第2話
かつてこの世界では、精霊族と悪魔族の争いがあった。
精霊王ノクスと、魔王マネによる世界を二分する大戦争は、一万年を超えても続き──やがて人間族が生まれ、人間王レオンティウスが現れる。
人間族は精霊族の側につき共に悪魔たちと戦ったが、戦争のさなか、レオンティウスは魔王の凶刃に斃れてしまう。
しかし、精霊王ノクスが自身の心臓をレオンティウスに授け、彼を生き返らせた。自分の命と引き換えに。
精霊王の心臓によって魔力を得たレオンティウスは、死闘のすえ魔王を封印し、世界に平和をもたらしたのだった。
魔王が封印されたのち、精霊たちのほとんどは、精霊王に続くようにして人間へ心臓を捧げたという。
当初、“精霊の祝福”と呼ばれていたその器官は、やがて「魔力炉心」と名付けられ、人々は炉心から生み出される魔力を使い魔術を発展させていった。
千年経った今となっては、「魔力炉心」を持たない人間は一人としていない。
人間に魔力と平和をもたらした、精霊王ノクス。
人間王レオンティウスを祖とするこのアモルエテス王国では、彼女は信仰の対象となっている。
「……ああ、全部思い出したわ……」
公爵令嬢ノクシア・ダルクローズは、保健室のベッドの上で目を覚ました。
そしてはっきりと理解していた。自分は精霊王ノクスの生まれ変わりなのだと。
(私が死んでから千年ぐらいかしら……まさか生まれ変わるなんて。しかも人間に)
洪水のように前世の記憶が蘇ったせいか、くらりと視界が揺れて呻き声が漏れる。するとベッド脇の椅子に座っていた青年が、身を乗り出してノクシアの顔を覗き込んできた。
「ノクシア、大丈夫ですか? 痛いところは?」
兄のルカン・ダルクローズだ。いつも迷いなく淡々としている声が、今日はどこか不安げに揺れている。かなり心配をかけてしまったようだ。
ルカンは二歳年上の兄で、同じ魔術学校に通う学生だ。ダルクローズ公爵家の次期当主。さらにはノクスフロース魔術学校の現生徒会長でもある。幼い頃から頭がよく優秀で、王族にも気に入られており、将来は宰相位も夢ではないと期待されている超優等生。成績も存在感もパッとしないノクシアとは、真逆の人だった。
ルカンはノクシアのことを大事にしてくれていたが、正直、妹のほうは日々劣等感に苛まれていた。
「兄様……?」
しかし、今目の前にいる青年の姿を見て、ノクシアは眉を顰める。ルカンは糸目で、黒い髪を耳の下で綺麗に切り揃えている、上品で線の細い青年だ。だのに、そんな外見的特徴が、今は見えない。
青いオーラのようなものが、ルカンをすっぽりと覆っていたのだ。
(ああ、魔力か……)
精霊王としての記憶を取り戻したノクシアは、そのオーラが"魔力"であると瞬時に理解出来た。
(記憶と一緒に、精霊の視覚も戻ってきたのね……)
精霊は生まれつき、魔力を視認できる生き物だった。
精霊王として生きていた頃は、人間はまだ魔力を持っていなかったから、ありのままの姿を見ることが出来ていたのだが──今や、魔力を持たない人間などいないので、視界に入るすべての人々がこのようなオーラの塊として見えることだろう。
黙りこくったノクシアを見て、ルカンが心配の色を濃くした顔で尋ねた。
「……階段から落ちたと聞きました。幸い軽傷で済んだようですが、打ちどころが悪ければ危なかったでしょう。何があったか覚えていますか?」
言われてみれば、体のあちこちがズキズキと傷む。イシュを見送った後、誰かに後ろから強く押されたことまでは覚えているが、そこから先の記憶はない。
「……誰かが、私を突き落とした……と、思う」
白い天井を見つめて朧げな記憶を手繰り寄せながら呟くと、兄がため息をつく気配がした。
「犯人は?」
「わからない」
ルカンは少しの逡巡ののち、包帯の巻かれた妹の手をそっと握った。
「……辛ければ、いつでもここを辞めて家に戻って良いんですよ」
「……アモルエテスの貴族令息はみんな、ここに通う決まりでしょう。私だけ特別扱いしてもらう訳にはいかないわ」
アモルエテス王国では、貴族の子供たちは皆16歳から3年間、国内唯一の魔術学校・ノクスフロースへ通うことになっている。それは王族であろうと例外ではない。
痛みに耐えながら、ゆっくりと身体を起こす。それを見たルカンが背中を支え、ヘッドボードとの間に枕を差し込んでくれたので楽な体勢になった。
「……イシュ殿下がいるからですか? 今回の騒ぎも、彼が関係しているのでは?」
ノクシアは、その言葉にぴたりと瞬きを止める。ルカンは、イシュに対するノクシアの想いを知っている。記憶を失くす前のノクシアにとって、イシュはすべてだった。公爵令嬢といえども、車椅子のノクシアに対する周りの目は厳しく、彼まで手放してしまったら自分の手の中には何も残らない──そう思っていた。
「……」問い詰めるような兄の視線から目を逸らす。それは彼の問いを肯定しているように見えただろうが、ルカンは深追いせず、降参したように立ち上がった。
「……はぁ、わかりました。これ以上、僕は口を挟みません」
「……ありがとう、兄様」
思わず、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
ノクシアはこれまで、イシュに関することについては散々頑固な姿勢を見せてきた。魔術学校も、動かない両足を理由に自宅学習を例外的に認めてもらおう、という兄の提案を断って入学したのだ。イシュと同じ場所で学びたいがために。
しかし前世の記憶を取り戻した今は、イシュへの執着心は皆無に等しい。それでもノクシアは、卒業までここに居たいと思った。イシュがいようがいまいが、関係ない。だってこれは、ただでさえ思い通りにならない身体で、ようやく得た"家の外に出る機会"なのだ。
記憶を取り戻しても変わらず動かない足にそっと触れて、ノクシアは深いため息をついた。精霊王の力を持ってしても、動かなくなった足を元に戻すことは難しかった。
「花園より来れり──“正風”」
ルカンが呪文を唱えると、風が吹いて部屋のカーテンが一斉に開いた。差し込んできた光に、一瞬目を細める。
どうやらノクシアは夜通し意識を失っていたらしい。窓の外の空は明るくなり始めていて、鳥たちの囀りが聞こえてくる。
ルカンは「まだ安静にしていたほうがいいのではないですか? 僕から先生に言っておきますよ」と欠席を勧めてくれたけれど、全く動けないほどの怪我ではなかったし、精霊の視覚にも早く慣れたかったので「大丈夫よ、もう元気だから」とやんわり断った。
ルカンはまだ心配げな顔をしていたが、渋々といった様子で椅子の背もたれにかけていたローブを羽織る。そこでふと、ノクシアの顔を見て眉根を寄せた。
「本当に大丈夫ですか? ……目も少し、おかしいように見えますが」
「え?」
「痛みや違和感があるようなら、医者に診てもらったほうがいい」
***
保健室の洗面所を借りて、朝の支度を済ませる。
鏡に映るノクシアの姿もまた、青いオーラを纏って見えたので、魔力炉心の動きを抑えて魔力の出力を弱めた。記憶を取り戻す前のノクシアではやったことのない技だったが、魂がやり方を覚えていれば有効らしい。オーラが薄まってよく見えるようになった自身の顔を見ながら、濡羽色で艶やかな髪を整える。
そうしてから改めて、自分の両目を見た。深い藍色をしていた瞳には、いつのまにか星のようなキラキラとした輝きが散らばっていた。先ほど、去り際の兄が心配していたのはこのことだろう。
これはスターダストアイだ。
精霊が持つ特徴のひとつで、この瞳を見ればすぐに精霊だと分かる。しかし、今の時代、精霊は伝承の中の生き物──千年も前の旧時代の存在だ。
精霊王が生きていた時代は紙を作る余裕がなかったため、書物の類は発展しなかった。霊魔戦争が終結し、アモルエテス王国が建国したのちも、魔王の復活を恐れた人間王レオンティウスが旧時代に関する事柄を書物に残すことを禁じたという。
現代に伝わっている精霊や悪魔の情報は、すべて後世の人間が作り上げた創作物だ。
そのため、ルカンも、そのほかの人間も、精霊がこのような瞳を持っていたことなど知る由もない。
「髪も、顔も変わったけれど……この目だけは、変わらないわね」
ぱちぱちと何度か瞳を瞬かせたあと、ぐにぐにと両頬を揉んだ。陽の光を知らないかのように真っ白な肌は、ノクシアが深窓の令嬢であったことを物語っている。
幼い頃、事故によって両足が動かなくなるまでは、外を走り回る快活な少女だった。それが、車椅子生活を余儀なくされてからは、屋敷を出ることも許されず、ずっと一人で過ごしていた。
だからこそ、たまに顔を見せにきてくれるイシュの存在が救いだったのだ。彼こそが、自分に自由をもたらしてくれる救世主であると期待し、依存していた。
これまでの痛々しい己の姿を思い出し、額を抑えてため息を吐く。右の肘置きに手を滑らせ、慣れた手つきでレバーを操作し洗面所を離れた。
ノクシアが乗っている魔動車椅子は、有名な魔道具工房に作らせた一級品で、肘置きの先端に設置されたレバーで簡単に操作することができる優れものだ。
とはいえ、階を移動するには魔動エレベーターを使わなければならないし、動力源となっている魔力結晶の充電も定期的に行わなければならない。
魔術学校に通い始めて半年。家を出るという念願は叶ったものの、未だ“自由“には程遠い。
養護教諭に礼を告げ、保健室を出て礼拝堂へと向かった。渡り廊下に春めいた暖かな風が流れ込んでくる。
ノクスフロース魔術学校では、毎朝礼拝を行う決まりだ。礼拝堂にはすでに多くの生徒たちが集まっていた。
魔術学校は3年制で、礼拝堂には全学年の生徒が集合している。ノクシアが礼拝堂に入ると、がやがやと賑わっていた空気が一瞬静まり返った。それから何人かの生徒がこそこそと声を潜めて話し始める。
「……あの話聞いた?」
「ノクシア・ダルクローズがイシュ殿下に自分をパートナーにしろって迫った話?」
「図々しいわよね〜。まだ殿下の許嫁気分なのかしら」
「ミレヴィナのほうが相応しいに決まってるのにね」
「暗いし愛想悪いし、あんな死神みたいな女に付き纏われて、イシュ殿下も可哀想……」
「階段から落ちたのも殿下の気を引くための自作自演なんじゃないの?」
くすくすと楽しそうに話す生徒、自分は巻き込まれまいと視線を逸らす生徒、穢らわしいものを見るような目を向けてくる生徒──ノクシアにとってはもはや、日常茶飯事となりつつある光景だった。以前はそんな彼女らに苛立ち、憎しみ、悔しさ、情けなさなど様々な感情が湧いてきたものだったが……今は不思議と、心が凪いでいた。
許嫁に対する執着が、ごっそりとなくなっているからだろうか。
今はそれよりも──自身のために設けられた最前スペースで車輪を止める。前方の祭壇には女性の像があつらえてあった。
ノクス教の主神、精霊王ノクスの像だ。
(つまり、私の像……)
神父が入ってくると礼拝堂内はしんと静かになった。
皆、表面上は神父の説教を大人しく聴いている。よく見たら頭がかくかくと揺れている生徒もいくらか見受けられるし、聖典を開くふりをして小説を読んでいる生徒もいた。平和な日常の風景だった。
ノクシアは精霊王の像、その背後にあるステンドグラスを見上げた。そこには1人の男と、1人の女が描かれている。初代国王のレオンティウスと精霊王ノクスだ。ステンドグラスに描かれたノクスは、自身の心臓をレオンティウスへ差し出している。
ノクスの記憶は、このシーン──レオンティウスへ心臓を授けたところで途切れている。心臓を失ったノクスはそのまま死んでしまったから。
ノクス教は、ノクスの死後、人間が作った宗教だ。アモルエテス王国の国教であるため、この国に生まれた人間は皆ノクス教を信仰している。
偶像崇拝を許可しているので、あちこちに精霊王の像がある。学校の中庭、街の広場、各家庭にも。像は誰が作ったのか知らないが、あまり似てはいない、と思う。
森羅万象に精霊が宿っており、精霊に感謝して生きていかなければならないという教義があり、それ自体は良い。
しかし、精霊王が死後、楽園へ連れて行ってくれるというのはまったくの嘘である。楽園があるかどうかはわからないが、精霊王はここにいるのだから。案内のしようがない。
そこを除けば──少なくとも、人々がこの宗教を信じることで心安らかに過ごせるならば、文句はない。
若干……いやかなり、気恥ずかしいものはあるが。
「精霊王の導きがあらんことを」
説教の最後を、お馴染みのフレーズが締めくくる。生徒たちも続いて復唱し、胸の前で手を合わせて祈った。ノクシアも一応形だけは真似をする。自分自身に祈ったりなんてしないけれど。
ノクシアを嘲笑い、遠ざける生徒たちに、『あなたたちが日々祈りを捧げてるのは私なのよ』と告げたらどんな顔をするのだろうか。その顔を見て、ノクシアは胸のすく思いをするだろうか。
精霊王がこの世に再臨したと知られれば、人間の世界は大変なことになる。ノクシアも人としての生活は送れまい。ノクシアはただ穏やかに、自由な暮らしを送ってみたかった。精霊王だったときは、ずっと戦に明け暮れていたものだから。
(レオンの像はないのかしら……)
人間王レオンティウス。人間族をまとめ上げ、精霊族と同盟を結び、世界を救った英雄。アモルエテス王国を建国した、王国の父。精霊王ノクスが己の心臓──魔力炉心を捧げた男。
ノクスにとって彼は、特別な存在だった。
あれからもう千年が経っている。人間族である彼はとっくの昔に死んでいると、分かっている。けれど──石の像でもいい。彼に一目会いたかった。
礼拝が終わり、生徒たちはそれぞれに雑談を交わしながら食堂へと向かっていく。彼らの話題は、もっぱら1ヶ月後に控える聖霊祭についてだ。
多くの草花が盛りを迎える頃、アモルエテス王国では、聖霊祭という催しが行われる。精霊王ノクスが、人間王レオンティウスに魔力炉心を授けた日を祝う行事だ。
それに合わせて魔術学校内でも舞踏会が開かれることになっており、学生たちは皆、ダンスを踊るパートナーを決めることになっている。ノクシアがつい昨日、イシュと揉めたのもこの件についてだった。
今思えば、なんとくだらないことで揉めたのだろう。しかし、そのおかげで前世の記憶を思い出せたのだからよしとするべきか。
ノクシアはいつも通り、ぞろぞろと群れをなして進む生徒たちとは違う、遠回りだが凹凸の少ないルートを選ぶ。校舎裏に差し掛かったところで、前方に腕を組んで歩く男女の姿が見えた。
「あら? ノクシア嬢じゃない」
女のほうが先にノクシアに気づいて振り返る。桃色のウェーブがかった長い髪、女子の中でも頭ひとつ分抜けた高身長。程よく引き締まった身体に、男子が皆振り返る豊満な胸囲。勝ち気に見える切れ長の瞳は、薔薇のような真紅。
同い年とは思えない大人びた風貌の娘は、辺境伯令嬢ミレヴィナ・ルーシェ──第二王子イシュが、許嫁のノクシアを差し置いて舞踏会のパートナーに選んだ令嬢だ。
ということは。
「ああ、ノクシア。君か。……もう起きて平気なのかい?」
黄金に輝く髪と空色の瞳は、王族に代々受け継がれる外見的特徴──隣にいたのはもちろん、イシュである。
ノクシアの目には、二人とも青いオーラ──もとい、魔力の塊として見えているけれど。
このまま二人を無視して追い越すのも無作法かと思い、なるべく以前と変わらぬ調子で返事をする。
「……ええ、この通り、すっかり元気になりました」
結局一度も保健室に顔を見せなかった薄情な第三王子を一瞥してから、その腕にべったりくっついている少女を見上げた。数歩分の距離が空いていても、薔薇の香りが漂ってくる。
ちょうど良い、彼女には聞きたいことがあったのだ。
「ミレヴィナ嬢、あなた……昨日の夕食前、どこにいましたか?」
「どういう意味かしら?」
「いえ……あの時、“誰かに”後ろから突き落とされた気がしたので」
押された瞬間、かすかにだが、香水の香りがした。今ミレヴィナがつけているものと同じ、薔薇の香水。学生の身分でそんな派手な香りをつけているのは、学内中を探しても彼女ぐらいのものだ。
「もしかして、わたくしを疑っているの?」
ミレヴィナは大袈裟にショックを受けた顔でよろめいた。
「後ろめたいことがないのであれば、答えられるでしょう」
「まあ……! ひどい!!」
わっと両手で顔を覆い泣き出した少女を、イシュが慌てて庇うように抱き寄せる。
「何を言ってるんだノクシア! パートナーになれないからって、僕のミレヴィナに難癖をつけるのはやめてもらおうか!」
“僕のミレヴィナ“という単語に思わず笑いが込み上げてきた。ノクシアにはそんなこと、一度も言ってくれたことないのに。
(どうして私は、この人を追い求めてたんだろう……)
見る目のない自分自身に呆れる。
「……私はただ、私を突き落とした人物を探しているだけで、ミレヴィナ嬢が犯人だと決めつけているわけでは……」
ノクシアの主張に、ぴたりと泣き真似をやめたミレヴィナは低い声で問いかけてくる。
「その犯人とやらは、本当に存在するのかしら?」
真紅の瞳が、ノクシアの足に巻かれた包帯を見て蔑むように細まった。
「殿下の気を引くために、ご自分で落ちたのではなくて? ……これみよがしに包帯なんて巻いちゃって……」
「なっ……」
そのあんまりな言い様に、言葉を失う。
礼拝堂で似たような噂をしていた生徒たちを思い出した。もしかして、あの噂を流したのも目の前の彼女なのだろうか。
彼女に関してはこれまでも似たようなことがあった。イシュと昼食を摂るようになったミレヴィナに、ノクシアが『イシュ殿下が好きなの?』と聞くと『さあ?』と答えたくせに、翌日には『ミレヴィナがノクシアから“恥を知りなさい!“と叱責された』という噂が広まっていたり。ミレヴィナが廊下で落とした教科書を拾ってあげたら、その後『ノクシア嬢にやられたの!』とズタズタになった教科書を抱いて教室で泣き始めたり……。
おかげでノクシアはすっかり“許嫁を奪った女に嫌がらせをする性悪女“というレッテルを貼られてしまった。
教師たちは歩けないノクシアに同情して味方をしていたが、それがなおさら性悪の噂を増長させていた。
二人のやりとりを見ていたイシュは、これ見よがしにため息をつき、わがままな子供を諌めるような口調で言った。
「……ノクシア、僕が君に優しくしていたのは、君の兄君が素晴らしい方だからだ」
──出た。イシュは何かにつけていつも兄・ルカンの名前を出してくる。イシュは現王妃の嫡男で、亡くなった前王妃の息子と王位を争っていることでも有名だ。
ダルクローズ公爵家の次期当主であり、卒業後は出世街道を約束されているルカンを味方につければ、中立を保っている官僚の多くを陣営に引き込むことができると考えているようだ。実際、ルカンを参謀に引き立てればそのぐらい造作もないだろう。なぜならノクシアの実兄は、妹とは違って、あまりにも才能に満ち溢れていたから。妬ましく思ってしまうほどに。
(イシュ殿下がこれまではっきりと許嫁を解消しようとしなかったのも、兄様がいたから……)
ノクシアに優しくしてくれる人たちは皆、ノクシア自身を見ているわけではなく、その後ろにいる兄の表情を窺っているのだ。
「はあ……まさか君がここまで察しの悪い人だったとは。僕は君が傷つかないように優しく断ってやったのに……はっきり言わないとわからないようだね」
ノクシアがずっと、救世主であると信じてきた少年は、冷たい顔で車椅子を指さして言い放った。
「"ダンスも踊れないパートナー"は、王子に相応しくないんだよ」
──何も言い返せない。
まったくもってその通りだと、冷静な心が呟いた。レバーを握る手に無意識に力がこもる。
そのとき、バシャーン! と大きな音を立てて上から水が降ってきた。
「うわあっ!?」
「きゃあ!!」
全身水浸しになったイシュとミレヴィナが悲鳴をあげる。
三人が水の降ってきたほうを見上げると、二階の窓辺にバケツを持った少年が腰掛けているのが見えた。
イシュは途端に顔を真っ赤にして肩をいからせると「ロクス! 貴様──」今まで聞いたことがないぐらいの大声で叫ぶ。
「そこで待ってろ! 今度こそ許さんぞ、王家の面汚しめ!」
そのまま怒り心頭の様子で校舎の入り口へ向かって走っていく。「あっ、イシュ殿下! お待ちになって!」ミレヴィナも水分を含んだ髪を絞りながら慌てて後を追った。
ロクスと呼ばれた少年は「誰が待つかよ」と鼻で笑うと、ひらりと窓辺からノクシアのいる場所に向かって飛び降りた。
迷いのないその所作に、ノクシアはぎょっと目を剥く。
危ない──しかしそう叫ぶ間もなく、少年はお手本のような受け身をとってノクシアの眼前に着地した。
彼が立ち上がると、朝日を反射してキラキラと何かが輝いた。
(綺麗な……銀色の髪だ)
春風に攫われた長めの前髪を、細く節くれだった指が気だるげにかきあげる。すると、今日の空よりも透き通った蒼色が、長いまつ毛の間に収まっているのが見えた。うっすらと色づく唇も、白いけれど健康的な発色をした肌も、全てが一枚の絵のようで。
(なんて美しい子なんだろう──)
宗教画に描かれている精霊よりも、よっぽど精霊らしい見た目をしている。
ノクシアは思わず見惚れてしまった。
ロクスは制服のローブについた砂を払うと、腰を折ってノクシアの顔を覗き込み、じっと見つめる。
端正な顔面が視界いっぱいに広がって、ノクシアは息を呑んだ。
「なーに見てんだよ、アホヅラ」
目を細めたかと思えば、からかい混じりの口調と共にとんっ、と額を指で小突かれる。
「あっ、アホ……!?」
今、彫刻のような顔からは想像できない言葉を聞いた気がする。額を抑えて呆然とするノクシアだったが、ふと違和感に気づいた。
(……あれ? 私、どうして彼の顔が見えるの?)
顔どころか、全身くまなく綺麗にはっきりと見えている。今のこの視覚では、魔力が邪魔をして外見的特徴なんて碌に見えやしないのに。
“ロクス“といえば、思い浮かぶのはロクス・ソルス・アモルエテス──この国の第二王子だ。確か、ノクシアと同じ一年生に在籍していたが、ほとんど授業には出てこない。
問題児として名高い、庶子の王子。
「おら、さっさと行くぞ。ちんちくりん」
そうこうしているうちに、いつの間にか車椅子の背後へと回ったロクスが押し手を掴んで走り出す。
「きゃあっ」誰がちんちくりんだ──と言い返す余裕はなく、悲鳴とともに肘置きにしがみついた。こんなに無遠慮に車椅子を押す人は初めてだった。
ガタガタと揺れる車椅子から落ちないようにするのに必死になっているうちに、食堂の扉が見える場所までやってくる。
生徒たちはもう食堂内に集まっているのか、自分たち以外に人の姿はなかった。
ようやく止まった車椅子に、ふうと安堵の息を吐いていると「あんなクソ野郎に関わるのはもうやめにしな。じゃーな」背後から軽い調子の声が降ってくる。と、同時に押し手を離される気配がして、ノクシアは振り返った。
ばくばくと激しく動く心臓を押さえながら、背中を向けて歩いていく銀色の後頭部を見つめる。その姿が、魔力を視るノクシアの瞳にはっきりと映っている理由。それは──
「……魔力がない。炉心が動いていないわ」
ぴたり、少年の足が止まった。
しまった。ノクシアは軽々しく声に出したことを悔いた。生まれてこの方、動いてない魔力炉心なんて初めて見たものだから、つい口に出してしまった。
(でも魔力がないから、彼の顔がよく見えるのね)
振り返った少年の相貌は、やはり美しく。空色の瞳は、かつての人間王を彷彿とさせる輝きを放っていた。
しかし、ロクスはその輝きを鋭くさせると、足早に戻ってきては車椅子の前に回り込み、両の肘置きをがっちりと掴んだ。
ノクシアを閉じ込め、逃すまいとするように。
「……どうしてわかった。俺に魔力がないことは死んだ母親しか知らねーはずだ」
地を這うような低い声に、敵意と動揺が滲む。
「誰から聞いた? ──お前は、何者だ!?」




