8.旅立ち(了)
「どうぞ。使ってください」
「ああ――ありがとう」
青年はやや呆然としているようだった。手袋をはめた後で、彼は「完璧だ」と一言告げた。
「使い心地を聞きたいですけど、難しいですね。残念です」
「難しい? なぜ?」
「私はここを辞めるので」
できればどうやって使うのかも知りたかったが、仕方ない。レイリの返答に、彼が目を丸くする。
「辞める? どうして?」
「一身上の都合です」
彼らはもはや言葉もなくレイリ達を見ていた。
何か言いかけ、口を閉ざす。ぱくぱくと開閉する口が、まるで池の魚のようだ。
それにちらりと目をやり、レイリはすぐに目を戻した。
何か考えていた様子の青年が、ふむ、とひとつ頷く。
「なら、見てみるか」
「――は?」
「どうやって付与を使うのか。本来なら許されることではないが、付与師の希望なら問題ない。もちろん、君が良ければだが」
平然とした顔でとんでもない事を言う彼に、レイリは唖然とした。だが、すぐに心は決まった。
「行きます」
「分かった」
「連れて行ってください。自分の目で見たいです」
それにも頷き、青年は手元の刺繍に目をやった。
「いい出来だ。王都の付与師にも劣らない」
「……ありがとうございます」
直接刺繍を褒められたのは久しぶりだった。
忘れかけていた喜びが、じわりと胸に広がる。
もう慣れたつもりでいたけれど、とっくに限界だったのかもしれない。感謝の言葉ひとつない状況も、ララだけを大切にする彼らにも。
どれだけ頑張ったとしても、彼らはレイリを見なかった。真実が分かった時でさえ、レイリの訴えを黙殺した。確かめてくれと言ったのに、違うと頭から決めつけたのだ。
きっとこの先も、レイリを認めてくれる事はなかっただろう。
だから、もういい。
「レ……レイリ……」
声をかけられて、レイリは彼らの方を見た。
こちらを見る目は、先ほどとはまったく違っていた。
驚きと当惑、焦り、戸惑い、怯え、畏れ、その他、ありとあらゆる複雑な感情。
その中にはブライアンの姿もある。
彼は呆然とこちらを見ていた。やがてはっと息を呑み、自らのマントに手をやる。
喘ぐような呼吸の後、かすれた声で聞く。
「今の刺繍……もしかして」
似たようなものを、ブライアンのマントに刺した事があった。
彼は知っているだろう。この場にいる誰よりも。
あの時の模様と、今回の模様。細部は異なっていても、その特徴は一致している。
誰がそれを刺し、誰が祈りを込めたのか。
誰が魔力を付与して、誰がそれを仕上げたのか。
そこに込められた思いさえ、彼は読み取っていただろう。――ただそれを、レイリのものだと思えなかっただけで。
驚愕に目を見開いたまま、ブライアンは微動だにしない。マントをつかんだ指が震えたのが分かったが、どうでもいい事だった。
近くにいた別の騎士が、ごくりと喉を鳴らす。
「付与が四種? しかも、増幅の付与まで? どうやって……」
「さっきの魔力、たまに俺たちも感じてた。あれはララじゃなく、レイリの……」
ざわつく室内で、遅れて到着した団長が人をかき分ける。
彼も今の現場を目撃したひとりらしい。興奮した様子で鼻息を荒くし、意気揚々とレイリに詰め寄った。
「今の刺繍、見せてもらったよ。いやぁ、君はなかなか素晴らしい腕前の持ち主のようだな。団長として鼻が高い」
「……そうですか」
「今後もぜひ仕事に励んでもらいたい。ついてはまず、私のマントに刺繍を――」
「お断りします」
レイリがスパッと即答する。
「な、何っ?」
「もう辞めるので。というか、辞めました。ついさっき」
解雇を決めるのは団長だが、騎士団の三分の二が賛成した場合もそれに準ずる。
レイリをいらないと決めたのは彼らだ。今のレイリは騎士団をクビになっている。ほぼ満場一致で、そうなった。
だから、戻らない。
「そ、そんな勝手が許されると思うのか。とにかく私のために刺繍をしろ。さもなくば――」
「『さもなくば』?」
そこで青年の声が割り込む。彼は王都から来た直属の騎士だ。それに気づいたのか、団長はひゅっと息を呑んだ。
「問題があるなら立ち合おう。何か?」
「い……いえ」
ぐぬぬ、と団長が黙り込む。
「レ、レイリ……聞いてくれ」
目を向けると、騎士達がおそるおそる話しかけた。
「その……悪気はなかったんだ、俺たち」
「誤解があったみたいで、あの……」
「できれば今まで通り、俺たちに刺繍を……」
言葉の途中で、椅子を引いて立ち上がる。ガタンという音に、彼らはたじろいだように後ずさった。
「さようなら。お元気で」
「待っ――」
伸ばした手を断ち切るように、外出着を手に取る。
ついでに刺繍道具もまとめて抱え、レイリは部屋を見回した。
ここで数え切れないほどの刺繍をした。
いい事ばかりではなかったけれど、学んだ事もたくさんあった。難しい付与も今ではできる。貴重な刺繍もたくさん覚えた。
皮肉にも、ララが仕事をしなかったせいで、二人分の経験値が自分にはある。どこで働くにしても、それはレイリの財産となる。
「レイリ、レイリ待って、待ってちょうだい!」
ララが必死に呼びかける。
「誤解なの。ねえ、嘘じゃないのよ。あたし、ほんとに指が――」
「そうなの。気の毒ね」
「そっ、その言い方は何っ? だってあなたがあたしに……っ」
「あなたを傷つけたことなんて一度もないわ」
そうでしょう、とララを見据える。正確に言えば、何も傷ついていない指先を。
さっとそれを手で隠し、ララはなおも訴えた。
「きっ、傷ついたのよ。さっきもあたしのことを責めて、だからあたし、傷ついて……」
「だから出ていくの。何も問題ないでしょう」
「そうじゃなくて!! あたしは!!」
癇癪を起こした様子のララに、レイリは小さく息を吐いた。
「頑張ってね、刺繍」
「~~~~~~っ!!」
この先どうなるかは知らないが、苦労するのは間違いない。
今までの嘘が露見した時、彼らがララを見る目はどうなるか。
けれど、それはレイリが気にする事じゃない。
「行こう。荷物はそれだけか?」
「ええ」
「では、外へ」
手を引かれて促され、レイリは部屋の外に出た。ふわりと風が揺れ、心地よい温度に包まれる。
そこでふと思い出した。
「そういえば、魔獣討伐ですよね。私がそばにいて大丈夫なんですか?」
「問題ない。昼間見た限りでは、思ったより早く済みそうだった。この刺繍があれば、今夜中に終わりそうだ」
「そ、そんなに?」
「非常にいい出来だ。心強い」
ふ、と笑った顔はやはり美しい。
このときめきは顔がいいからか、それとも予感を覚えたからか。
不意打ちの胸の高鳴りは、妙に心を騒がせた。
「言うまでもないが、油断は禁物だ。十分注意するように」
「はい」
「多少魔獣に囲まれるかもしれないが、問題はない。慌てなければ危険はない」
歩きながら説明すると言いながら、彼は先に立って歩き出す。慌ててその後に続き、レイリは彼の背中を追いかけた。
この先何が待っているのか、まだ分からない。
けれど、これはその第一歩だ。
「魔獣をおびき寄せるには、【獣寄せ】に四大属性を加える。一番いいのは【火】だが、他の属性でも問題ない。できれば複数あると望ましく――」
彼の説明はよどみない。
それを聞きながら、レイリは胸がどきどきするのを感じていた。
魔獣は怖い。毎年襲われる人間が出て、運が悪ければ命に係わる。村にとって頭の痛い問題で、騎士団でも怪我人が続出していた。
その脅威を減らすために現れた騎士が、自分の刺繍を使ってくれる。
こんな時なのに、それは心が躍る出来事だった。
これからもっと成長したい。もっとたくさんの刺繍がしたい。
そのためにも、今はこの貴重な体験を残らず糧にしてみせる。
もっと役に立つものを、もっと正確に、もっと美しく。
それだけは、きっと誰にも奪えない。
彼がレイリを見て、一度瞬く。そして笑った。
「いい顔だ」
――この討伐で魔獣の群れを一掃し、彼は予定よりも大分早く王都に戻る事になる。
行きにひとりだった彼は、帰りに銀髪の少女を連れていた。
大事そうに刺繍道具を抱えた彼女は、辺境の村出身の少女だった。
彼女は青年とともに王都へ向かい、やがて王都騎士団の専属付与師となる。その目覚ましい活躍は、やがて彼女のいた村にも届いたらしい。その際、複数のため息が漏れたと聞くが、定かではない。
少女はやがて恋に落ち、ひとりの騎士と結ばれる。
後に二人の出会いを聞かれた時、彼女は笑ってこう言った。
「魔獣が山ほどいる中で、王都に来ないかって誘われたの」
と。
了
お読みいただきありがとうございました!
*ブクマに評価にリアクション、どうもありがとうございます。とても励みになりました。またどこかでお会いできると幸いです!
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(その後の出来事)
「多少って言いましたよね、多少って……!?」
「? そうだが、何か?」
「1200匹は多少じゃない……!!」




