第1話
男はそこで、生まれて初めて花園を見た。
なぜなら、男の生きる世界には、花が群生できるほど豊かな大地がなかったからだ。長く続いた戦争のせいで、土地も、人々の心も、枯れ果てて久しい。
しかしその場所は──“聖域”と呼ばれたその場所は、違っていた。見たことのない真っ白な花が辺り一面に咲き誇り、月光の下では銀色に輝いているように見える。その光景は、まるで星空がそのまま落っこちて来たみたいだった。
男はその白い花を、「スターホワイト」と呼ぶことにした。
花園の主は、この絶景にふさわしい麗しい少女だった。
地面につきそうなほど長いウェーブがかった銀色の髪は、見た目よりもずっと軽く、少しの風で雲のように広がってなびいている。夜空と同じ色をした双眸には、水晶を砕いたようなきらきらとした輝きが浮かんでいて、満点の星空と満開の花園を、全て収めたかのような美しさだった。
見た目はまだ年端もいかない少女に見えるが、その実、男よりもずっとずっと永い歳月を生きている。男は、戦の腕も、知識の量も、心の広ささえ彼女に敵わなかったが、ひとつだけ。少女の知らないものを知っていた。
「なあ、精霊王。あんたは恋をしたことはあるか?」
大雑把に置かれた岩の椅子に腰を下ろし、男はふと問いかける。澄んだ青空のような瞳が、花園から少女へと向けられた。少女は立ったまま、男を見下ろし首を傾げる。
「恋……とは、どのようなものですか?」
「おいおいマジかよ……そこからか!?」
人間なら子供でも知っている感情だ。男はぎょっと目を見開いたが、目の前に立つ少女の浮世離れした様相に考えを改める。
彼女の種族は皆、この聖域に咲く花に降りた夜露から生まれるらしい。そのため彼女たちには夫婦や家族といった概念がない。だとすれば確かに、彼女が恋を知らないのにも納得がいく。
「あー、恋ってのは……つまり……」男はしばらく額を押さえてもごもご言い淀んだ後、やけくそ気味に早口で答えた。
「キスしたくなったり、独り占めしたくなったり、離れてる間もずっとその人のこと考えちまって胸が苦しい〜みたいな、やつだよ!」
耳が熱い。もう子供ではないのに気まずさや照れ臭さを感じるのは、相手が彼女だからだ。
そんな男の気も知らないで、少女は眉を寄せて男の碧眼を覗き込む。
「……苦しいのですか? 人間とは、被虐的な生き物なのですね」
「ちげーし! 普通だし! こいつ変態だな……みたいな目で見るな!」
精霊王はくすくすと笑う。出会った頃より、よく笑うようになった。初めはそれこそ、感情のない人形のようだったから。それと比べると、今はずいぶん"人間っぽくなった"ほうだろう。
「……あんたら精霊と悪魔ってのは、もうかれこれ一万年は戦争してるんだろ? いい加減嫌になんねーの?」
聞けば、人間という種族が生まれる前から、精霊と悪魔は争い続けているのだという。人間からしてみれば、気の遠くなるような時間だ。それだけ永い間戦い続けていれば、精霊といえども疲弊しそうなものだが。当の本人はけろっとした顔で、こともなげに答えた。
「悪魔族とその王を討伐すると、世界に誓約しました」
「誓約、ねえ……」
誓約とは、精霊たちが文字通り命を賭けて守るべきもの……であるらしいが、人間の男にはピンと来ない。
「そうは言っても、別に毎日欠かさず悪魔を殺して回ってきたわけじゃねぇだろ? たまにはさ、こう……息抜きしたりする日も……」
「そのような日はありません。こうしている間にも、悪魔は産まれ続けている。この世界に生きるすべての生命のために、私はあれらを殺し続けなければなりません」
研ぎ澄まされた刃のように、ぞっとするほどブレのない、まっすぐな使命感だった。今日まで一度も荒らされたことのないこの聖域が、彼女の意志の固さと強さを証明している。
彼女のおかげで、現に世界は生きながらえていた。
けれど、本当にそれで良いのだろうか?
「……じゃあ、いつか、魔王を倒して悪魔がこの世からいなくなったら? そしたらあんたは、自由になれるか?」
「……あなたの言う、自由とは?」
「好きな時に寝て、好きなものを食って、仲間と酒飲んで歌って踊ってどんちゃん騒ぎして、好きな人と好きな場所に行って、良い事も悪い事も一緒に経験しながら、気の向くままに生きることさ」
「……わかりません。産まれてこのかた、そのように生きたことがないから」
悪魔を排除することしか考えてこなかった精霊の王は、人間の言うことを何ひとつ想像できなかった。
男は眉尻を下げて、どこか寂しそうに微笑む。青空のように澄んだその瞳は、気がつくといつも少女を写していた。彼の眼差しは春の陽のように暖かく、やわらかい。
どうしてかこの時はその瞳を見ていられなくて、少女は目を逸らした。
「私にはわからないけれど……でも、あなたは、そのように生きるために戦っているのですね」
精霊よりも遥かに弱い人間が、共に悪魔に立ち向かう理由。疑問に思っていたが、今の男の言葉で合点がいった。
しかし男は、虚を突かれたように言葉を詰まらせる。
「……俺は」
違う。俺は、あんたと──。
「…………っいいや、そうだな。俺たちは"自由"を手にするために戦う。力なき花にも、咲く場所を選ぶ権利はあるはずだ」
男はかぶりを振るとようやく少女から視線を外して、遠く、ここではないどこかを見つめたのだった。
そこから季節はひと巡りし──。
男は、花園に横たわっていた。真っ白なスターホワイトの花弁は、今や真っ赤に染まっている。花弁だけではない。男の周囲には、赤い水たまりが出来ている。
誰が見ても、男の命は尽きていた。
少女を見つめる時だけ柔らかく細まった空色の瞳は、もう彼女を映すことはない。
少女はただ、黙って男の青白い相貌を見下ろして──やにわに己の心臓を抉り出した。
精霊である少女の心臓は、虹色に輝く蕾の形をした結晶のようだった。
その結晶はふわりと浮かび上がり少女の手を離れると、そのまま男の胸に吸い込まれていく。すると徐々に、男の顔に血の気が戻ってきた。代わりに少女の身体は砂のように崩れていき──やがて全ては風に乗って、彼方へと消えていく。
主を失った花園はみるみる枯れ果て、あとには男ただ1人だけが残った。
***
──金獅歴1043年 種織の三月
アモルエテス王国に唯一存在する全寮制魔術学校、ノクスフロース魔術学校の校舎二階。石畳の廊下に、西日が差し込んでいる。
そのオレンジに染まった石畳を、かつかつと神経質な足音を鳴らして歩く少年がひとり。つま先が長く尖った形をした刺繍入りの革靴は、王族の学生にのみ許されるものだ。さらに、姿勢良く風を切って歩く少年を、後ろから必死に追いかける娘がいた。床に落ちる影は、少年に比べてずっと小さい。
「イシュ殿下! 精霊祭のパートナーにミレヴィナ嬢を選んだというのは本当なのですか!?」
車椅子に乗った黒髪の少女、ノクシア・ダルクローズが声を荒げる。ちょうど夕食の時間帯であるからか、長い廊下には人けがなく、声量のない掠れた声でもよく響いた。
ノクシアは魔動車椅子のレバーを操作して、先を行く金髪の少年──アモルエテス王国第三王子、イシュ・ナヴァール・アモルエテスの後を追う。
イシュは、ここに来るまでに何度も繰り返されたその問いかけに、うんざりしたように天井を仰ぎ見ると、足早に進めていた歩を緩め振り返る。不機嫌そうに眉根を寄せて、かなり下にある少女の顔を見下ろした。
「……しつこいぞ、ノクシア。僕が誰を精霊祭の舞踏会のパートナーに選ぼうが、君には関係ないだろう?」
「関係あります!……っ私は、あなたの許嫁なのですよ!? 私というものがありながら、なぜミレヴィナ辺境伯令嬢を…」
学年末に行われる精霊祭の舞踏会といえば、魔術学校の生徒にとっては一大イベントだ。皆、恋人や気になる人を誘って参加するのが通例となっている。当然、ノクシアはイシュと参加するつもりでいた。それなのに、『イシュ殿下がミレヴィナ嬢を舞踏会に誘ったらしい』という話を今朝の礼拝の折に耳にしたのだ。ただの噂であってほしい──そんなノクシアの願いをよそに、目の前の少年は心底呆れ返った様子でため息を吐いた。
「はあ……いいかいノクシア。許嫁の話は、君がそうなる前に父同士が勝手に決めた口約束でしかない」
話しながら、少年の指がノクシアの車椅子を指す。ノクシアは耐えるようにぐっと肘置きを握り締める。
「それに、魔術学校にいる間は、家柄もしがらみも抜きにして好きに付き合う相手を決める、という約束をしたはずだ。僕はミレヴィナと踊りたい。だから彼女を選んだ。なにか可笑しいことをしたか?」
「そ、それは……あくまで友人は好きに選びましょうという意味で……! それにミレヴィナは……あの女はただ“王子“と結婚したいだけです! 騙されてはいけません!」
「ノクシア……君の優秀な兄上に免じて、僕のパートナーに対する無礼は不問としよう。夕食を食べ損ねてしまう、これで失礼するよ」
第三王子はノクシアの主張にやれやれと首を振ると、背を向けて再び歩き出した。
「イシュ殿下!!」
引き止めようとする悲痛な声にも振り返らず、彼はさっさと近くの階段を降りていってしまった。ノクシアはギリギリのところまで追いかけて行ったが、そのまま階段を降りることはできないため車椅子を止める。
確かに、許嫁というのは随分と昔に決まった強制力のない約束だ。それでも、ノクシアは今日まで第三王子の婚約者としての矜持を持って生きてきた。不慮の事故で両足が動かなくなっても、それを支えとして生きてきたのに。
「私には、あなたしかいないのに……っ」
冬の名残りが残る冷たい廊下に、酷く惨めな自分の声が響いて泣きたくなった。
その瞬間。
──どんっ、と後ろから強い力で押される。
「え──」
階段の手前で止まっていた車椅子が、前に進み、傾く。そのままノクシアの身体は、なす術もなく宙に放り出された。
濃い薔薇の香りだけが、冷たい廊下に残った。




