしながら歩いている。縦穴の井戸の底からは校舎に向かってまっすぐに横穴が続いていた。思ったより天井も高く、造りも頑丈そうだった。ただ、壁をしらべても灯はなく、ただつるりとした黒い金属版が張ってあるだけだった。

 「牢獄に向かって歩いとる感じやな・・。」

 「不吉なこと言わないでよ。駿ちゃん。」

 三人の足音だけが彼らの耳を刺激した。

 「そろそろ校舎の床下あたりにたどり着くはずなんだが・・・」

 鍵司がそう言った直後に彼らは通路を塞いだ壁に行き当たった。

 「やっぱりな。壁だぜ。いや、ドアか?」

 「壁なわけあれへんやないか。俺たちが歩いてきたのは通路やで、中とつながっとるはずや。」

 「だが・・・・取っ手も何も・・・ないぜ。」

 「本当?」桃子が鍵司の手から懐中電灯を奪って調べ始めた。「本当だわ。」

 「俺の言うことも時には信じろよ。」

 「変ねえ。電動で開くのかしら・・。」

 その金属製のドアは押しても引いても横に動かそうとしてもびくともしなかった。

 「つまりや、外からは開かないようになっとるんと違うか?」

 「あり得るな。ん?」鍵司が二人の口を閉じらせてそのドアに耳を当てた。「何か聞こえるぞ。」

 三人は息を凝らした。鍵司はそのドアの向こうの音を残さず聞き取ろうと微動だにしない。しばらくして鍵司は桃子と駿平に自分のささやきが聞こえるくらいの位置に近づくように指図した。「おい、今何時だ?」

 鍵司と同じようにひそひそ声で桃子が言った。「7時を少し回ったところよ。」

 「誰かいるぜ。ありゃあ確か・・・」鍵司は一瞬言葉を切ってすぐに続けた。「灰駄先生の声だ。それに・・・校長もいるぜ。」

 「灰駄先生やて?」

 「話の内容がわかる?キー坊。」

 「夏から・・・・放射線・・・・ううむ、よく聞こえん。」

 また鍵司は目を閉じて黙った。そして彼が目を開けたとき、桃子は鍵司の表情に驚愕の色を見てとった。「800ミリシーベルト・・・高い合格率は保証できる。・・だと!」

 「どうしたの?キー坊。」

 「と、とんでもねえ野郎どもだ!二人ともよく聞けよ。」

 壁から耳を離した鍵司は桃子と駿平にもっと近づくように言ったあとで、半分震える声で打ち明けた。

 「この奥には巨大な放射線発生装置がある。その放射線で生徒たちの脳を刺激してにわか天才にするらしい。」

 「な、何やて?!」

 「放射線で!」

 「そうだ。おい桃子、800ミリシーベルトってどの程度の放射線量なんだ?」

 「法律で決められている現在の一般公衆の線量限度は1ミリシーベルトよ。」

 「な!」駿平は言葉を失った。

 「すると、その800倍もの放射線を三年の生徒たちは夏から浴び続けるってことか!」

 「被曝障害が・・」

 「それで灰駄先生が・・・。」

 「おかしいと思ったんだ。あんな授業にも使えないようなよぼよぼの教師がこの学校にいるってことがな。」

 「灰駄先生って確か放射線力学の権威なんですってよ。」

 「辻褄が合ってきたな。」

 「何としても止めなあかんな。」

 「どうする?桃子。」

 「証拠がいるわ。」

 「そうだな・・。」

 「このドアが開けば二人をとっつかまえて、」

 その時だった。出し抜けに三人の目の前のドアが上にするすると上がっていった。

 「あっ!」

 ドアの向こうは広い部屋だった。そしてうずくまるようにしていた彼らを見おろして権堂校長と灰駄が立っていた。

 「ばかめ。飛んで火にいる夏の虫とはおまえらのことだな。いや、虫にしては態度がでかいな。その格好からしてねずみだな!」

 「しまった!」

 「逃げろ!」駿平は桃子の腕を掴んで立ち上がった。鍵司がそれを助けた。

 「逃がさん!」

 逃げる三人の背後からごんごんごん、という震動が伝わってきた。

 「な、何やあれは?!」

 「立ち止まるな!走るんだ駿平!」鍵司が叫ぶ。

 「ふっふっふ、ねずみの黒焼きだ。覚悟せい!」権堂校長の声が響いた。その直後、バチバチッ!壁に火花が飛び散った。

 「こ、これは!」桃子が走りながら叫んだ。「壁に電流が流れているわ!」

 しかし、何事もなく三人は入ってきた井戸にたどり着くと、大あわてで鎖の縄梯子を昇り、ころがるように外に出た。脱出に無事成功した三人はダッシュで逃げて行った。

 「うぬぬぬ!な、なぜ効かなかったのだ!」

 さっきのドアのところに立ちすくんだまま、権堂校長は拳を震わせた。

 「普通の人間ならとっくに感電死しているはず・・。」

 背後で灰駄がぼそりと言った。「ゴムは絶縁体でしてな。」


 「危機一髪ってとこやったな。」

 三人はもう桃子の家に帰り着いていた。

 「偶然とは恐ろしいもんだな。」

 「何が『恐ろしい』よ。命が助かったのよ。感謝しなくちゃ。」

 「ゴム長靴とゴム手袋さまさまだな。」

 「さて、いよいよ俺たち命が危ないぜ。」

 「今さら同じことよ。それより、もうあの井戸からは侵入できないわね。」

 「なんでだ?」

 「だ、だって、同じ手口じゃすぐにバレちゃうわ。」桃子はあわてて言った。

 「放射線発生装置に一番近い抜け道だぜ。あれを何とかしなくちゃいけないんじゃねえのか?」

 「そ、それはそうだけど・・」もごもご・・。桃子は言いよどんだ。

 「さては、何か隠しとること、あるな?ピーチ姫。」

 「言え!何をした。」

 「ちょ、ちょっとね。」

 「ちょっと何をしたんだ?」

 「逃げるときに井戸に爆薬を投げ込んだのよね・・」

 「あ、あほか!後先考えねえヤツだな!おまえは!」

 「だ、だって追って来られたら大変じゃない。あたしだって必死で考えてたんだから。」

 「けっ!おまえが考えるこた、物を爆薬でぶっ壊すことだけじゃねえか。」

 「そんなことないわ!」桃子は反論した。

 「だいたいなあ、おまえのその悪癖のおかげで俺たちまで巻添え食ったんだぞ!学校爆破の犯人にされちまって・・」

 「まあまあ、こんなとこでケンカしとる場合やない。もっと冷静に考えなあかんて。」いつものように駿平が仲介に入った。だが、鍵司の悪態は収まりそうになかった。

 「まったく、よく考えたらなんでおれがこんな危険なことしなきゃなんねえんだ。」

 「なによ!いいわよ!そうまでしてつき合ってくれなくても。キー坊帰ってよ。あたし一人でやるから。」桃子は涙ぐんだ。

 「おまえ一人で何ができるってんだ?え?」

 「できるわよ!キー坊なんて大嫌いよ!帰って!」桃子は本格的に泣き始めて近くにあった雑誌『ニュートン8月号~特集<イオンって何だ!>』を鍵司に向かって投げつけた。

 「ああ、帰ってやるよ!かわいくねえ!もうおまえなんか助けてやらねえよ。」鍵司は

立ち上がった。そしてすたすたと桃子の部屋を出て行った。

 「ちょ、ちょっと待ちいや!鍵司。」駿平が後を追った。そしてドアを出る直前に振り向いて桃子に向かって言った。「ピーチ姫、今は喧嘩しとる場合やないんや。鍵司が悪いのはわかってる、けどな、ピーチ姫も感情的になったらあかん。また来るさかいな。一人で無茶したらあかんで。ええな。」

 鍵司と駿平が去った後、桃子はしばらくしゃくりあげていた。そしてようやくポケットからハンカチを取り出して涙を拭いた時、桃子の親父がノックもせずに部屋に入り込んで来た。

 「パパ、ノックぐらいしてよね。」涙顔を取り繕おうともせずに桃子は父親をにらんだ。親父は桃子の隣にどかりと腰を下ろした。反動で桃子はぴょんと飛び跳ねた。

 「鍵司の気持ちもわかってやれや。」

 「わからないわよ。あんな無骨な男の気持ちなんか。」

 「本気じゃないんだ。鍵司もな。」

 「本当かしら。」

 「不器用なんだよ。あいつはな。だが、喧嘩っ早くて口の悪い乱暴者のおまえによく合わせてくれてるじゃないか。」

 「よくも自分の娘をそんなに悪し様に言えるわね。」

 「もう少し大人になったらどうだ?付き合いは長いんだ。」

 「許せなかったのよ。あいつの言い方が。」

 「だったら聞くが、お前今まで鍵司に『ごめんなさい』って言ったこと、あるか?」

 「・・・・」

 「なかろうが。鍵司の文句を言う前に自分の性格も考えなきゃあな。」

 「でも、あいつも私に優しくしてくれたこと、なかったわよ。」

 「お前の今持っているハンカチは誰のだ?」

 「え?」

 「気づいてないだけなんだよ。」

 「・・・・パパ・・・」

 「今日はもう寝ろ。眠れば気分も落ち着く。」

 「寝ろったって、まだ真っ昼間よ。」

 「カーテン閉めればそれなりに暗くなる。それに今のお前は、夜眠ろうとしても眠れんさ。」

 「変なの。」

 「じゃ、おやすみ。愛しい娘、桃蘭よ。」

 「気持ち悪ーい。」

 「わっはっは!」

 呵々大笑して親父は部屋から出て行った。


 「さて、ここはプールの更衣室だ。」

 「そないなこと、わかっとる。問題はやな、どうやって秘密の抜け穴を探すかってことや。」

 「そんなことはわかってるよ。駿平。」

 鍵司と駿平は宝船高校の5つの秘密の抜け穴のうちの一つ、プール脇の建物の前に堂々と立っていた。まだ暗い未明のことである。

 「どうでもええけど、鍵司、懐中電灯で俺の顔照らさんといてか。」

 「・・・・おまえ、本当に美形だな。」

 「な、なんやねん!俺にそんな趣味ないで!」

 「女装して化粧すれば男が寄って来るぞ、絶対。」

 「あほっ!」

 「身体付きも華奢だしな。」

 「そ、そないなことより早う抜け道探さな。」

 「わっはっは。赤くなってやがる。かわいいやつだな。」

 駿平は建物のドアを一つずつ調べ始めた。まず一番端にある機械室である。中から時折浄水装置のモーターが回る音がする。

 「どう思う?鍵司。」

 「ん?なかなかかわいいぞ。」

 「あほかっ!もうええっちゅうねん。」

 「冗談だよ。」鍵司は駿平の肩を軽くたたいた。「鍵は当然かかっているだろ?」

 「ああ。しっかりとな。」

 「あきらめるしかねえな。次だ。」鍵司は隣のドアのノブに手をかけた。男子更衣室である。「ここもだめだぜ。」

 「しゃあないな。そやけど、男子更衣室には抜け道を造るような場所あれへんかったで。」

 「そんな怪しい場所があったら秘密の抜け道とは言えないんじゃねえか?」

 「それもそうやな。」

 「こっちもだめだ。」鍵司が次に挑戦したのは用具室である。ビート板や薬品が入っている。「ここが一番怪しいんだがな。」

 「なんでや?」

 「棚は多いし道具は散らかってるし、一番ごちゃごちゃしてるじゃねえか。」

 「校舎の設計図、もっとしっかり見とくんやったな。」

 「見たさ。」

 「ほしたらどこに抜け道があるかわかるんやないんか?」

 「それがここに限ってはよくわからんのだ。たぶんこの建物の設計図は別にあるんだろうな。」

 「ふーん。」駿平は最後のドアのノブに手をかけた。「ん?」

 「どうした駿平。」

 「開いてるで、ここ。」

 「いやらしいやつだな。」

 「な、なんで俺がいやらしいねん。」

 「ここ女子更衣室だぜ。」

 「開いてた、言うただけやないか。だいたいこんな夜中に着替えしとる非常識な女がおるかいな。」

 「冗談だよ。駿平、おまえ本当に純情だな。すぐムキになって・・。」

 「鍵司が悪いんやないか。からかうのもええかげんにしてほしいわ。」

 「入ろう。」

 「こないなとこに抜け道なんてあれへんて。」

 「わからんぞ。とにかく入れよ。」

 鍵司は駿平を中に押し込んだ。

 「な、なにすんねん。」

 これが女の子だったら・・・と鍵司は一瞬とんでもないことを考えて、あわてて自分を否定し軽蔑した。

 「ピーチ姫、誘わんでもよかったんか?鍵司。」

 「へんっ!あいつの顔なんか見たくないね。」

 「そんなこと言うて、ほんまのこと言うたらどないや。」

 「な、何だよ。」

 「喧嘩して顔合わせづらいんやろ?俺にはわかるんや。」

 「けっ!あいつがいても邪魔になるだけだよ。いっつも足手まといになってやがる。」

 「無理しよるわ。」

 鍵司は床を調べ始めた。駿平は棚を見ている。

 「おい、駿平!」にわかに鍵司が大声を出した。そして振り向いた時、意外に駿平が近くにいたことに彼は驚いた。棚に怪しいところを認められなかった駿平はきょろきょろしながら何気なく鍵司に近づいていたのだった。そして、

 「う・・・!」

 あまりにも接近しすぎていた二人は思わず抱き合ってしまった。その上、あろうことか鍵司と駿平の唇が重なってしまったのだっ!

 「うわわわわーっ!」鍵司はさらに大声を出した。そして慌てて駿平をはねのけた。

 「な、な、何すんねん!」駿平は真っ赤になって叫んだ。

 「お、お、おまえがあんまり近くにいるからこ、こ、こんなことになるんだ!」

 「どあほっ!ど、ど、どないしてくれんねん!」

 駿平にとってはファーストキスだった。

 「そ、それはこっちのセリフだっ!」

 鍵司にとってもファーストキスだった。

 二人が呼吸を整えるのにえらく時間がかかった。そしてなんとか気を落ち着けると、しかしまだ震えが止まらない声で鍵司は言った。

 「ど、どうやらここだぜ、抜け道。」

 「ほ、ほんまか?」

 「ほ、ほれ、ここ、見てみろ。ゆ、床がべこべこしてるぜ。」

 まだまだ二人の会話はぎくしゃくしている。

 鍵司は部屋の隅の床で軽くジャンプしてみせた。確かに鈍い音がする。

 「間違いなさそうやな。」

 二人がかりでその床を調べて、1m四方の正方形の板を巧妙にはめ込んであることを突き止めた。そしてその板を外すと案の定下に降りるコンクリートの階段が現われた。

 「行こう。」駿平は心臓の高なりを無理に押さえるように、勢いよく言った。

 「待った!」

 「どないした?鍵司。」

 「またあったぜ。」

 鍵司は板がはまっていた場所の角に宝船のマークを見つけたのだ。

 「ここにもたぶん・・」そう言って鍵司は、コンクリートの床の一部になっている宝船マークのついた小さな蓋を外した。「ほら、あったぜ、駿平。」

 「コインや!」

 「恵比寿さんだ。」

 「恵比寿さんちゅうたら、海の神さん。」

 「ここはプールだ。あながち関係なくもない。」

 「そうやな。」

 「これで4つ揃ったわけだ。」

 「あと3つか・・・。」

 二人はその階段を降りた。しばらく歩くと通路が二手に分かれていた。

 「妙だな。」

 「何が?」

 「設計図と違う。」

 「なんやて?」

 「こんな所に分かれ道なんかないはずだ。」鍵司は持ってきた校舎設計図のコピーを広げて懐中電灯で照らしながら確認してみた。

 「間違いねえ。」

 「後で造り変えた可能性は・・」

 「あるな。確かに。この設計図はたぶん校舎建築の前に描かれたものだ。」

 「たいてい設計図っちゅうんは建てる前に描かれるんとちゃうか?」

 「・・・ま、まあそりゃそうだが。」

 「となると、地下通路に関してはこの設計図は役にたたんことになるんか?」

 「十分考えられるな。」

 「ううむ・・これがどこにつながっとるかわからんとなると、かなりやっかいやな。」

 「いいさ。行き当たりばったりはいつものことだ。」

 「帰り道わかるんか?」

 「おれの方向感覚を信じろよ。駿平。」

 「大丈夫かなあ。」

 すたすたと歩き始めた鍵司の後を駿平は不安気について行った。

 「おっと!」急に立ち止まった鍵司の背中に駿平はどしんと体当りをした。

 「ど、どないしてん、急に。」

 「障害物だぜ。」

 二人の行く手を阻んでいたのは水溜りである。通路が切れて、その先は水路状態だった。だが、数メートル先からはまた床が続いている。明らかに外部からの侵入を防ぐための仕掛だった。

 「泳ぐしかないか・・。」

 「待て!駿平。」鍵司があわてて水に入ろうとした駿平を制止した。「怪しいぜ。」

 「何が?」

 「湯気が上がっている。」

 「熱湯か?」

 「いや、熱湯なら通路に湿気が充満しているはずだ。もしかすると、これは・・・」

 鍵司は靴の先を少しその水に浸してみた。すると靴の底のゴムの部分がどろりと溶けてしまった。

 「これは酸だぜ!」

 「酸やて?!」

 「よかったな、駿平、泳ぎきって上がったときはおまえ骸骨になってたところだぜ。」

 「剣呑極まりないな。」

 「これ以上進めんな・・。」

 「鍵司、ちょっとどいててくれるか?」

 「な、なんだよ、駿平。」

 鍵司を壁に張りつかせて駿平は今歩いてきた道を引き返し始めた。

 「お、おい、駿平・・」

 「そのままじっとしとるんやで、鍵司。」

 「お、おまえ何する気だ?」

 駿平は10mほど下がった位置に来ると立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。そしておもむろに酸の水溜りに向かって走り始めた。

 「や、やめんか!ばかっ!」

 鍵司が止めるのも聞かず、駿平は水溜りの縁に足をかけてジャンプした。見事なフォームでひらりと宙を泳ぎ、信じられないほどの距離を跳んで酸の水溜りをクリアした。

 「10点満点や!」

 唖然としている友人のピアニストの方を振り向いて、その懐中電灯のスポットライトを浴びながら駿平はウィンクした。

 「これくらいできな、スポーツ万能の駿ちゃんとは呼べんわ。」

 「す、すげーな、おまえ。あらためて見ると・・・。」

 「大したことない。」

 「だが、俺はたぶん溺れて理科の骨格標本になっちまうぜ。」

 「心配いらんて。ほれ、ここにスイッチがあるやんか。」

 駿平は壁に取り付けられたスイッチを押した。すると酸の水溜りをふさぐように両側から床がせり出してきた。

 「そうか、内側からは障害物を越えられるように作ってあるんだな。」

 「でなければ抜け道とは言われへんもんな。」

 ぴったりと、まるで最初から床であったように酸の水溜りは消えた。

 「さて、とりあえずこの通路はまっすぐ続いている。」

 「そやけどわき道もぎょうさんあるな。」

 障害物を警戒しながら二人は歩いた。所々に横道があった。

 「とにかく、これをまっすぐ行くとどこにつながっているかを確かめるとしようぜ。」

 「そやな。」

 そしていくらも進まずに彼らは階段にぶち当たった。降りてきた時と同じ、冷たいコンクリート製である。鍵司はためらわずに一段ずつ昇り始めた。

 「気いつけや。」

 「わかってる。」

 女子更衣室の隠し扉と同じように、階段を上り詰めたところの天井に、蓋があった。しかし、鍵司がいくら上に押しても動かない。

 「駿平、ここを抜けるとどこだと思う?」

 「さあな。そやけど、まるでプールの穴とおんなじ造りやな。」

 「そう。俺が思うにここは体育館のステージ下だぜ。」

 「間違いなさそうやな。」

 「お!」

 「なんや?開きそうか?」

 「違う。またコインがあるぜ。」

 「ほんまか?」

 「ああ、ここに・・」コンクリートの壁にさっき更衣室で見つけた時と同じような宝船マークつきの小さな蓋がある。「たぶん・・」鍵司はそれをこじ開けた。そして中から見つかったコインを手のひらに置いて、駿平に懐中電灯で照らしてもらった。

 「毘沙門天やて?」

 「そうか、やっぱりここは体育館の下だ。」

 「なんでや?」

 「毘沙門天って闘う神さんだろ?」

 「なるほど、スポーツの闘志に関係しとるっちゅうわけやな。」

 「しっかし、なんで開かないんだ?」鍵司は何度も天井を押してみた。やはりびくともしない。

 「スイッチらしき物もあれへんしなあ・・。」

 「にしても妙だぜ。隠し扉にしてはガタつきがない。おまけに目張りまでしてあるぜ。」

 「ほんまやな。」駿平も少し考えた。「なあ、鍵司、横道を調べることにせえへんか?」

 「そうだな。」

 二人は階段を降りた。その時、

 ごんごんごんごん・・。

 「ん?何だ?」

 ごおお・・・。

 「な、何の音やろ?」

 遠くの方から不気味な音が聞こえてきた。

 「あっ!」帰り道を懐中電灯で照らしていた鍵司は叫んだ。「水だっ!」

 二人の入ってきた女子更衣室の方から水がものすごい勢いで流れてきたのだ。

 「水責めや!」

 「しまった、謀られた!」

 「鍵司、急ぐで!」

 返事をするのもそこそこに鍵司は水の流れを逆らって走り始めた。

 「出口を探さんと!」

 引き返しはじめて最初の横道はすぐに行き止まりになっていた。

 「だめだ、行き止まりだ!」

 水はもう彼らの腰のあたりまできている。すさまじい量である。

 「プールの水を一気に流し込む仕掛らしいな。」

 二つ目の横道も行き止まりだった。

 ごおおおお!どざざざー!

 「あかん!溺れてまうわ!」

 その時、鍵司の懐中電灯の光の中に人影が浮かび上がった。

 「誰だっ!」

 「キー坊!駿ちゃん!やっぱりここだったのね。」

 「桃子っ!おまえ、なんでここに!」

 「事情は後で。私についてきて!」

 くるりと振り返って背中を見せた桃子は、彼女のすぐそばにあった横道に入って行った。

 「お、おい、待てよ、桃子!」鍵司と駿平は必死で水をかき分けて、というより、半ば泳ぎながら桃子の後を追った。鍵司でさえ背伸びしてようやく頭が出る程度に水かさが増えていた。小柄な駿平はすっかり姿が見えないほどである。が、さすがにスポーツ万能の彼のこと、ごうごうと渦巻く水の流れもなんのその、抜き手をきってずんずん泳いで行く。いつの間にか先にいた鍵司を追い越してしまっていた。 「お、おい、駿平!がぼぼ・・」

 どちらかというと泳ぎは苦手な鍵司はこのまま溺れて死んでしまうのではないか、と本気で思った。そしてあっけなく水は天井まで届き、もはや空気の居場所はこの通路の中にはなくなった。


 「おい、見ろよ、あの噴水。」

 校舎の3階の窓から2年生の男子生徒が中庭を見おろして言った。

 「なんだ、あの噴水生きてたんだ。」

 「水が出てるとこなんか初めて見たぜ。」

 「しかし、何で今ごろ突然水が出始めたんだ?」

 「わからんな。水道管、詰まってたんじゃないか?」

 「突然直るか?」

 「・・・・それにしてもものすごい高さに水を噴き上げてるぜ。」

 「そうだな。真ん中の天使の像が見えないもんな。」

 中庭は白い人造大理石で造られた古代ローマ風のものだった。庭自体が地面からずいぶん堀りさげてあり、丁度、水のないプールといった風情だった。その中央にある円形の噴水は真ん中に水瓶を腰に持った格好の天使の像が立っていて、それをはさむように鶴と亀の像が取り付けてある。和洋折衷と言えば聞こえはいいが、はっきり言って、古代ローマ風中庭には不釣合いな構図だった。その噴水が今、突然思いついたようにその機能を発揮し始めたのだった。天使の水瓶からもどうどうと水があふれ出ている。

 「普通じゃないぜ、この噴水・・。」

 わいわい・・。丁度始業前の休憩時間なので、その長い間乾ききっていた中庭の噴水が狂ったように息を吹き返したのを、教室の窓という窓から生徒たちが珍しそうに眺めていた。

 「あっ!」

 びしびししっ!

 「ふ、噴水が壊れた!」

 「な、なんて非常識な。」

 「自分が噴き上げている水で壊れるとは。」

 どどーん!どぼどぼどぼ!

 太い水柱が噴水を包み込んで猛烈な勢いで上がり始めた。すでに中庭は水浸しである。


 鍵司は意識が薄れかけた時、不意に強い流れに身体が翻弄され始めたのを感じた。そして彼は目の前が突然明るくなった時、空気がそこに存在するのを知ってあわてて肺に酸素を送り込んだ。


 「ありゃ?人柱まであがってっぞ。」

 「なにい!人柱だあ?」

 「ああ、見てみな。人が三人・・・・ありゃ小川だぜ。」

 「それに・・速水駿平!」

 「ということは、もう一人のいちばんぶざまな格好で水に弄ばれてるのは・・。」

 「揚 桃子だ!」

 「いつも三人仲良しだな。」

 「なにのんきなこと言ってんだ!助けなくていいのか?」

 「大丈夫みたいだぜ。ほれ。」


 意識がはっきりした鍵司は水の中でもがいている桃子を助けようとがむしゃらになっていた。

 「おい、桃子!」

 「キー坊ごぼぼぼっ!た、助けてげべべべっ!」

 「俺につかまるんだ!」

 「危ない!鍵司!後ろっ!」駿平が叫んだ。

 その声に後ろを振り向いた鍵司は、水瓶を抱えた天使の強烈な頭突きをくらってしまった。


 「あーあ、小川もドジな野郎だな。」

 第三者は気楽なものである。いつの時代も傍観者は何の役にも立たない。


 天使の頭突きをくらって意識がもうろうとしている鍵司の目に金色に光るものが映った。それは壊れた亀の像の腹に張りついていたのだった。彼は思わずそれを亀ごと手にとった。そして鍵司の意識はしだいに遠のいていった。


 「逃げてくぜ。」窓の生徒の一人が三人を指さした。


 駿平は桃子の手を引いて、そして桃子は気を失った鍵司の首ねっこを掴んで走りだした。鍵司は当然引きずられて行く。


 「あの三人退学になったんじゃなかったっけか?」

 「おとなしくしてなかったんだな。」

 「しかし、なんで噴水を破って突然現われるんだろうな。」

 「さあな。」

 キンコーン。

 「あ、授業が始まるぜ。」

 まったく薄情なクラスメートである。


 「キー坊。ありがとうね。それに・・・ごめんなさい・・。」

 桃子はうつ向いた。

 「けっ!まったくいつもいつもひどい目に遭わせやがる。」鍵司の頭には巨大な絆創膏が貼ってある。「いてててて・・。」

 「鍵司、そんな言い方ないで。ピーチ姫は命の恩人や。」

 「何で桃子が命の恩人なんだ?」

 「ピーチ姫がおれへんかったら・・。」

 「桃子がいたからどうだって言うんだよ。」

 「・・・・・」駿平は続ける言葉をなくして引きつり笑いを浮かべていた。

 「まあ、いいさ。みんな無事だったんだからな。桃子、気にすんなよ。ありゃ不測の事態だったんだからよ。」

 「本当にごめんなさいね。」

 「・・・・気持ち悪いな。いつものようにぽんぽんぽーん!と跳ね返ってくれなきゃ調子狂うじゃねえか。」

 「あほっ!ピーチ姫の気持ちも考えてやらんかい!」

 「わかったよ。悪かった。俺も。桃子こないだは俺が悪かった。煮るなと焼くなと好きなようにしていいぜ。」

 桃子は顔を上げて久しぶりに笑顔を見せた。「キー坊・・・。」

 「これで謝ったつもりなんやろな。まったく依怙地なやっちゃ。」駿平はため息をついた。

 「とにかく、桃子がどうしてあんな所にいたか。言えよ。」

 「実はね、キー坊たちが持ってた設計図のコピーはダミーだったのよ。」

 「なにい?ダミーだと?」

 「そうやろな、全然違っとったもんな、あの通路。」

 「ううむ・・・。敵もさる者。巧妙に罠を仕掛けてきやがる。」

 「そやけど、なんでそれがピーチ姫にわかるんや?」

 「ゆうべパパがもう一つの設計図を持ってきてくれてね。」

 「もう一つの設計図やて?」

 「同じ封筒に入ってたのよ。」

 「がくっ!」

 「な、なんで気づかなかったんだ!」

 「だ、だって、一つの封筒に二つ入ってたって同じ物だとしか思わないじゃない。」

 「なるほど。ま、そういうもんだな。」

 「でね、その二つの間にいっぱい食い違いがあるのに気づいてキー坊に知らせなきゃ、と思ったわけ。」

 「俺たちがあの水責め通路に忍び込んだこと、よくわかったな。」

 「あなたたちの行動パターンはお見通しよ。」

 「なんだと?」

 「5つの抜け道のうちで、キー坊が一番に狙うのは女子更衣室だってわかるわよ。誰でも。」

 「ばっ!ばか言え!俺はそんなにスケベじゃねえ!」

 「そお?でも、二人っきりであんなに暗いところで妙なこと考えてなかったでしょうね?」

 「ばっ、ばかな!な、な、なんで男同志でそんなこと・・」

「そ、そや、ピーチ姫、な、な、何にもあれへんかったって。」

 「何慌ててんのよ。二人とも。怪しいわね。まさかあんたたちデキてんじゃない?」

 「かっ、かっ、からかうのもいい加減にしろっ!」鍵司はあのことを思い出して卒倒しそうだった。

 「冗談よ、冗談。ごめんごめん。でも二人とも真っ赤よ。キー坊も意外に純情なのね。」

 「おまえにはわからんよ。男の複雑な気持ちがな。」鍵司は目を閉じて呼吸を整えるのに必死だった。

 「はいはい。」

 鍵司と駿平は顔を見合わせて、すぐに赤面してうつ向いた。

 「そうそう、本物の設計図によるとね、あの水責めの通路は結局あっちこっちの裏道が最終的に合流する本流みたいなものなのよ。」

 「本流?じゃあ、プールの女子更衣室の反対側はやっぱり体育館のステージの下に出るんだな?」

 「そう。」

 「しかし、あんな大量の水を流し込んだらあっちこっちの裏道にも影響があるんじゃねえか?」

 「体育館側の出口には目張りがしてあったな、そう言えば。」

 「たぶん防水するために、相当な気密構造になってたんでしょうね。」

 「おそらくはな。」

 「考えてみれば・・・」

 「何だよ、駿平、急に。」

 「俺と鍵司、結局無駄なことやったんとちゃうか?」

 「確かにやみくもではあったわね。だいたい、あんな通路に忍び込んでどうしようと思ってたの?キー坊。」

 「どうったって・・・」

 「おおかた女子更衣室目当てだったんでしょう?」

 桃子がまたむし返した。

 「ち、違わい。もしかしたら何か掴めるんじゃないかと思ったんじゃねえか。」

 「で、結局敵さんに悟られて水責めに遭ったってわけね。お間抜けだこと。」

 「悪かったな。」

 鍵司もあとの二人もあの時本当に死にそうになったので、彼もいつものように強力に反論することができなかった。

 「それでもコインを二つも見つけたで。」

 「え?本当?」

 「いや、三つだ。」

 「なんや、いつの間に見つけたんや?鍵司。」

 「これだ。」鍵司はテーブルに置かれた、壊れた噴水から持ってきた、頭の取れてしまった亀の像をひっくり返した。

 「ほんまや!」

 「なんで亀のお腹なんかに・・・」

 「福禄寿やて?」

 「そうか、亀を連れてる神様ね。」

 「これで6つ揃ったことになるわね。」

 「あと一つか・・・」

 「7つ揃うと何か起こるのかしら?」

 「ありがちな話だな。」

 「ロールプレイングゲームみたいやな。」

 「よし、桃子、大事に持ってろ。」鍵司はコインを桃子にまた押しつけて、話をごまかしにかかった。「さて、俺たちが秘かに侵入したがっていることは権堂校長は気づいた。」

 「そんなん。最初に森の井戸から入った時に気づいとるがな。」

 「そ、そうだ。とすれば知られたくないことは隠すか、俺たちを消しにかかるか、ってとこじゃないか?」

 「両方やと思うで。おそらく。」

 「桃子の執念深さは玄海鮫子が知っているだろうしな。」

 「なによ。その執念深さっていうのは。」

 「違うって言うのかよ。」

 「とにかく、さっさと片づけたいのよ、この事件。」

 「同感やな。」

 「わかった。このへんで俺たちのやることをはっきりさせようぜ。」

 「その一、放射線による権堂力造の計画的な生徒の脳改造の証拠を手に入れる。」

 「まったく恐ろしいおやじだぜ。」

 「その二、放射線発生装置を解体する。」

 「そりゃ桃子の担当だ。」

 「何でよ。」

 「おまえモノ壊すの得意だろ?」

 「返す返す失礼な男ねあんた。」

 「当面そんだけかいな?」

 「それで十分よ。命を奪うまでは考えてないわ。」

 「本当にそれで復讐になるのか?桃子。」

 「・・・・十分よ。」

 「へえ、結構おまえ人間できてんな。」

 「慈愛に満ちた聖母マリアって呼んで。」

 「けっ!」


 「どうするかね?権堂校長。」

 「あいつらめ、まったく執念深い。」

 「おぬしの計画を知られては・・・」

 「消すしかあるまい?ネズミたちをな。」

 「消す・・・?」

 「口を封じる別の手があるのかな?灰駄先生。」

 「殺人は何かとリスクが・・・。そこでじゃ、」

 「そこで?」権堂力造は身を乗り出した。

 「あの装置を使えばやつらの記憶を消すことも。」

 「ほう、そんなことが・・。おもしろいではないか。」

 「すべての記憶が消えてしまう。もしかすると自分が誰であるかも忘れてしまうかもしれぬぞ。」

 「なに、構わん。命があるだけありがたいと思ってもらうことにしようではないか。ふっふっふ・・・。」

 「では、操作方法をお教えしよう。」

 「なんだ、あんたは手を下さんのか?」

 「わしももうこのようによぼよぼのじじいじゃ。いつお迎えがきておぬしの計画を妨げるかもしれぬ。」

 「またそのような。」

 「いやいや本当じゃ。わしとて自分の考案した機械を他人に操作されるよりは自分でやった方がいいに決まっとる。じゃが、こればかりはおぬしの考え通りに事が運ばねば意味のないことじゃ。そうじゃろ?」

 「確かに・・そうではあるが・・。」

 「大丈夫じゃ。大した知識はいらぬ。」

 「いや、わしはよくわからん。鮫子に教えてもらえんかね?」

 「そうかな?」

 「信用してもよいぞ。あの女はな。」

 「わかった。では彼女に操作方法を教えておくとしよう。」灰駄は口元にほとんど気づかれないほどの笑みを浮かべた。「ところで、」すぐに真顔に戻って灰駄は言った。「そろそろ清算してもらえんか?」

 「清算?」

 「そうじゃ。あの装置の設置、それにコントロール・プログラム作成、あとは技術料というところかの。」

 「よかろう。約束では3000万だったかな?」

 「すぐに支払ってもらえるのなら2800万にまけてやるぞ。」

 「いいのか?」

 「おぬしの腹はわしもよく知っとる。」にたりとその老人は笑った。

 「足元を見られたものだな。まあいい、すぐに小切手を用意しよう。」

 「すまんの。」

 「その代わり、急いでくれんかね?灰駄先生。きゃつら、すぐにでも忍び込むと思ってよい。」

 「それではさっそくそのように準備することにしようかの。」

 「この学校に近づいたらわしがここまでおびき寄せる。今度侵入を試みた日がやつらの最後の思い出の日になるのだ。うははははは。」

 権堂校長の横で灰駄は不気味な声なき笑いをかみ殺した。

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